礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年11月11日
 
「平和の支配」
イザヤのメッセージ(2)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書2章1-5節
 
 
[中心聖句]
 
  4   彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
(イザヤ書2章4節)

 
聖書テキスト
 
 
1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。
 
はじめに
 
 
先週から、イザヤのメッセージというシリーズを始めました。罪は緋のように赤くても、神は雪よりも白くしてくださるという大切なメッセージを学びました。今日は、イザヤが理想とする社会についてのメッセージを2章から学びます。
 
A.第2章の概観
 
1.序言(1節)
 
 
この預言がユダとエルサレムに関するものであることが宣言されます。この序言は4章までを含むものです。
 
2.平和の福音がエルサレムから世界に広がる(2-5節)
 
 
この部分は、Bの項目で詳しく取り上げます。
 
3.イスラエルにはびこる偶像礼拝(6-9節)
 
 
神の民が神から離れ、偶像礼拝に走っている悲劇が述べられます。
 
4.高ぶるものへの審判(10-18節)
 
 
その神が厳しい審判と共に臨まれると、人々の傲慢が打ち砕かれます。
 
5.神の審判の厳しさ(19-22節)
 
 
神の審判の厳しさの故に、人々はパニックとなり、モグラやこうもりのように、岩穴に隠れ場所を探すほどとなります。
 
B.平和の福音(2-5節)
 
 
今日は、2-5節に集中したいと思います。
 
1.ミカ書4章との類似について
 
 
この部分は、彼と同時代の預言者であったミカの預言と驚くほど似ています。ミカという預言者は、宮廷に出入りするイザヤとは違って庶民的な感覚を持ち、大衆の立場に立った預言を行った人です。しかし、その双方が極めて類似の説教をしていることは興味深いことです。

私がミカ4:1-5を読みますから、皆さんはイザヤ2:2-5のほうに目を留めていてください。そして、違うところだけをマークしてください。
 
イザヤ2章 ミカ4章
2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。 1 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。
3a 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」 2a 多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」
3b それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。 2b それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
4a 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。 3a 主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。
4b 彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。 3b 彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
  (対応句なし) 4 彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。
  (対応句なし) 5a まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。
5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。 5b しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。
 
この表は、ごく僅かな違いを述べたもので、他は全く同じ文章です。同じ文章が二つの異なる文書に現れるということは、以下の三つの可能性が考えられます。

@イザヤがミカに倣ったのか?
Aミカがイザヤに倣ったのか?
B双方が共通の資料に倣ったのか?

この文章だけでは上記3つの可能性のどれとは決めがたいのですが、等しくいえることは、この平和のメッセージは、当時の預言者たちの共通的なものであったということです。日本で言えば戦国時代にも匹敵する戦乱の世の中にあって、預言者たちの共通のメッセージは平和でした。

イザヤに戻りまして、2-5節までに述べられている、福音の要点を纏めます。
 
2.福音の要点
 
 
@普遍的礼拝(2節):狭い民族主義の克服

「シオンの山が他の山々の上に立つ」(2節)と記されています。シオンとは、エルサレムの東側に突き出ている山のことです。後にシオンはエルサレムと同義語として使われるようになりました。そのシオンが、神の栄光と恵みの故に、周りの山々(人々)に抜きん出て輝くというのです。エルサレムが普遍的礼拝の中心地となるのです。

「山に流れてくる」というのは物理の法則から言えば矛盾です。しかし、霊的な角度から言えば、神の恵みのあるところに、自然に多くの人々が流れてくるのは当然です。ここでの強調は「諸国民」です。ミカは特に「多くの異邦の民が」と、イスラエルでない人々が集まってくる様を描きます。イスラエルの宗教は、原則として、イスラエル人だけのものでした。礼拝において、異邦人の庭というところはありましたが、それは周辺的なものでしかなく、メインはイスラエルの祭司が生贄を捧げ、イスラエルの中のレビ族がコワイアとか礼拝の儀式を助け、イスラエル人一般がそれに参加するというものでした。

イザヤもミカも、そのイスラエル中心主義を乗り越えて、福音というものが普遍的なものだと述べます。この普遍性の強調は、アブラハムへの神の祝福の約束を受け継いだものです(創世記12:2-3「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」)この祝福が及ぶと、狭い民族主義は克服されるのです。

A普遍的な教え(3節)

全世界の民がシオンに集まってきて、神の教えを学ぶ姿をイザヤは描きます。具体的には、ユダヤ人以外の人々が、神を畏れる民として御言を学び、さらに、主の教えに全面的に帰依する姿を示します。

B普遍的な平和(4節)

「4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」神のご干渉によって狭い意味での民族主義的対立が克服され、争いの根が断ち切られる、というのがこのメッセージです。従って、戦いのための武器は必要がなくなるのです。

これは、正に日本国憲法9条のスピリットではないでしょうか。「剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し」とは、戦いの武器を捨てて、生産器具に帰ることです。戦争の道具への予算を、経済の成長予算に振り替えることです。国と国とが、その紛争の解決手段としての戦争を行わないことです。

さて、ここまではよく分かるのですが、疑問も湧いてきます。イザヤは戦国時代に生きていたわけで、その只中で、非武装中立を宣言しているのでしょうか。それともそのスピリットだけを説いているのでしょうか。或いは、将来のメシア王国で実現するであろう平和の時代を展望して、希望して、描いているのでしょうか。

答えは容易ではありません。私は、その三つの側面がみな、イザヤの念頭にあったと思います。戦国時代にあって、武器をみな捨てるほど過激ではないにしても、武器に頼らない民生重視の政策を説いたのではと思われます。勿論、完全平和は、来るべきメシアとその王国によって樹立するという展望も強くもっていたと思われます。

C模範たるべきイスラエル(5節)

「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」ここで、「私達も」といわれていることが特徴的です。世界の民に、神の知識と教え、平和の精神が満ちていく、そのプロセスの先頭に立って、模範を示すのが神の民イスラエルの役割というのです。

これを新約の時代に当てはめて言えば、クリスチャンが時代をリードするものとならねばならない、ということです。世界平和の面で、地球環境保護の点で、社会倫理の確立という面で、私達は先頭に立つものでなければなりません。また、教会が、そこに入ったら素敵だという羨ましいほどの眼を持って見られたら、伝道は半分進んだことになります。

この5節は「そうあるべきだ」という勧めですが、次に続く6節以下の「暗い現実」は、2-4節までの理想を打ち砕くものです。神の民が、神に従って生きていないのは、神の理想を妨げることになるのです。
 
3.「末の日」とは?
 
 
さて、2-4節に戻ります。冒頭の句で「末の日に」(文字通りには、「日々の終わりに」)と記されているのが鍵です。これは、預言における終末的未来です。終末的未来とは、必ずしも歴史の流れの遥かかなたではなく、この人間歴史が締めくくられる終わりと限ったものでもなく、「切迫している未来」ということです。それが、カレンダー的な長さで言えば、明日であるかもしれない、来年かもしれない、2千年後かもしれない、という風に特定的な長さではありません。長さは別として、神がなそうとしておられること、そのために人々が備えるべきことが意味されています。

さて、この2章の文脈に限りますと、次の三つが考えられます。

@イザヤの時代に圧倒的な勢力であったアッシリヤが敗北し、平定されるその近未来的な出来事、
Aメシヤの出現によって誕生するキリスト中心の平和の王国、
B最終的には、「千年王国」という形で実現するであろう平和的な王国

聖書の預言は多くの場合複合的で、上記三つを含むものと考えられます。
 
終わりに
 
1.現実の騒乱に失望せず、希望を持って進もう
 
 
ドイツ軍の猛烈な空襲を受けて、あわや陥落と思われていたロンドンの真っ只中で、チャーチル首相は高々とVサインを掲げながら、やがて来る勝利の日を約束して、民衆を励ましました。私達が直面している試練はロンドン空襲よりも厳しいものであるかも知れません。しかし、クリスチャンは「末の日」を持っています。イザヤの約束は、神の約束ですから、必ず実現します。そして、部分的にではありますが、お約束は成就しつつあります。希望を持って進もうではありませんか。
 
2.平和の創造者となろう
 
 
平和は、待っていて実現するものではありません。私達が先ず光の中を歩むことから始まります。主イエスは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)と語られました。私達一人ひとりが光の中を歩み、神との平和を保ち、人々との平和を作り出していくその小さな積み重ねの末に、国と国との平和が確立されます。私達がこの場所で、真に意味のある礼拝を捧げていることが、そして、この場所で平和のうちに礼拝共同体を形成していることが、世界全体を礼拝共同体として繋げることに寄与し、ひいては世界の平和に繋がることになるのです。

マタイ5:9に関連して、「平和の契約」という大著の中で、ウィラード・スワートリーという神学者がこのように記しています、「平和作りは・・・すさまじい悪や暴力に対する柔和で心のへりくだったアプローチ、すなわち骨身を惜しまず忍耐を要する仲裁活動を通じて、和解の実が結ばれる。これこそが暴力を解除し、和解を効力あらしめる平和つくりの働きである。この世界には祝福など存在しないと思われているところに、すなわち柔和で、心低くし、謙って神に信頼する人々に「至福」(山上の垂訓の「幸いの約束」部分)は祝福を約束しているのである。」(p55)

今日、私達は、JEA(とJEAが属しているWEA)と連帯して「迫害されている国々のために祈る」祈りの時を持ちます。この祈りも、平和に繋がるものです。平和の創造者となりましょう。

おわりに、有名なアッシジの聖フランチェスコの<平和の祈り>を祈って説教を閉じます。
 
ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えるので受け、
ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
アーメン