礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年11月18日
 
「偽りの支柱が除かれる」
イザヤのメッセージ(3)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書3章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  1   まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。
(イザヤ書3章1節)

 
聖書テキスト
 
 
1 まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。――すべて頼みのパン、すべて頼みの水、2 勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と、長老、3 五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者。4わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる。5 民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。6 そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」7 その日、彼は声を張りあげて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。
 
はじめに
 
 
先週は、2章から完全な平和が支配する理想社会についての預言を学びました。今週は、理想とは全くかけ離れた現実社会に目を留め、それに対する神の厳しい審判のメッセージです。
 
A.3章のテーマ:ユダ・エルサレムへの審判
 
 
今日は1-7節をテキストにしましたが、先ず3章全体を概観します。この章はユダ・エルサレムへの審判と題することができましょう。
 
1.支柱が除かれて大混乱が起きる(1-7節)
 
 
イスラエルの人々が頼りとしているものがみな、アッシリヤの占領によって崩壊すること、そして、それが齎す社会的混乱を描写しています。これは、もう一度触れます。
 
2.ユダの罪が示される(8-12節)
 
 
審判の理由が示されます(特に8節)。エルサレム・ユダが神に逆らったことがその理由です。
 
3.主の干渉が約束される(13-15節)
 
 
神が直接に指導なさる様子が示されます(特に13節)。
 
4.驕慢なシオンの娘達が裁かれる(16-26節)
 
 
ユダの首都エルサレムのファッショナブルなお嬢さんたちが、神の審判を受けて超惨めな姿を曝す様子が生き生きと描かれます。
 
B.支柱が除かれる経験
 
 
今日は、1-7節に集中したいと思います。
 
1.厳しい審判
 
 
この預言は、2章の後半からの続きで、エルサレム・ユダの不信仰に対する神の審判の予告です。神の審判はどんな形で行われるのでしょうか。

1)「ささえとたより」が除かれる(絵図@参照)

それは、神以外のもので、人々が信頼しているすべてのものをきれいさっぱり除くという方法で行われます。「ささえとたより」とは、「あらゆる種類のあらゆる支え」が除かれる、というのが原意です。例えば、
■偶像(2:18):神ならざる神
■糧食と水(1節):肉体のための必要
■指導者階級(2-3節):社会秩序の象徴:この中には、社会の中堅をなす軍事的指導者、政治的指導者、良い人も悪い人も含めた宗教的指導者、熟練した職人、行政能力に長けた指導者がみな含まれます。これが実際に起きたのは、アッシリヤによってユダの主都エルサレムが壊滅的な打撃を受けたときです。さらに、後代になって、バビロンによって指導的な階層が根こそぎ連れて行かれたときにもっとひどい形で実現しました。

2)支えが除かれた社会の混乱:無秩序と無責任

その結果、社会が混乱するさまが4-7節に描かれています。幼子が王様となるように要請され(4節)、着物を持っているというただそれだけの理由で、指導者として推薦されるようになります(6節)。6 そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」反対側から言うと、殆どの人が満足な着物さえ持っていない状態が伺えます。大変な無秩序・無政府的状況です。

さらに、指導者への尊敬が全く失われ、それが混乱に拍車をかけます。5節「民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。」

責任ある立場を誰も取ろうとしなくなります。7節「その日、彼は声を張りあげて言う。『私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。』」医者というのは、職業としての医者のことではなく、国民の傷を癒し、包むような指導者にはなれない、という意味です。譬えれば、PTAの会長に誰もなり手がない、というのと似ています。

このような悲惨な状況は、神以外の何物かに頼ろうとする人々への、何と皮肉な、そして知恵深い審判の方法でありましょうか。

3)シオンの娘達の暗転(絵図Aを参照)

シオンとはエルサレムの別名です。今で言えば原宿か代官山と置きかえられましょうか。そこで、「高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」娘達が、腫れ物だらけの頭となるというのです。何とも気持ちの悪い描写です。イザヤはアンチ・フェミニストだったのでしょうか。さらに描写が続きます。彼らの「足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、くるぶしの鎖、飾り帯、香の入れ物、お守り札、指輪、鼻輪、礼服、羽織、外套、財布、手鏡、亜麻布の着物、ターバン、かぶり物が除かれ」「良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。」物凄い暗転振りです。今で言えば、ブランド物で頭の先から爪先まで身を固め、エルサレムの銀座通りをシャナリシャナリと歩いていたエルサレム娘が、一夜にして難民同様の惨めな格好になってしまうというのです。

これは決して大袈裟な表現ではなく、アッシリヤ、バビロンによる包囲を受けたエルサレムが実際に体験した出来事でした。たおやかな母親が飢えの余り、自分や他人の幼児を煮て食べるまでになる、ということが実際におきました。恐ろしいことです。

近代においても、中国にいた同胞達が敗戦の知らせを受けた直後に苦しい状況に追い込まれた時に、文字通りこのようなことが起きました。先々週の特別伝道会でも紹介しましたが、満州でそこそこの生活をしていた中流階級の奥さんが、ソ連軍が満州に侵入を始めたとたんに頭を丸めて男装をし、物乞い同様の姿をしながら3人の娘を引き連れて、徒歩で釜山まで逃げてくる壮絶な物語です。
 
2.審判の理由:神への反逆(8節)
 
 
「これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行ないとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。」このような審判の第一原因は、エルサレムの民が主に背き、主の御心に逆らった行動を取ったためです。
 
3.審判の目的
 
 
偽りの支柱が取り除かれることによって、エルサレムの民は、本当に頼るべきお方が誰かを知ることができるのです。イザヤ書の一貫したメッセージは、人間の力に頼らず、活ける真の神のみ力をひたすらに信頼して動かないようにというものでした。例えば「鼻から息の出入りする人間に頼ることをやめなさい。」(イザヤ2:22)とか、「彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。」(イザヤ書 30:2,3)というようなメッセージが繰り返されています。

そして、人の助けに頼らず、すべての助けの源である主ご自身に信頼の眼を向けるようにと語ります。「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」(31:1)と語り、さらに、「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」(イザヤ26:3-4)と私達の絶対的信頼を主ご自信に置くことを勧めます。
 
C.現代の私達への警告
 
1.偽りの「支柱」に頼っていないだろうか(絵図B参照)
 
 

私達信仰者は、「人の助けはむなしい」(詩篇60:11)ということを知っているはずですが、日常の心の営みでは、いつの間にか、神以外の何物かに信頼を置いてしまっていることはないでしょうか。

バブルが崩壊し、経済が流動的になり、さらにグローバル化によって金融再編成が進み、会社は絶対とか、この銀行は大丈夫という保証がなくなりました。それまでは、会社にいれば大丈夫、この銀行にお金を預けていれば大丈夫という神話が支配していました。自分の健康、知的な能力、経験、家族、年金、その他、何でありましても、私達の安全の源である神への信頼を弱めることになってはいけません。

この会堂も4周年を迎えました。主のためにこの会堂が尊く用いられていることは感謝です。この会堂を通してより有効な伝道と教会建設が進められねばなりません。そのために工夫もし、祈り、労したいものです。しかし反面、この会堂があれば大丈夫という考えが少しでも潜みますと、それは建物信仰になってしまいます。エレミヤの時代に人々は、バビロンの軍勢に取り囲まれて正に風前の灯となりましたが、神殿がある我が国は不滅だという偽りの信仰を抱いて、神の教えに歩もうとしませんでした。これに対してエレミヤは、「あなたがたの頼みとするこの家、わたしの名がつけられているこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に、わたしはシロにしたのと同様なこと(徹底的な破壊)を行なおう。」(エレミヤ7:14)と、神殿の破壊を預言します。彼は、目に見える神殿の破壊の末に、人々が目に見えない神への信頼を新たする霊的な回復を預言しています。

私の伯父は陸軍の軍人でしたが、同時に筋金入りのクリスチャンでした。伝道が本業で軍務は副業だ、と言って舌禍事件を起したほどの証人でした。しかし、信仰を持ち始めの彼は、あちこちで説教や証を頼まれると、彼の牧師が語ったメッセージの受け売りをしていました。自分の教会で説教を聴く時、牧師のメッセージのポイントを克明に聖書のマージンに書き止めておき、招かれて説教するときは、それを繰り返していたのです。ある日、彼は電車の網棚にその聖書を置き忘れてしまいました。教会に着いたときに気がついてさあ大変、彼はひたすらに聖霊の導きを仰ぎ、聖書の著者である聖霊の教えてくださるままに説教しました。その経験が、彼に、目に見えるものに頼らず、神ご自身に直接頼るという信仰の飛躍を与えました。神様は時々このようないたずらをなさって、私達の信仰の拠り所を験しなさるユーモアをお持ちのお方です。
 
2.神への絶対的信頼を言い表そう
 
 
私達は、「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」(イザヤ26:3-4)の御言を自分へのメッセージと捕らえて、主への信仰を告白し、その信仰に歩み続けようではありませんか。
 
お祈りを致します。