礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年11月25日
 
「とりなしの祈り」
聖日礼拝
 
竿代 照夫牧師
 
創世記18章22-33節
 
 
[中心聖句]
 
  22   アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
(創世記18章22節)

 
聖書テキスト
 
 
22 その人たちはそこからソドムとゴモラのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
26 主は答えられた。「もしソドムとゴモラで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。
 
はじめに
 
 
今日は、カリンガル博士がこのテキストからメッセージしてくださるはずでしたが、昨日、ビザの関係で来日不可能という知らせを頂きました。色々祈りつつ考えましたが、私なりに先生が用意されたテキストから教えられていることをお分かちしたいと導かれ、急遽備えました。
 
A.物語の背景
 
1.ソドムとゴモラへの審判が告げられる
 
 
これはアブラハムがおいのロトの救いのために真剣に祈って、答えられた「執り成しの祈り」に関する記事です。アブラハムが99歳のとき、主は、三人の御使いの姿をもってアブラハムを訪れます。その時、イサクの誕生が予告され、同時に、罪にまみれているソドムとゴモラを滅ぼすことが告げられます。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」(20,21節)
 
2.アブラハムはソドムとゴモラのために執り成す
 
 
アブラハムは、この予告に驚愕します。確かにソドムとゴモラは滅ぼされて当然のような悪事の限りを尽くした町ですが、そこには、アブラハムの愛する甥のロトとその家族がいます。アブラハムは、三人の御使いを見送りに町外れに来ますが、二人を送り、残った一人と問答を始めます。それは、実は主ご自身であるのですが、その主に対する執り成しの祈りとなります。

さて、「執り成しの祈り」とは、神の立場と人の立場を結びつけるものです。たとえて言えば、左の手で神を握り、右の手で人を握って結び合わせるようなものです。アブラハムは神の友であり、同時に滅び行く人々の友でもありました。つまり、神と人との架け橋だったのです。左の手で神を握った側面と、右の手で人を握っている側面と、二つの角度から、アブラハムの祈りを見たいと思います。
 
B.神の御手を握る祈り
 
1.アブラハムは、神の重荷を分け持った
 
 
ヤコブ2:23には「アブラハムは神の友と呼ばれた」と記されています。どのような意味で友だったのでしょうか。それは、神が親しく彼を訪問することで表わされました。神を客として招き、親しく交わる時を持つとは、何と幸いなことでしょうか。主イエスもまたこう語られました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)友情というもの、共に食事をすることで培われます。

さて、友が友であることの最大の現れは、その秘密を分かち合うことです。私達は重荷や個人的なことを誰でも彼でも話すということはしません。信頼できる人だけに分かち合います。

アブラハムに対して、神はその友として、その重荷を彼に分かちました。「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。』」(17節) 神の重荷が分かち合えることこそ、大人のクリスチャンの徴です。アブラハムが聞いた神のメッセージとは、ソドムとゴモラの叫びは神に届いたこと、その罪は赦し難いほど恐ろしいものであったこと、そして、神はその罪を看過なさらず、町全体を滅ぼそうと決めておられることでした。
 
2. アブラハムは、神の立場に立って祈った
 
 
アブラハムが祈ったとき、彼は「私の甥っ子があそこにいますから、どうか町を滅ぼすことはご勘弁ください。あいつは、私を出し抜いて肥沃な場所を選ぶほど抜け目のないやつですが、でも神を畏れているという良い所もあります。あいつが悪い連中と一緒に滅びるのは見るに忍びませんから、何とかお慈悲をかけてください」という言い方をしませんでした。そう祈っても良かったでしょうし、その気持ちがなかったといえば嘘でしょう。しかしアブラハムの祈りはもっと崇高なものでした。「もしソドムとゴモラを滅ぼしたら、あなたのお名前が損なわれますよ。それでもいいのですか。それは困るでしょう。」と神の立場に立って訴えたのです。一種の脅しのようですが、神の立場に立って祈っているのです。「神様、あなたは、義なる神です。その義なる神が、正しいものも悪しき者と一緒に、言わば味噌も〇〇も一緒になさったら、あなたの義はどうなってしまうのですか。」という風に畳み掛けられれば、神様でさえも聞かざるを得ない説得力を持っています。

私達も、あれをしてください、これをしてくださいとアラジンがランプの精に命令するような祈りの態度であってはなりません。「主の祈り」は何から始まりますか?「聖名が崇められますように」ではないでしょうか。これは、「日用の糧を与えてください。」の前に置かれています。私達は、祈りの最中でさえも自己中心であり得ます。食べ物を下さい、健康を与えてください、仕事をうまくやれるようにという物乞い的祈りで終始してはいないでしょうか。暫く立ち止まって考えましょう。本当の祈りは、神のご関心から始まり、神の栄光と御国のためのものであるべきです。アブラハムは、神のお立場を考えることから祈りを始めました。
 
C.人々の手を握る祈り
 
1.ソドムとゴモラの救いのための条件闘争
 
 
ソドムとゴモラの審判の知らせを聞いたとき、アブラハムの心にかかっていた関心が、甥のロトとソドムとゴモラ・ゴモラの町にあったことは自然です。滅び行く魂に対するこの関心が、祈りの動力となったことは疑えません。

アブラハムの祈りのしつこさを見ましょう。アブラハムは、賃金を巡って経営者と団体交渉をしている労働組合の委員長のように、条件交渉を行っています。ソドムとゴモラを滅ぼさない条件として、50人の義人が居ればどうでしょうかと切り出します。50という数字はやや楽観的数字です。そのくらいは正しい人がいるかもしれないという所から、「50人の義人を、何千人という悪人と一緒に滅ぼすのは、神様、あなたのご性質にもそぐわないことではないでしょうか」と切り出すのです。

そこから始まるのですが、少し心配になって45人ではどうかと切り下げます。もっと心配になって、40人では、30,20,10人では?と条件を下げて行き、最後は10人で打ち止めします。丁度バナナの叩き売りのような感じです。何故アブラハムの祈りはこのように執拗なものであったのでしょうか。それは、彼の祈りが滅び行く魂への情熱に基づいたものだったからです。一方においてアブラハムは、神の友として、神の立場に立って祈りました。他方で彼は、滅び行く魂の友として、彼らの救いを祈ったのです。私達も、友達、家族・親族に対して、同胞に対してこのような重荷を持ちたいものです。

アブラハムの時代と私達の時代は大差ありません。どちらかといえば、より悪い時代に生きています。生きる目的を持たない、若い人々が、暴力、麻薬、セックスに走っています。老後の楽しみと希望を失った高齢者の多くが自殺の道を選んでいます。このような人々のために私達は何が出来るのでしょうか。祈ることです。
 
2.アブラハムの「誤算」(?)
 
 
疑問が一つ残ります。何故アブラハムは10人で止めてしまったのでしょうか。私が推測しますのには、彼は以下のように暗算したということです。ロトは正しい人でした。ロト夫人もご主人に従っていたと推測しました。二人の娘も小さいときから神様を畏れていたから大丈夫、その伴侶者も当然信仰者から選んだであろう、これで6人、あのロトの家庭で使用人も居るし、少なくとも4人くらいは信仰者が居るだろう、という計算です。

悲しいかな!実情からいいますと、正しい人はロトだけでした。それも積極的に証するような輝いた信仰者ではなく、引っ込み思案で、そっと信仰を保っているタイプの信仰者でした。第二ペテロ2:6-8には、こう記されています、「(主は)ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」私達も、周りの悪に加担せず、その悪に心を痛めるものの、何の積極的な証も立て得ないクリスチャンになってはならないと反省させられます。

ロト夫人は、世俗的な女でした。二人の娘も、道徳的には疑わしく、その婚約者達は無神論者でした。まして、それ以外の人々で信仰者は居ませんでした。何と悲しい絵でしょうか。アブラハムがこの実情を知っていたならば、もう少し、条件を下げる交渉をしたかもしれません。

さて、この祈りで、実際に救われたのはロトとその二人の娘だけでした。いずれにせよ、アブラハムの祈りは部分的には答えられたのです。

私達もまた、兄弟、家族、友達の救いのために祈ろうではありませんか。
 
D.アブラハムの謙虚さと大胆さ
 
1.謙虚さ
 
 
アブラハムの祈りから学ぶのは、その謙虚さです。彼は、主に近づくとき、自分のことを「塵と灰」と言いました。塵とは、地面の一番小さな粒のこと、灰とは、焼け残った物質のことです。この表現は、アブラハムが、自分の魂を神のご臨在の前に低く置いていることを示します。アブラハムが、神のご栄光を如何に高く考えているか、罪ある自分を以下に低く考えているかを示す言葉です。
 
2.大胆さ
 
 
アブラハムは、謙虚さと同時に、親しさと大胆さを持って神に近づきました。同執拗さを持って主に食い下がりました。神は、アブラハムがその執り成しの祈りを止めるまで、憐れみを示す問い約束を止めませんでした。そのすべての祈りは答えられました。正しい人の力ある信仰的な祈りは大きな働きをするということです。

これは私達が親族や友達のために祈るときに、どれだけ大きな励ましを与えて下さることでしょうか。主に対する信仰は、祈りに全能の力を与えます。その祈りがどんなものであっても、キリストの聖名の下になされるとき、御父は聞き給うのです。祈りは天国の門です。信仰がなければその門は開きません。祈るべきように祈っている人は、平安の福音が齎す恵みの十全さを得ます。
 
おわりに
 
 
私達もまた、友のために、情熱を持って祈り続けようではありませんか。
 
お祈りを致します。