礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年12月2日
 
「インマヌエル預言」
待降節講壇(1)
<イザヤのメッセージ(4)>
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書7章1-17節
 
 
[中心聖句]
 
  14   主自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
(イザヤ書7章14節)

 
聖書テキスト
 
 
1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。3 そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、4 そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。5 アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。6 『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。
7 神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。8 実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。――六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。―― 9 また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」10 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。11 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
12 するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。15 この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。16 それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。17 主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」
 
始めに
 
 
今日から待降節に入りました。ちょうどイザヤ書のメッセージ・シリーズが3章まで来たところでもありますので、メシア預言が続く7章、9章、11章という順番で学びたいと思います。7章は、イエス・キリストの預言的な呼び名である「インマヌエル」のメッセージが語られる大切な部分です。
 
A.預言の時代背景
 
1.アッシリヤ帝国の野望
 
 
BC9世紀半ばから、アッシリヤは世界制覇の野望を抱き、その勢力を西へ西へと拡げて行きます。8世紀半ばには、アラム、イスラエル、ユダという順序で国々を滅ぼし、完全制覇を狙って、強力な軍隊を向けます(絵図参照)。

 
2.アラムとイスラエルの画策
 
 
この危急存亡の危機にぶつかって、アラムとイスラエルは、反アッシリヤ同盟を結んでこれに対抗しようとします。さらに、南ユダ王国に対しても、その同盟に入るように誘うのですが断られます。強大なアッシリヤに対抗するためには、アラムとイスラエルだけでは力不足で、ユダの加入がぜひとも必要であったために、この二国はユダに攻撃を仕掛けます。ユダを揺さぶって、ユダのアハズ王を退位させ、タベアルの子を王に立てて、「かいらい政権」を作ろうと画策します(1,2,6節)。
 
3.ユダ王アハズの煮え切らない態度
 
 
ユダのアハズ王が反アッシリヤ同盟に入ろうとしなかった真意は、信仰的な理由ではなく、アッシリヤの助けを得ようとしたからのようです。第二列王16:7-9を読みます。「アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。『私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。』 8 アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物として、アッシリヤの王に送ったので、 9 アッシリヤの王は彼の願いを聞き入れた。そこでアッシリヤの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕え移した。彼はレツィンを殺した。」そして、16:10以下を見ると、アッシリヤの宗教を受け入れ、ヤハウェへの信仰を捨てようとさえしたことが伺われます。

確かにアハズは、二国同盟の攻撃という当面の危機は逃れましたが、アッシリヤへの裏工作によって、アッシリヤへの隷属することとなりました。私達は、いかにしばしば、アハズのような人間的画策、あるいは猿知恵を弄して、自ら罠にはまってしまうことが多いことでしょうか。イザヤが、神は助けてくださる、その徴を求めなさいと語った(11節)のに答えて、アハズは神を試みない、しるしを求めない(12節)と謙遜を装ってはいますが、腹の中では、神様なんかに頼らなくったって、自分で策は講じてあるわい、と思っていたのです。
 
4.預言者イザヤのメッセージ
 
 
王の心と民の心が、林の木々が風で揺らぐように動揺している(2節)のを見たイザヤは、自分の子供のシェアル・ヤシュブ(残るものは帰ってくるという予言的な意味の息子)と一緒に、上の池の水道の端に立ってアハズと面会を求めて、メッセージを語ります。

彼のメッセージは何か。

@「恐れるな」:
二国同盟の攻撃は成功しない、二国同盟の企みは成就しない、それどころか、二国そのものが歴史から消えうせるというものです。「静かにせよ。恐れるな。心を弱らせるな。」(4節)とイザヤは語ります。静かにせよ、とは人間的画策を止めなさい、というメッセージも含んでいます。アハズは、二国を恐れるの余り、その向こうのアッシリヤと手を組もうとします。それが最大の罠となって、そのアッシリヤに、滅ぼされてしまうのが歴史の語るところです。

A「信じよ。」:
神を信じ、固く立ちなさい(9節)と語ります。言い換えれば、神を畏れての独立政策を取りなさい、信仰を失ったらこんな難局に沈没してしまう、と警告しているのです。

B「インマヌエル」を見よ:
神が私達とともにおられ、私達を助けてくださる、その徴が、「インマヌエル」と呼ばれる子供の誕生である、そのインマヌエルが育つ前に二国同盟は壊滅するというのがイザヤのメッセージです。さて、インマヌエルとは何でしょうか。
 
B.「インマヌエル」誕生の預言
 
1.奇跡としての誕生
 
 
インマヌエルと呼ばれる子供の誕生は、徴としての意義をもっていました(14節)。しるしは奇蹟とは同義語ではありませんが、明らかに主の業と分かるものでなければなりません。その奇跡性が、処女からの誕生です。

処女として言われているへブル語は、「ハ・アルマー」です。アルマーは、未婚の女性という意味も持っていましたので、処女と限定しなくてもよい、という解釈もあります。さらに、特に処女性を強調するへブル語がベトューラーであるので、アルマーは、限定的に処女性を示さないという解釈も可能です。しかし、聖書全体の使い方を見ると(創世記24:43、出2:8、箴言30:19、詩篇68:25、雅歌1:3、6:8)、処女と訳すのは自然です。今日のように、未婚と処女が殆ど同義語でなくなっている恐ろしい現状とは全く違って、未婚が処女を意味していたのが時代の背景であったことも覚えなければなりません。
 
2.インマヌエルの意味
 
 
これはヘブル語で、「神が私達とともにおられる」との意味です。詳しく言いますと、「インマ=共に、ヌー=私達と、エル=神」ということになります。この意義は非常に深いものです。つまり、神は絶対者として、私達から超越した遠いところから支配をしておられるだけではなく、内在者として、私達の歴史のなかに、社会の中に、家庭の中に、心の中に働いておられるというメッセージを含んだ言葉です。詩篇 138:6には、「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。」と記されています。何という励まし、慰めでしょうか。
 
3.インマヌエルとは誰?
 
 
奇跡的誕生をする子どもが誰のことかについて、いろいろな示唆がなされてきました。@イザヤの子供、A同時代の無名な子供、B比喩的または象徴的人物、Cヒゼキヤ王。そのどれを取っても、奇跡性はありませんし、曖昧です。どうしてもDイエス・キリストを指す、としか選択肢はないと私は思います。
 
C.インマヌエルの励まし
 
1.イザヤ時代の人々にとって
 
 
インマヌエルという子供の成長以前に、二国同盟は粉砕されるはずでした。インマヌエルという子供の誕生は、イザヤの700年後に成就する筈の長期預言ではありましたが、時を乗り越えて歴史を見る預言者は、これを信仰的展望によって既定の事実として先取りし、神がこの世界に干渉なさるというメッセージとして受け止めて民を励ましたのです。神が臨在し、働いて居られるなら、私達のなすべきことは、そのお方に信じ依り頼むことしかないではないか、これがイザヤの一貫したメッセージだったのです。
 
2.イエス時代の人々にとって
 
 
インマヌエルと呼ばれる神の御子キリストが地上に生まれたことは、神が人間の形を持って生まれた受肉(incarnation)の真理を示します。クリスマスで、キリストが誕生されたこの事実こそ、神が私達と近くあって下さる証拠なのです。神を見た人はいません。しかし独り子なるキリストがこれを表わされたのです(ヨハネ1:18)。私達は、イエスの中に神の栄光をみます。神の栄光を分析すると「恵みと真」であるとヨハネはいいます(1:14)。

神は遠くに存在するおかたではなく、われらの内にすみ、生きていてくださったのです(1:14)。それは、私達人間の苦しみや悩みを理解して下さるお方となるためだったのです。その意味でもキリストはインマヌエルなのです。
 
3.私達にとって
 
 
私達は、クリスマスの事実を過去の出来事として見ています。私達はクリスマスを将来の出来事として見ていたイザヤよりもっと有利な立場にいるはずです。私達の信仰が、イザヤ以下の信仰であって良いはずはありません。

もっと有利なことに、インマヌエルなる神の内在は、聖霊と言うお方によって私達の内なる事実とされるということです(ヨハネ14:17「その方は真理の御霊です。・・・その方はあなた方とともに住み、あなた方のうちにおられるからです。」)キリストは、聖霊によって私達の心の中に住みなさいます。ですから、このおかたに依り頼んで歩む信仰をしっかり確立したいものです。
 
D.信仰への挑戦
 
 
終わりに、私達の抱くべき信仰についての挑戦をいただきたいと思います。
 
1.ぐらつかない信仰(詩篇112:6,7)
 
 
信仰の大切な要素は、ぐらつかないということです。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」とイザヤは言います。英語欽定訳は、“If you will not believe, you shall not be established.” と訳しますが、国際標準訳は“If you do not stand firm in your faith, you will not be supported.”と訳します。要は、あなたの信仰がぐらぐらしてはいけない、ということなのです。私達は、自分の告白に留まるべきです。ふらふらしてはいけません。信じるといったら、その信仰に留まるのです。撤回してはいけません。高いところで仕事をしたことがありますが、高所恐怖症の私は、ふらふらとしてしまいました。私のベルトを支えていた笠原さんが一喝「しっかとせんか!」と私を叱りました。笠原さんの支えを信じてふらふらしない、正に信仰の学課でした。

詩篇112:6,7「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。」

信じるとはヘブル語で「アマン」です。これは、家の土台である重い石が揺らぐことなくしっかりと家を支えている状態をさす。さらに、しっかりしたものに依り頼む行為を差します。この聖句では両方とも「アマン」が使われている、「もしあなたがたがしっかりとした信頼を(神に)持たないならば、あなたがたは支えられない。」という意味です。神は信頼に足りるお方です。その方に自分自身を預け切ってしまうこと、これが信仰です。もしこの信仰がゆらいだら、私達が滅びるのです。
 
2.個人的な信仰
 
 
アハズは彼自身の信仰に立たねばなりませんでした。親の信仰に頼る訳にはいかないのです。預言者に頼るわけにもいきません。自分でしっかりと立つべきなのです。
 
3.神とその言葉に基づく信仰(マタイ24:35、Uテモテ3:14)
 
 
私達が信仰に立つというとき、それは変わらない神のお約束に立つのです。マタイ24:35「天地は過ぎ行く。しかし、私の言葉は過ぎ行かない。」と、神の言葉は変わりません。私達は、日常生活の中で、神の言葉を自分で学び、確信した所に留まり続けるべきなのです(Uテモテ3:14)。天地は過ぎ行き、思想も変わり、環境も変わり、私達の常識も変わります。しかし、神の言葉は何時までも変わりません。その御言に土台を置く信仰とは、如何に安心なものでしょうか。
 
終わりに:「インマヌエル」の主に信頼を!
 
 
頼りがいのある主に私達の信頼をおきましょう。ぐらつかないで、このお方に一生涯仕えましょう。
 
お祈りを致します。