礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年12月9日
 
「ひとりのみどりごが生れる」
待降節講壇(2)
<イザヤのメッセージ(5)>
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書9章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  6   ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
(イザヤ書9章6節)

 
聖書テキスト
 
 
1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
 
始めに
 
 
昨週は、イザヤが行ったインマヌエル預言の背景と意義を学びました。今日は、インマヌエル預言の継続として、9章から「私達に与えられる幼子」に焦点が当てられています。この場所も大変有名な場所で、特にヘンデルのメサイアでは“For unto us a child is born, unto us a son is given. …And his name shall be called Wonderful, Counseller, the mighty God, the everlasting Father, the Prince of Peace.” というすばらしい合唱曲です。
 
A.「インマヌエル」預言と「みどりご」預言
 
1.7章のインマヌエル預言(復習)
 
 
昨週のインマヌエル預言について、簡潔に復習をしたいと思います。この7章の預言は、イザヤの活動の初期、アッシリア王ティグラテ・ピレセルの侵略を目前にしたアラム王レツィンと北イスラエル王ペカとが反アッシリア同盟を結び、南ユダ王アハズに対してその同盟に加わるようにとの圧力をかけたことがその背景です(昨週の絵図参照)。

アハズがこの同盟加入を断ったので、アラムとイスラエルは戦争を仕掛けます(BC734)。イザヤはこの危機のまっただ中で、神を恐れ、神に依り頼む絶対中立を叫びます。その神の助けの象徴が、「インマヌエル(神、私達と共に)」と呼ばれるメシア的な子供の誕生です(7:14)。彼はこの理想的な王の誕生と成長の中に神の民の霊的および政治的な復興を見ているのです。
 
2.預言の延長としての8章(特に7,8節)
 
 
そのインマヌエル預言が、敷衍されているのが第8章です。詳しく学ぶことができませんが、8章の言おうとしていることを纏めた7、8節を読みます。「それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」

歴史的出来事としてこれを見ますと、

@反アッシリヤ同盟を組んだアラムとイスラエルは赤子の手を捻るようにアッシリヤに滅ぼされた(前者はBC732年、後者は721年)。

A勢いを駆ったアッシリヤはユダに侵攻し、その殆どの町々を滅ぼす、それは、洪水のような勢いであり、ユダは首(首都)を辛うじて突き出して生き延びる程度である(701年前後。地図参照)。

Bイスラエル北部は壊滅的打撃を受ける(22節)。北イスラエル侵攻の折、ティグラテ・ピレセルは、「ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕え移した。」(2列王15:29)のです。22節は、その締めくくりの言葉です。「地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」正に真っ暗な状態です。
 
3.イスラエル北部の回復(9章前半)
 
 
@暗闇に光が当てられる(マタイ4:13-16):

1節は、壊滅的打撃を受けたイスラエル北部に光が与えられる、と約束します。この預言はイザヤ時代にも部分的に成就しましたが、完全な形では、遠く700年後に文字通り成就しました。マタイ4:13-16に、主イエスがその宣教の拠点をガリラヤに置いたことが、イザヤ預言の成就と記されています。「そして(イエスは)ナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、15 『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』」

その回復の約束は拡がって、暗さを照らす光(2節)、喜びの増大(3節)、圧迫からの釈放(4節)、争いから平和(5節)と豊かなものになります。人間的に絶望の状況こそ、神の恵みが働くことをこの預言は力強く物語ります。

特にこの文節での強調点は、5節の戦争の終焉です。戦争の忌まわしい道具は、不必要なものとして焼き払われます。イザヤの徹底した平和主義は2章にも表れています。詩篇46篇もこの時代を反映していると思われますが、同じ思想を語っています。「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。」(詩篇 46:9)

A平和が支配する:

その平和は、6節のみどりごの誕生と支配によって可能となります。みどりごの誕生は、神が強力な武力によってではなく、平和の理念によって世界を治めなさるという平和主義の象徴なのです。ですから、この6節は、「何故なら」と言う言葉での始まっています(新改訳には訳出されていないので残念ですが)。神はイスラエルを回復される、何故なら、メシア的な子供を誕生させなさるから、と繋がっているのです。
 
B.「みどりご」というプレゼント(6節a)
 
 
6a ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 
1.普通の赤ちゃん
 
 
「ひとりのみどりごが・・・生まれる。」とは、何という素朴な書き出しでしょうか。成人した逞しい男が白馬に乗ってラッパと共に現れるというのではなく、預言されたメシアは、普通の人間として、何の変哲もない赤ちゃんとして登場するというのです。赤ちゃんというのは、正に何の助けもない、ひ弱で、頼りない存在です。メシアがこんなに頼りない、普通っぽい登場で良いのでしょうか。私はそこに神の知恵があるように思います。クリスマスは、ピリピ2章でパウロが述べているように、「神の謙り」の表れなのです。神が人の形をもって現れなさった、この驚くべき真理を「受肉」と言いますが、それは神の謙りなのです。

神のメッセージは、軍事力と軍事力の衝突、騙したり騙されたりの政治的駆け引き、人間的権威を振りかざして人を支配しようという醜い渦巻きからかけ離れて、恵みと愛と平和の原理で世を治めようという意図を、このみどりごによって示そうとされたのです。神は、力には力をもって治める全能のお方です。しかし、そのむき出しの力を用いずに、愛をもって世を治めようとしておられます。
 
2.私達へのプレゼント
 
 
私達のために、と言う言葉が二度繰り返されています。このみどりごは、私達のために(私達の益のために)うまれ、私達に対して(ギフトとして)与えられました。イザヤが「私達のために」と言ったときには、全ての人間を指していました。私にも、あなたにも、みんなのための贈り物です。私達の真の幸福のための贈り物です。罪によって損なわれた私達がその罪から救われ、清き生涯を送る力を与えるためです。私達が抱えている全ての問題について、根本的な解決を与えるためのプレゼントなのです。
 
3.与えられた(預言的完了形)
 
 
預言というものは、時を超越しています。新改訳聖書では、「生まれる。与えられる。」と現在形、あるいは将来的な見通しとして訳されていますが、忠実に訳せば、「生まれている。与えられている。」です。完了形です。出来事としては、イザヤ預言の700年後に起きる訳なのですが、イザヤはこれを、恰も昨日今日起きた出来事のように新鮮なものとして述べています。これは預言的完了形とも言える言い方で、将来を先取りして喜んでいます。
 
C.みどりごの呼び名
 
 
6b 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
 
このみどりごは、主権者、指導者として現れました。勿論赤ちゃんの時からではなく、成人して、公の務めに当たるようになってからではありますが、世の指導者となりました。その名前が四つ記されています。
 
1.不思議な助言者
 
 
昔の翻訳は、「不思議」と「助言者」と区切って、不思議、そして助言者、そして「力ある神」という風に、5つの名称と考えました。メサイアの元になった英語欽定訳もそうです。ワンダフル、で切って、カウンセラー、ザ マイティ ゴッドと繋がります。でも、最近の翻訳はワンダフルを形容詞的に解釈して、「不思議な助言者」と繋げています。私もそう思います。メシアを不思議な助言者と紹介するのは何故でしょう。それは、神の不思議を述べ伝えるメッセンジャーとして、神の勧告を私達に伝達するお方としての役割を持っておられたからです。ヨハネ1:18を見ますと、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と記されています。神についての私達の不思議を解き明かして下さる、その使命を帯びて、神が人となられたのです。
 
2.力ある神
 
 
私は「大能の神」と訳して欲しかったと思います。この呼称は全能の力をもって世を治めるお方を意味します。みどりごと大能の神、全く異なるイメージですが、人間イエスの内には、みどりごから成長された普通の人間と、宇宙の支配者なる神が共存しておられました。ここに人となられた神(受肉)の神秘があります。イエスは、普通の人間が段々宗教的な悟りを開いて、神的な存在になった(或いは弟子達によって神として祭り上げられた)のではなく、はじめから、神たるお方が人の形をもって生まれなさったのです。
 
3.永遠の父
 
 
この名称は永遠性と父たること(父性)を合わせています。永遠性は神だけの属性です。人間は限られた時間、空間の中に生きています。それと比べて、神は始めなく終わり無く、いつまでも存在し給う永遠のお方です。

この永遠の神が父性を持っておられる。被造物を生み出し給うお方として、愛と配慮と計画とを持った、人格的なお方であることを示します。その呼称が、ひ弱で頼りないみどりごに帰せられるのです。
 
4.平和の君
 
 
彼は平和のプリンスです。ヘブル語のシャロームとは戦争がない状態だけではなく、豊かで調和のとれた、そして積極的な幸福の状態を指します。

キリストは、平和そのものでありました。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2:14,15)彼は、ご自分の犠牲の死を通して、神と人、人と人の和解の道を開かれました。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させて下さったからです。地にある物も天にある物も、ただ御子によって和解させて下さったのです。」(コロサイ1:20)そして平和の精神を持って私達の心を支配して下さるお方です。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:15)

メシアが「平和の君」と呼ばれる理由は、彼自身が平和的なお方であり、平和的な方法で平和を齎すお方だからです。イザヤ11:8には「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」子供の無邪気さ、無害性がコブラやまむしをも友達とする平和な国の光景が描かれていますが、メシアは、強権をもって国を治めるのではなく、平和な人格を持って、国を治められます。
 
D.みどりごの王国(7節)
 
 
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
 
1.ダビデの王座に着く
 
 
メシア的な王は、「ダビデの王座」に着きます。歴史の中に出てくる王様の一人としてではなく、神の国の指導者として、永遠に治めなさるのです。その国は増大し、平和は進んでいきます。このお方は、ダビデの家系から出ることも示唆されています。これは、11章でもっと明らかにされますので、今日は詳しく述べません。

さて、実際のダビデ王朝はと言いますと、この時から約150年後に滅びます。永遠ではなかったのです。ですから、この約束は、目に見えるダビデ王国のことではなくて、目に見えない神の国の事を指していることが分かりましょう。主イエスもまた、「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と、神の国の内面性を説いておられます。
 
2.王国は成長する
 
 
この王は、裁きと正義によってその国を堅く建てる、と記されています。この世の国々においては、正しくない判断、不正義、不公正、不公平、暴力的統治、仕返しの論理が、国の内外の緊張関係を増幅していることでしょうか。メシアの統治は公平、正義、知恵、行き届いた配慮、計画性がその特色です。

その主権は増し加わり、とありますように、キリストの王国の範囲はどんどん広がっていきます。最初に弟子達の心に、そしてその周りに、ついには世界を覆うまでに至りました。この平和主義は、暴力主義や実利主義の前にはひ弱のように見えますけれど、決して敗北はしません。パウロが語りましたように、「善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)という教えは迂遠のように見えても、堅実な勝利の道です。遂には全ての者が彼の足の下に平伏す終末を望んでの拡大です。今の世が続く限り、絶対的な平和は望めないでしょう。しかし主が再び来られて今の世を締め括りなさるときに絶対平和が成就します。その日を待ち望みつつ祈り、御国の拡大のために働きましょう。
 
3.神の熱心がこれを成し遂げる
 
 
この王国を確立するのは、神の熱心であります。神は、この乱れた、暗い世をクールに見ておられるお方ではありません。熱情と愛をもって、この世の歴史に入り込みなさいます。その熱心の表れがクリスマスであり、カルバリでありました。神は同じ熱心をもってこの21世紀の社会に働いておられます。主を信じましょう。
 
終わりに
 
1.感謝しよう
 
 
一人のみどりごが私達の為に生まれた、私達に御子がプレゼントとして与えられたことを心から感謝しましょう。そのプレゼントを素直に感謝して心の中に頂きましょう。
 
2.私達が平和を造り出すものとなろう。
 
 
私達の置かれた環境で、与えられた範囲で、平和の君の代表者として平和を造り出しましょう。私達に和解の務めが委ねられていることが、Uコリント5:18に記されています。私達は世をキリストに対して和解させるための使節です。世の争っている諸勢力を和解させる務めも与えられています。小さくは、争っている家族のメンバー、職場、学校、地域社会にあって和解の使者なのです。
 
お祈りを致します。