礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年12月16日
 
「『切り株』から救い主が」
待降節講壇(3)
<イザヤのメッセージ(6)>
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書11章1-10節
 
 
[中心聖句]
 
  1   エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
(イザヤ書11章1節)

 
聖書テキスト
 
 
1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。3 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
 
はじめに
 
 
待降節第三の聖日を迎えました。今年は降誕の事実を「預言の成就」という角度から学んでいます。待降節に入ってから、7章のインマヌエル預言という約束、9章のみどりご誕生の予告、と続けて、今日は11章からメシアの描写から学びます。メシア預言に関して言えば、11章は、7章と9章のクライマックスと言えましょう。
 
A.預言の背景(7章から11章までの流れ)
 
 
イザヤ書の7,9,11章と、何か等差級数のように、奇数章ごとに学んでいるのですが、その間々は飛ばして読んで良いのではなく、一連の流れにあるわけですから、まず、復習も兼ねてその流れを大づかみに概観します。
 
1.ユダの危機と「インマヌエル」の約束(7章)<絵図@参照>
 
 

反アッシリヤ同盟を結んだアラムとイスラエルがユダを仲間にしようとして攻め寄せてきた危機にあって、人間的画策をしないで神に頼るようにと主張したのがイザヤです。その神が私達と一緒に居てくださるという証拠に、処女がみごもってインマヌエルという子供を生むという約束を致します(7:14)。
 
2.更なる危機と神の助け(8章)<絵図A参照>
 
 

アッシリヤはアラムとイスラエルを易々と捻り潰し、勢い余ってユダに侵攻します。その危機一髪の危機にあって、神がともにおられ、奇跡的に守られることが約束されます(8:7-8)。
 
3.神による平和の象徴である「みどりご」(9章a)
 
 
インマヌエル預言が、より詳しく提示されます。特に、みどりごの建てる新しい王国の性格が示されます(9:6)。
 
4.(北)イスラエルへの審判(9章b)
 
 
危機に遭っても悔い改めない北イスラエルに対する徹底的な裁きが宣告されます(9:13-14)。
 
5.破壊者アッシリヤが破壊される(10章)
 
 
アッシリヤは、神に背くイスラエルに対する神の怒りの杖(道具)として用いられました。「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。」(10:5-6) しかし、アッシリヤは自分の道具性を忘れ、高ぶりと暴虐に走りました。「しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。」(10:7) ですから、神はアッシリヤより強力な國を興して、アッシリヤをも滅ぼしなさいます。「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。」(10:15-16) 10:33-34はその纏めであって、主の裁きが全土に及ぶ様が記されています。「見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。」
 
6.若枝としてのメシア(11章)
 
 
主の全面的な裁きの中にあって、切り株から新芽が生える、という預言がなされます。短期的には、イスラエルの民が憐れみの故に残されるというレムナント(=遺残者)思想、そしてその末裔からメシヤが生まれるという終末思想がこの11章に引き継がれます。
 
B.廃墟から生まれるメシア (11:1)
 
 
11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
 
1.廃墟からの生命(イザヤ53:2、Uコリント1:9)<絵図B参照>
 
 

全ての物が失われ、滅び去った後で、奇跡の様に、或いは不死鳥の様に王と王国が甦ります。ユダ王国は徹底的に滅ぼされますが、その廃墟から生命が生まれ出ます。新芽という言葉の中に、廃墟からの復活、古株の持っていなかった新鮮な生命力が象徴されています。先ほど見ましたように、イスラエルもユダも、アッシリヤによって壊滅させられるのですが、その壊滅状態から、神は救い主を起こしなさいます。イザヤ53:2にも、メシアのことを「若枝のように芽生え・・・」と描写しています。絶望からの希望が示唆されます。

私達の人生においても、絶望の行き詰まりに希望が与えられます。なまじ、自分には何かの力がある、望みがあると思っているときには、神の力を捉えることができません。パウロが、物凄い迫害に遭って、死を覚悟する経験をしたのは、「もはや自分自身を頼まず、死者を甦らせてくださる神により頼む者となるため」(Uコリント1:9)と告白しているのと通じるものがあります。
 
2.ダビデ王国の継承
 
 
@ダビデの家系:
王国の中心人物はメシアであり、それはエッサイ(ダビデ王)の家系から生まれます。エッサイというのは、ルツの孫に当ります。そしてダビデの父でもあります。メシアがダビデ王(朝)の家系から生まれることが、ここで初めて預言されます。マタイでは、この成就を下記のように示します。「ボアズ=ルツ→オベデ→エッサイ→ダビデ→ソロモン→レハベアム→・・・(14代の王)ゼデキヤ→・・・ヨセフ→イエス」その流れを示したのが、イザヤ預言です。

Aメシアの象徴としての「枝」:
「枝」とはメシアの象徴として、他の場所でも言及されています。「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。」(イザヤ4:2、その他ゼカリヤ3:8,6:2、エレミヤ23:5,33:15)

Bダビデ王朝の断絶と継承:
さてダビデ王朝について言えば、一旦断絶されるが、継承されるという不思議な預言が、切り株からの若芽、という表現で示されます。元々、ダビデの家は永遠に続くという約束が与えられていました。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(2サムエル7:16)しかし、実際の歴史を見ると、ダビデの王国と王朝はBC586年のエルサレム滅亡と共に滅びました。では、神の約束は反故になったのでしょうか。いいえ。「ダビデの血を引くメシア」によってこの約束は成就したのです。イエス・キリストによってもたらされた神の国という形で・・・。神の驚くべき歴史支配を見る思いです。
 
C.メシアとその王国(11:2-5)
 
 
ここで、メシアという人物像が紹介されます。
 
1.御霊が留まる
 
 
メシアとは、「油注がれたもの」という意味ですが、聖霊の油に満たされたものとしてここでは紹介されます。聖霊は「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊」(11:2)です。色々な種類の霊があるわけではなく、一人の霊の多くの働きを示しています。

1)主の霊:これは、無機質的な力ということではなく、人格者なる霊、三位一体のお一人である聖霊を指します。御父の心を汲んだ聖霊が、御子なるキリストに宿っておられる姿です。
2)知恵の霊:知恵=事物の関係を知る力
3)悟りの霊:悟り=物事を分析する力
4)はかりごとの霊:はかりごと=物事を決定するために諸要素を統合する力
5)能力の霊:能力=そのはかりごとを実行する力
6)主を知る知識の霊:主を知る知識=御父との生きた交わり
7)主を恐れる霊:主への恐れ=敬虔さ

キリストは正にこの御霊に満たされていました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。」(ルカ4:18)油注がれたとは、正にメシアという称号の意味そのものです。
 
2.公平と正義をもって治める
 
 
@偏った知識や偏見で人を裁かない:「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず」、正に公正と公平がその支配原理です。

A弱者を顧みる:「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し」社会的弱者が手厚く顧みられる社会が実現します。

B悪に対して厳しい態度を取る:「口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」悪を行う人々と国に対して、厳正な処罰がなされます。

C真実と正義が支配原理:「正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。

私達の社会は、何と公平も正義も全く欠けた社会となっていることでしょうか。今問題になっている防衛省の不正支出、薬害肝炎を巡る政府の無責任、社会保険庁の無責任記録などなど、心を暗くすることばかりです。何故なのでしょう。そこに人間社会の上におられる神への恐れがないからです。

キリストの治め給う国はこの御言にありますように、@偏った知識や偏見で人を裁かない、A弱者を顧みる、B悪に対して(妥協せずに)厳しい態度を取る(これは、悪口で人のことを傷つけたり、虐めたり、殺したりすることではなく、きちんとした原則をもって裁きを宣告することです)、C真実(信頼性)と正義(正しいことを状況に拘わらずに貫くこと)が支配者の行動倫理である、というものです。

翻って、キリストの治め給う御国の一部である教会の中で、この原理が薄れているとすれば大変申し訳ないことです。神を畏れるスピリットがもっともっと深められ、実行されねばなりません。
 
3.平和を樹立する(11:6-9)<絵図C参照>
 
 

メシアは平和の君です(9:6)。「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(11:6-9)

この平和的な絵は、文字通りには、千年王国において実現します。しかし、精神的な意味では、教会を含む神の国で実現します。

@絶対に折り合わないような者達が仲良く暮らす:
この描写を一言で纏めると、絶対に折り合わないであろう者達が仲良く暮らしている絵です。狼と子羊、豹は子やぎ、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ、乳離れした子とまむしの子・・・とは何というコントラストでしょう。具体的に私達の教会に当てはめるとどうなるのでしょうか。馬の合わない人、苦手な人、過去に虐められた記憶があってどうしても赦せない人、この人と一緒に仕事をすると嫌な思いをしそうな人、と平和のうちに共に住み、奉仕を一緒にできるでしょうか。そう簡単ではないと思います。しかし、それを可能とする大切な鍵があります。

A純粋な幼子が支配する:
一つは、幼子のような純粋な、愛すべき主御自身が私達を導いておられることです。私達全てが、この導きに従うと、争うことが愚かとなります。「聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。」逆に言えば、害を加えたり、害いあうのは、私達の指導者である主キリストのスピリットに全く反することであります。

B主を知る知識に満たされる:
もう一つの要素は、「主を知る知識に満たされる」ことです。単なる知識ではなく、心で主を知ること、主との交わりに生きることです。それが本当の平和の要素です。主の来臨によって確立された教会が、文字通りこのスピリットを実践し、広めていく基地となりたいと祈ります。
 
4.その支配は世界に広がる
 
 
11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
 
この神の国は、世界に広がって生きます。大事な点は、国々の民がメシアを求めるということです。彼が帝国主義的な支配を拡げていくのではなく、人々がキリストを慕い、主と仰ぐようになります。これこそ真の世界宣教です。
 
終わりに:私達への挑戦
 
1.絶望の中で光を見よう
 
 
望みの全く絶えた状態でも、否そのような時にこそ、神の約束は実現し、光を放ちます。クリスマスの事実の中に神の約束への忠実さを見ましょう。
 
2.キリストの王国を、今経験しよう
 
 
このキリストの王国に従うものが与えられる平和、正義、公平な扱い、知恵に満ちた(配慮に満ちた)扱いを経験しましょう。そして、主を知るお互いの間に、主のご支配を仰ぎましょう。お互いの人間関係に、キリストを主と仰いでこの王国のスピリットを実践しましょう。
 
3.王国を広げよう
 
 
今の時代の混乱、不正義、不公平、争いは神の国の到来によってのみ平和と正義に変えられます。私達はその為に祈りましょう。
 
お祈りを致します。