礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2007年12月23日
 
「飼葉おけのメッセージ」
聖誕節講壇
 
竿代 照夫牧師
 
ルカの福音書2章8-20節
 
 
[中心聖句]
 
  12   あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。
(ルカ2章12節)

 
聖書テキスト
 
 
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
 
始めに
 
 
1.クリスマスおめでとうございます。格別に今年のクリスマスには多くの感慨があります。群れの長老として忠実にご奉仕された越山勧士を天にお送りしてのクリスマスですし、また、11月に3名、12月に3名と受洗者が加えられた感謝の時でもありました。

2.先日「マリア」という映画を見ました。真に良くできた聖誕劇という印象を受けましたが、特に印象的だったのは、木星と金星と土星が合体したような光が、キリストの誕生された洞窟の隙間から飼葉桶に向けて注がれているシーンでした。この朝私達の思い巡らしの焦点を飼葉おけのキリストに向けて、そこから汲み取る神のメッセージを受け取りたいと思います。
 
A.聖誕の物語
 
 
物語そのものは、今まで何度も語られており、今日の聖書朗読からも明らかですので、簡潔に進めたいと思います。
 
1.ヨセフとマリヤの旅とキリストの誕生(地図参照)
 
 

・ローマ皇帝の人口調査:
舞台はベツレヘム。イスラエルの首都エルサレムから南10kmの小さな町です。その町が急ににぎやかになったところからクリスマスの物語は始まります。紀元前27年にローマを統一して初代皇帝となったアウグストウス(本名はオクタビアヌス)が全世界の人口調査を命令します。人々のためを思っての調査ではなく、税金を搾り取る手段としての調査です。しかも、みんな本籍地で登録しなさいという命令ですから、民族大移動が始まっていました。丁度日本のお正月かお盆のような移動です。

・ヨセフとマリヤの「課題」:
エルサレムから100km北に離れたナザレという、これまた小さな村にヨセフという大工さんが居りました。光栄あるダビデ家の子孫ですが、今はその面影もなく、庶民と全く同じ生活をしていました。マリヤという若い娘さんと婚約していましたが、そのマリヤが結婚する前にみごもってしまいました。ヨセフは大いに悩むのですが、それが聖霊の力によったのだということを知らされて、マリヤを受け入れ、その出産の準備を手伝ってあげていました。そこへこの命令です。仕方なく故郷のベツレヘムに帰ることにしました。

・ナザレからベツレヘムへの旅:
その故郷への旅が、直線にして100km余り(実際にはヨルダン川を二度亘る大回りをしますから約200km)です。おなかの大きくなったマリヤを労わりながら、4日または5日の長い旅を終えてやっとベツレヘムに辿り着きました。ゆっくり旅ですから、辿り着いたのはもう夕暮れでした。ともかくどこかに寝るところを探さなければなりません。でも、人々でごった返していますから、そう簡単に見つかりません。親戚も居るにはいますが、大分関係が薄くなっていますから、無理してでも泊めてくれる感じではありません。宿屋を探しましたが、どこも一杯で断られました。もっとも、ヨセフの身なりがもうちょっと立派だったら、特別な部屋を用意してくれたかもしれません。民宿とも思ったのですが、だれも、自分のことでいっぱいで、この困りきったしかも貧しげな若夫婦を構ってくれる人はいません。

・キリストの誕生:
そんな中でも僅かな親切は、お客さんたちの駐車場(駐ロバ場)ならばどうぞという宿の主人が居たことで、ホッとしたヨセフとマリヤはそこに駆け込みました。入ってみて気がついたのですが、他の人の邪魔にもならず、案外暖かかったので、他のところよりは良かったとさえ思いました。そして、その夜、産気づいて生まれたのが救い主キリストだったのです。この世を救うために、天から降りてこられた神の御子の誕生としては、余りにも貧しく、寂しく、目立たない誕生でした。
 
2.羊飼いへの知らせ
 
 
・天使のみ告げ:
そのころベツレヘム郊外でも大きな出来事が起きていました。キリスト誕生という驚くべきニュースを最初に受け取ったのは、世の指導者達でもなく、学識者でもなく、金持ちでもなく、貧しい名もない羊飼い達でした。そのメッセージが10-12節です。「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

・飼葉桶がそのしるし:
ここでも飼葉おけのみどりごが焦点です。この言葉は、羊飼い達がキリストを見つけるための手がかりを与えるためでした。これから拝みに行こうとも、番地があるわけではないし、どう探したら良いのか、それこそ途方に暮れてしまったに違いありません。ベツレヘムは小さな町ではありましたが、それでもその日は大勢の旅行客で溢れていたし、生まれたばかりの子供も大勢いたに相違ありません。そこで救い主を見付けるヒントが必要だったのです。「しるし」という言葉の元になったギリシャ語のセーメイオンとは、普通でない事柄で、特徴をもった目立つ行為、出来事、状況を指すことばです。キリストを見つけるのに骨を折る必要はありません。「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」を探して歩けば良い、というわけなのです。飼い葉桶は当然家畜の餌を入れるためであって、赤ちゃんを寝かせる為には出来ていない。その異常さをヒントに、旅行者の為に使われている動物小屋を探して歩けば見付かるだろう、ということなのです。
 
B.飼葉おけの象徴するもの
 
 
さて、飼葉桶の中のキリストは、実利的に、捜しやすいというだけではなく、象徴的な意味も持っていました。
 
1.神はご自分を低くされた
 
 
・「神のへりくだり」のクライマックス:
昨年、聖化大会の講師としてお出でくださったジム・ハリマン先生が、「神の謙遜」という題でメッセージを下さったことを印象深く覚えております。先生は、エデンの園から始まって神の謙遜の行為が続き、それが飼葉おけのみどりごとなって現れ、十字架の死に至ってクライマックスに達したと語られました。新しい光を与えられた気持ちでした。永遠の神、天地宇宙を造り、これを支配し給う全能の神が、人間の姿、それも成人として突然現れるのではなく、頼りなく、力ない赤ちゃんとして生まれなさったこと自体が大いなる謙遜と言わずして何と言えましょうか。それだけではなく、病院のベッドでもなく、暖かい家庭の布団でもなく、動物の臭いがふんぷんと漂っている餌箱の上に寝かされているのです。全知全能の神ですから、他の道を選ぼうとなさればそれも当然可能だったはずです。しかし、敢えて、御子キリストの誕生のために動物小屋を選ぶように歴史を動かしなさったのです。それには理由があるはずです。それが、正に「神の謙遜」であったと思います。

・「貧しきものの友」となるために:
ヨセフとマリヤが金持ちであったなら、どんなに宿屋が混んでいても、特別室があつらえられたに相違ありません。ヨセフが貧窮のどん底にあったとは考えられませんが、富裕でなかったことは確かです。飼い葉桶を揺りかごとするとは、貧しい者の友となる主イエスの地上生涯の象徴でありました。飼い葉桶ならば、この貧しい羊飼いに取っても近づき易かったに相違ありません。彼らが王宮に入れと命じられたら、それは不可能だったことでしょう。羊飼い達さえ身近な人と感じるほど、神はご自分を低くしてくださいました。

・私達へのチャレンジ:
はっきり言って、人間ほど上昇志向の強いものはありません。パーティでも、席次が下に置かれたといって席を蹴ってしまう人も居るくらいです。その私達に向かって、仕えられるものとならないで、仕えるものとなりなさい、他人の足を洗うものとなりなさい、と主は語っておられます。語るだけでなく、それを実践されたのが主イエスです。主に倣うものとなりましょう。
 
2.人の心の冷たさ
 
 
・No Room:
聖書は、この事情を、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」と書いています。英語では、Because there was no room for them in the inn.とあります。「宿屋には、ヨセフとマリヤを受け入れるスペースがなかった。」ということです。実は、イエスを容れる余地がない!というのは、今でも変わりません。飼葉桶は、神の側から見れば謙遜のしるしですが、人間の側から見れば、それは人の心の冷たさ、無関心さ、自己中心の表れでもあります。もっと言えば、飼い葉桶の幼子は、人間世界による拒絶のしるしでもありました。宿屋には留め置けなかった人間の冷たさと無関心と忙しさの現れが飼い葉桶の幼子です(8節)。今日こそ世界中の民がクリスマスを祝ってはいますが、果たしてその何人がキリストを心に迎え入れているでしょうか。「貧しく暗い心にも、お入り下さい、イエス様。」という歌がありますが、心を開く今日でありたいと思います。

・暖かい、柔らかい心で主を受け入れよう:
昨週の木曜日、玉川聖学院の中等部で「ヨセフさん、行かないで」というお話しをしました。それは、ある村で毎年行われていた野外クリスマス劇でのできごとです。宿屋の主人役を与えられた少年が、「宿屋は一杯で泊められません。次の宿屋へ行ってください。」と決められたセリフを上手に言ってヨセフさんとマリヤさんを追いやります。でも断られてがっくりと肩を落としたヨセフさんの姿を見た少年は堪らなくなって、思わず「ヨセフさん、行かないで。僕が何とかするから泊まってもいいですよ。」と叫んでしまったのです。劇としてはめちゃくちゃになりました。でも、村の人々は、あの年のクリスマスは一番印象的だった、としっかり覚えるようになった、と言われています。この少年のような柔らかい心をもった大人は、2千年前のクリスマスに一人として居なかったのでしょうね。悲しいことです。
 
3.キリスト内住の象徴
 
 
・土の器に天の宝:
汚い、臭い飼葉桶に眠る聖なる御子の絵は、私達のような醜い、自己中心の塊のような人間に宿り給うキリストの象徴です。キリストを心の中に受け入れることは、大きな宝を土の器の中に持つことです(Uコリント4:6,7)。私達は土の器の様に汚れていて弱い者であるかもしれない、飼葉おけのように汚れた存在であるかもしれない、しかし宝なるキリストを持つと光り輝く存在となりうるのです。丁度二千年まえの馬小屋がキリストを頂いて光り輝いたように。

・心を開いて主を受け入れよう:
黙示録3:20には、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と記されています。キリストは今も、あなたの傍らに立って戸を叩いておられます。キリストは紳士であられますから、ドアをこじ開けて入るようなことはなさいません。あくまでも、あなたが内側からどうぞをいうのを待っておられます。このクリスマスが、キリストを心に入れ奉る素晴らしいクリスマスとなりますように祈ります。また、既にキリストを受け入れておられる方にとっては、その恵みを心から感謝するクリスマスとなりますよう祈ります。