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聖書テキスト |
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11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。 |
12 ある村にはいると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。14 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。 |
15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。17 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」 | 19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」 |
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始めに |
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2007年最後の礼拝となりました。恐らく全ての人の心の中に、神に対する感謝が溢れていることと思います。私も負けず劣らずです。今日は、「感謝を忘れた90%」という題で、ツァラアトから癒された10人の物語を学びます。 |
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A.ツァラアトの人々の要望 |
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1.「ツァラアト」の表記について |
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新改訳聖書第二版と第三版の大きな違いは、12節の病気に関する表記です。第二版で使われている病名は、二つの理由から第三版で使われておりません。@この病気がハンセン氏病と必ずしも同じではないこと、A第二版で使われている病名が、旧「らい予防法」によって不当に、そして長く差別用語として用いられたこと、です。第三版の「ツァラアト」は、ヘブル語のそのままの表記ですが、他の選択肢が難しいための仮の表記として選ばれたものであることをご了解いただきたいと思います。 |
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2.イエスの最後の旅:ガリラヤからユダヤへ |
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ここでのイエスの旅は、その活動の根拠地である北部ガリラヤから、南部ユダヤへの最後の旅であったと思われます。通常、ガリラヤとユダヤの中間にあるサマリヤは、民族的な違いや互いの偏見・敵対関係から、避けて通るのが慣わしでした。しかし、主イエスはそのような人種的偏見から自由なお方でしたから、しばしば、ここを通過されました(ヨハネ4:4、ルカ9:51-52)。今回も、ガリラヤとサマリヤの境界線辺りを通られました。 |
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3.ツァラアトの人々の叫び |
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その境界線辺りに、ツァラアトという皮膚病を持つ一団がおりました。人々から隔離され、町外れに住み、人々から時々与えられる施しものをもって辛うじて生き延びていました。通常仲が悪いユダヤ人とサマリヤ人でしたが、同病相憐れむと言いましょうか、こういう見捨てられた境遇のもの同士として共同生活を行っていたようです。 |
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この人々10人が村はずれに立って、イエスの一行が通りかかるのを認めるや否や、「遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。』と言った。」のです。遠く離れたところに立って、というのが悲しいですね。律法によりますと、「自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」(レビ記13:45-46)と記されているからです。その距離はおおよそ100歩分(50−100メートル)であったといわれています。「憐れんでください!」と叫んだのにも理由があります。かつて同じ病気を治したという評判を聞いていたのでしょう。しかし、病気を治してください、というのは余りにも大胆で、憐れみの幾分かでも分けてください、と謙ってお願いしたわけです。 |
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B.主イエスの癒し |
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1.「行きなさい。そして祭司に見せなさい。」 |
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主の言われた言葉も、考えてみれば不思議です。直してあげよう、ではなく、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」直ることは明らかだよ、それを前提として、社会復帰のために、祭司の聖めの儀式を受けなさい、というのです。これは、彼らの信仰を試されたと思います。ツァラアトは癒されるのだ、主イエスの御言だけあれば充分だ、と彼らが思うかどうか、信仰を試されたのです。彼らは信仰を持って出かけました。そして「行く途中でいやされた」のです。彼らの信仰は、直していただけるだろうという未来への信仰ではなく、直していただいたという獲得の信仰であるべきだ、というのが主イエスの挑戦でした。 |
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2.きよめの儀式 |
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彼らは、祭司のところに行き、皮膚病から癒された自分達の手足を見せました。祭司は、聖めの儀式として、生贄の小鳥二羽を受け取り、その一羽を殺してその血を他の一羽にふりかけてから放します。清められたものは斎戒沐浴し、体毛を全部そり落とし、一定の期間を終えると、清いものと宣言されて帰宅するのです。その喜びは大変なものであったと想像されます。 |
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3.感謝を忘れた9人 |
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さて、ここでの問題は、彼らが感謝を忘れてしまったことです。この一連の出来事の源が主イエスにあったことを忘れてしまいました。悪い人々ではないと思いますが、感謝の念が乏しかったのです。彼らの心は、出来事に目が向けられていて、その背後にあるお方には充分向けられていませんでした。本当は出来事の背後のお方を捉えることのほうが遥かに重大なことなのですが、私達も時として、出来事や行事に心が奪われて、その背後のお方を忘れる傾向があります。それが感謝の念の喪失と繋がるのです。 |
感謝を忘れる心が、どんなに私達の天のお父様の御心を悲しませることでしょうか。子供がおもちゃをクリスマス・プレゼントに頂いて、そのおもちゃで心が一杯になってしまうと、与えた親はちょっと寂しいですね。私達も沢山のプレゼントを頂きながら、そのプレゼントの与え主に、正当な感謝と評価を表し損ねたら、その主は、どんなにがっかりされることでしょうか。 |
人間にとって、大切なことは、「ありがとう」と「ごめんなさい」がキチンと使えるようになることです。テーブルの遠くにある塩を回して欲しいときに、プリーズ・パスミー・ソールトというのがマナーの基礎です。回された時には「サンキュー」を忘れないことも大切です。これは、レストランのウエイターに対してもそうです。 |
さて、私達は、神様にどれだけ「サンキュー」を申し上げているでしょうか。イスラエルの最大の罪は、神の恵みを忘れる忘恩の罪でした。クリスチャンも、全てのものが神の賜物として与えられているにも拘わらず、前から自分が持っているように誇るのは、最大の罪です(Tコリント4:7)。 |
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C.サマリヤ人の感謝 |
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1.帰ってきたサマリヤ人 |
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さて、10人の内9人は、ただ喜んだだけで家に帰ってしまったのですが、「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」のです。「彼はサマリヤ人であった。」と記されています。 |
少々大袈裟に響くかもしれませんが、ここにサマリヤ人の真骨頂が現れています。 |
・大声で神をほめたたえた。 ・イエスの足元にひれ伏した。 ・感謝した。 |
彼にとって見れば、外国人(特に自分達をいつも見下げている誇り高いユダヤ人)であるイエスが自分を省みてくださったことへの最大の感謝を表したのです。彼にとって、神をほめたたえることと、主イエスに感謝することは、同じ線上にありました。つまり、イエスを神の子と認めたのです。 |
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2.主イエスの嘆き:「九人はどこに?」 |
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「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」 |
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9人はどこに居るのか、という問いは、現代のキリスト教会にも当てはまります。困ったときはあれだけ真剣に祈り、恵みを求めたのに、その祈りが答えられるや否や、「ありがとう」をいうのさえ忘れて、これは当たり前の結果だったというような涼しい顔で、感謝の念すら持たずに生活していませんか、と主は嘆いておられます。 |
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3.信仰の癒し |
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「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」ツァラアトは、この10人が祭司のところに行く途中で癒されていました。それ以上に、彼の魂の病は、その信仰によって癒されました。逆に言うと、他の9人はツァラアトは癒されたかもしれないが、魂は病んだまま残ったのです。厳粛な事実です。 |
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終わりに |
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私達が感謝を忘れるということは、単なる不作為以上の罪、愛の神に対する背信の罪に当ります。この年を締めくくるに当って、もう一度過ぎこし方を顧み、心からの感謝を捧げ、神に栄光をお返ししたいと思います。 |
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