メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年1月2日
 
「あなたがたは行って・・・」
関東・新年聖会(派遣聖会)
 
竿代 照夫牧師
 
マタイ福音書28章16-20節
 
 
[中心聖句]
 
  19   それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
(マタイ28章19節)

 
聖書テキスト
 
 
16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 
始めに
 
 
神は、派遣の神(God of missions)であられます。

旧約において、モーセをエジプトに遣わされ (出3:7-10)、ギデオンをミデアンからの救出のために(士師6:14-16)派遣し、エステルを同胞の救済のために(エステル4:13,14)派遣されました。また、預言者としてイザヤを(イザヤ6:8)、エレミヤを(エレミヤ1:4-10)遣わされました。

新約においては、バプテスマのヨハネが、キリストを紹介するために遣わされました(ヨハネ1:6)。たれよりも、神がこの世の救いのためにキリストを派遣されました(ヨハネ6:47)。そのキリストは、伝道のため、12弟子を町々村々に(マタイ10:1-23)、世界宣教のために弟子達を (マタイ28:16-20、使徒1:8)、特に異邦人伝道のためにサウロを(使徒26:15-18)遣わし給いました。今もその派遣の連鎖は続いています。

今日は、宣教の大命令を見ます。
 
A.命令が与えられた状況
 
1.時期:
 
 
AD30年の春、復活後4、5週間くらいと考えて良いのではないかと思います。この後の主イエスの顕現は、エルサレム郊外のオリーブ山での昇天まえのものだけです。
 
2.場所:
 
 
ガリラヤにおいて、イエスの指示された山と記されています。恐らく、山上の垂訓のなされたハッティン山と考えられますが、確かなことは分かりません。主イエスと弟子達の間にはガリラヤの山と言えばあそこだ、という言わずもがなの了解があったことでしょう。未信者を敢えて加えず、信仰者のみの集まりが意図されたものと思われます。どうしてガリラヤなのか。それはマタイ福音書に答えがあります。26:32に主イエスは「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」と約束し、28:7では、御使いが「お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。」と伝え、28:10では、主イエスが再び、「行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」という風に、マタイ福音書だけでも3回、ガリラヤでのアポイントメントに言及しています。
 
3.集まった人々:
 
 
11人の弟子とだけマタイは記していますが、Tコリント15:6の「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」という記事と並行するものと考えると(そして、この考えは多くの聖書学者に支持されていますが・・・)広い意味での弟子達が大勢加わっていた者と思われます。これらの人々に同時に現れるのが主のご目的であったからです。どうしても、ガリラヤで、つまり、伝道の本拠地であったガリラヤで、大勢のシンパがいたガリラヤで、ご自分を現しなさる必要があられたのです。ここで「疑う者があった」という表現があります。誰が疑ったのでしょうか。11弟子の中の誰かでしょうか。トマスが、もう一回疑いに陥ったのでしょうか。ペテロでしょうか。ヨハネでしょうか。私は今までの物語の流れから見てその誰でもなく、周辺の弟子達の中の誰かであると思います。「疑った」のは11弟子の何人かが、現れたお方がイエスかどうかと疑った、と解釈する人もいますが、私はその可能性は低いと思っています。
 
4.会合の意味:
 
 
ガリラヤで集まることにどんな意味があったのでしょうか。ガリラヤは、いうまでもなく、イエスの地上生涯でのホーム・グラウンドだったからでした。表面的には、アウェイであるエルサレムで一敗地にまみれる、しかし、ホーム・グラウンドのガリラヤで体勢を立て直そう、と言うわけです。主が再会の場所として選ばれたのは、権謀術数が渦巻くエルサレム、敵意と嫉妬に満ちていて、イエスを十字架につけたエルサレム、腐敗した形式宗教が支配している澱んだエルサレムではなくて、明るい太陽と緑の山々、鳥が囀り、花が咲き乱れるガリラヤ、主イエスの福音の言葉と力ある恵みの業で満たされていたガリラヤ、純朴な信仰者に満ちているガリラヤ、そこで復活の主と信仰者たちが再会を果たし、信仰を回復し、新たな信仰運動の進発を語り合おう、というのが、ガリラヤでの再会の目的でした。ですから、この宣教大命令は、そのガリラヤ再会のクライマックスでありました。
 
B.命令の重さ
 
1.主の最後の言葉
 
 
先ほど述べましたように、これが文字通り主の最後のお言葉ではないのですが、その内の一つです。去りゆくものの最後の言葉は重いものです。私達は主を愛しています。ですからその全ての言葉を守るのは当然です。しかし、とりわけその最後の言葉を重く見て、それに従おうとするのはもっと当然であります。
 
2.全権を持つ主の言葉
 
 
「私は天でも地でも、つまり被造物の世界の中で、全ての権限を与えられている」という声明は重大なものです。それでは、主イエスは始め全権を持っておられなかったのでしょうか。Yes and Noが答えです。神の御子としてこの世に現れた救い主ですから、「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、・・・ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。」(イザヤ書9:6,7)と記されているように、最初から全権をお持ちです。
ただ、真の意味での救い主としての立場は、十字架の苦しみと復活の栄光を経験すること無しには与えられませんでした。ヘブル5:8-10には「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」と苦難を通して従順の学課を学び、それによって完全な救い主となられたと記されています。ですから、天においては、聖霊を下して信仰者を活かし、栄光を与える権限を、地に於いては、罪人を回心させ、清め、守り、その教会を完成させる権限を確立されました。全ての国々を彼の下に跪かせ、最終的には全ての人類を裁く権限を確立されました。そのお方が、今私達に命令を与えておられるのです。地上の限られた王国の指導者が、時には理不尽な命令を出すときでさえ私達が従わなければならないとすれば、全宇宙の支配者であられる主イエスが、最も理に適ったご命令を下されるときに、私達がそれに従うのは当然であります。
 
C.命令の内容
 
1.行くこと
 
 
求心的宣教(旧約)から遠心的宣教(新約)へ:
「旧約における宣教は求心的であったが、新約の宣教は遠心的である」と宣教学者であるヨハネス・ブラウという人が指摘しました。礼拝の中心であったエルサレムにやって来なさい、ユダヤ教に帰依しなさい、割礼を受けて(宗教的には)ユダヤ人になりなさい、これが旧約における宣教観でありました。しかし、新約の宣教は異なります。全世界に出ていきなさい、人々のいるその場所に福音を携えて行きなさい、宗教的にユダヤ人になる必要はない、そのままの姿でイエスを主と受け入れれば救われるのですよ、という積極的な姿勢です。

大使の様な権威をもって:
権威を持って行きなさい、というニュアンスが、「それゆえ」の中に含まれています。天と地の全ての権威を持ち給う主がその権威を使命を分与しした大使として、行けと仰っておられるのです。必ずしも地理的な旅行ではなく、証しにおける積極的行動を促しておられます。
 
2. 弟子を作る
 
 
弟子を作ることが中心的命令:
福音を種まきに譬えると、種を蒔いただけで満足してしまわないで、信じるものを募り、その人々をキリストの弟子として訓練しなさい、という大切な命令がここに含まれています。実はこの四つの命令の中で、この動詞(マテテウオー)だけが命令形で、他の三つは分詞なのです。「行きながら、弟子作りをしなさい。バプテスマを授け、教えをしながら・・・」と言うことなのです。弟子化は中心です。

弟子を作るとは訓練すること:
弟子とすると言うことは、教えと人格的な感化を通して他の人々がキリストの弟子となるように訓練しなさい、ということです。その前提は私達がキリストに倣うものとなることです。訓練すると言うことは、する方もされる方も辛いことです。朝から晩まで寝起きを共にし、働きを共にしながら、欠点を正し、良い点を誉める、これの繰り返しだからです。イエス様はそれを嫌がらずになさいました。出来の悪い弟子達と共に、ある時は叱り、ある時は誉め、模範を示し、コーチをなさいました。それで弟子が作られたのです。イエス様は弟子達に向かって、それをやりなさい、と命じておられます。それが回り回って私達に伝わってきたのです。私達もこの仕事を嫌がらずに他の方々のためになすべきなのです。私達も弟子として学び、弟子を作るために労したいものです。
 
3.バプテスマ:弟子作りの一歩
 
 
信仰の告白としてのバプテスマです。弟子作りの最初の一歩と言えましょう。入学式の様なものです。キリストと一つとなりますよ、という信仰の告白としてのバプテスマです。今年も、多くの方々がバプテスマをとおして主への信仰を告白するように祈ろうではありませんか。そのために私達としてなすべきことを尽くそうではありませんか。祈ること、機会あるたびに証すること、集会にお誘いすること、相談に乗ってあげること、必要ならば、福音を提示して救いに導くこと、これらは他人任せではなく、普通のクリスチャンが行うことができ、しなければならないことです。
 
4.教え
 
 
キリストが命じられた全てのこと、これを教えるのも弟子訓練の一つです。主イエス様の命じられたことはみな聖書に記されています。従って、それを教えると言うことは聖書を教えることです。聖書に直付けに食らいつき、その中から主の教えを学び取りましょう。他の人々にも教えうる力を養いましょう。

弟子達が教えるべき主のご命令の中には、この宣教命令が当然含まれています。ですから、弟子の弟子、その次の弟子が、次々に受け継ぐのはこの宣教の命令です。宗教改革者達は、マタイ28章の宣教大命令は11弟子達に与えられたものであり、それは彼らによって成就したと考えました。ですから宗教改革時代には世界宣教は余り強調されませんでした。でもそれは違います。私達に脈々と受け継がれてきているのです。
 
D.命令に伴う約束
 
 
見よ。私は世の終わりまでいつでもあなた方と共にいる、と主は約束されました。これについても幾つかコメントします。
 
1.どんなときにも:
 
 
どんな時にも、悲しいときにも、嬉しいときにも、日が輝く様な順境でも、嵐のような逆境でも、いつでも、共にいて下さいます。感謝しましょう。これは、原語では「全ての日に」となっています。2008年の全ての日に、主のご臨在を信じましょう。
 
2.命令を行うものへの約束:
 
 
それは、主の命令に従っているもののために特別に約束された同行です。
 
3.大きな助けを伴う同行:
 
 
それは、大きな力と助けと守りとを約束する同行です。これと並行しているマルコ16:20を見て下さい。「彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」主のご同行は、それに伴う徴をもって確かなものと確証されるのです。私達の働きを助け、落胆したときには慰め、欠乏しているときには豊かな供給を与え、敵の攻撃と悪の誘惑から守ってくださる力ある助けが約束されています。主は、私達を派遣して、ご自分はのうのうとしている将軍のようなお方ではなく、私達と共におり、ともに働き(マタイ11:1)、ともに苦しみをになってくださるお方です(イザヤ63:9)。
 
終わりに
 
 
置かれた立場で宣教師:
私達みんなが遠くに宣教師として出ていくことは出来ないかも知れません。でも、置かれた立場で宣教師だという自覚を持って、家庭を、職場を、学校を宣教地として、福音のために励みましょう。教会には色々な活動がありますが、全部をぎゅうーっと絞ると、主イエス様の宣教命令の遂行に纏まるのです。この一点に心を合わせてこの一年、共に労させていただきましょう。主は、この大きな使命を私達に与えて、この世に派遣しておられます。主のご派遣を頂いて、これから世に出て行きましょう。主はともにおられます。