礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年1月6日
 
「主の恵みの年」
年頭講壇
 
竿代 照夫牧師
 
ルカの福音書4章15-22節
 
 
[中心聖句]
 
  18   主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
  19   主の恵みの年を告げ知らせるために。
(ルカ4章18-19節)

 
聖書テキスト
 
 
15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」 22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。
 
はじめに
 
 
明けましておめでとうございます。昨年を振り返ると、世界情勢においては、テロの多発、中東始め多くの不安定要因が増してきました。日本においても、国会における勢力地図が大きく変化し、それが良い方に働くのか悪い方に働くのか、見極めの付かない状況にあります。社会的には、昨年のキーワードであった「偽り」に象徴されるように、責任ある立場の者たちが、その責任に相応しい信頼を損ないました。相互不信が社会生活の根底を揺るがしています。教会は、こうした不安な社会に充分な影響力を与え損なっている自らの弱さを認めざるを得ません。

こうした暗い側面だけではなく、私達の教団においてはユースの活性化に見られるような明るい材料も与えられていることは、感謝なことです。私はこうしたことを思い巡らしつつ、今年のキーワード、鍵となる思想は「恵み」であると深く確信させられています。教報の第一面に「神は、・・・全ての良いわざに溢れる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかり与えることのできる方です。」(第二コリント9:8)と書かせていただきましたが、豊かな恵みを溢れるまで注ぎ給う主を見上げたいと思います。

今日は、主イエスがその奉仕の開始に当って宣言された「主の恵みの年」というメッセージを私達のものとして受け取らせていただきたいと思います。
 
A. 主の宣言の背景
 
1.ナザレ訪問
 
 
・ガリラヤ伝道の初期:
主イエスは、およそ30歳の頃までは、故郷のナザレ村で、普通の大工として他の人と何ら変わらない生活を続けられましたが、伝道のために立ち上がるときを悟り、バプテスマを受け、伝道を始められます(ルカ3:23)。そのホームグラウンドはガリラヤ地方でした(4:14-15)。その活動の拠点はカペナウムでした(4:23、マタイ4:13)が、その伝道の初期に、故郷であるナザレを訪問されました。

・ナザレという場所(地図参照):
ナザレというのは、レバノン山脈の最南端の丘の斜面にひっそりと横たわる小さな村里です。この物語の最後に、「(人々は)町が立っていた丘の崖の淵まで連れて行き、そこから(イエスを)投げ落とそうとした」(29節)という記事がありますが、ナザレの地形から見て、なるほどと思われます。

・安息日礼拝の慣わし:
イエスの訪問は、安息日の前後でありました。安息日にはいつものようにご自分の育った会堂に行かれました。その会堂は、5歳の時から他の子供たちに混じって、読み書きを習った場所であり、13歳からは、他の大人たちに混じって礼拝を捧げていた場所です。この時イエスは、ユダヤ教のラビとしての資格も持っておられましたから、礼拝のプログラムが進む中で、会堂司から聖書朗読を依頼されました。

・イザヤ書の朗読と解説:
その時与えられたのがイザヤ書です。礼拝では通常モーセの五書と預言書が朗読されることになっていましたが、その日は、モーセの五書は終わり、イザヤ書の番となりました。イザヤ書だけで大変重い巻物だったのですが、その61章を選ばれました。61章がたまたまその日の聖書箇所であったというよりも、イエスが選ばれたと考えられます。
 
2.イザヤ書61章の意味
 
 
イザヤ書の61:1-5までを読みましょう。「1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。4 彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。5 他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。」

・「主のしもべ章句」の一つ:
これは、イザヤ書後半(40-66章)の中で、非常に特徴的な「主のしもべ」という人物が紹介される「しもべ章句」の一つです。

・主の僕とは:
主に選ばれ、主の使命を遂行するための器であり、具体的には、イスラエル全体とか、イスラエルの中の特別な人々とか、預言者とかを指すのですが、究極的には、来るべきメシヤ(救い主)を指します。

・61章の内容:
61章で預言されている僕は、第一義的には、イザヤから間近に見てバビロン捕囚からの釈放とイスラエルの回復を宣言する人物のことです。しかし、完全な意味では、メシヤによって齎される神の国の予言です。
 
3.61章が成就したとは?
 
 
・イエスが、約束のメシヤであるという間接的な宣言:
ここを読み終えたイエスは、イザヤ書の巻物を巻き返して、そこに集まってきた礼拝者に語り掛けました。固唾を呑んで見守る聴衆に向かって「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われました。ご自分が約束のメシヤであると間接的に宣言されたことを意味します。

・多くの人々は喜びをもって受け入れた:
この驚くべき宣言は、これを聞いた多くの人々には喜びをもって受け入れられました。ここで人々が聞いた「その口から出て来る恵みの言葉」とは、イザヤ61章の解説として、神がその民を顧み、本当の釈放と救いを与えなさるという福音のことばのことでありましょう。素直な心をもってイエスのことばを聴いた人々は、これに驚き、喜びました。

・他の人々は「人間イエス」にとらわれすぎて拒絶した:
しかし、他の人々には、とんでもない行き過ぎだと躓きを与えました。特に小さいときから人間としてのイエスを知り尽くしていた人々には、あのイエスさんがこんな偉い顔をしてとんでもないという思いを持ちました。彼らは、素直にイエスを見つめることなく、過去のイエス像にこだわって、今のイエス像を歪めたのです。だからこそ、彼らは、神を冒涜するものとしてイエスを石打ちにしようとまでしたのです。
 
B. 宣言の内容
 
1.鍵であるメシヤ
 
 
「わたしの上に主の御霊がおられる。・・・わたしに油を注がれたのだから。」ここにメシヤの性格が示されます。彼は、神によって選ばれ、神の霊に満たされ、聖霊の油注ぎを受けています。キリストということば(ヘブル語でメシヤ)が「油注がれたもの」という意味であることは、何回かお話ししました。主イエスは正に神に油注がれ、力と知恵とに満たされたメシヤでした。
 
2.解放の福音
 
 
ここには4つの対照が見られます。

@貧しい人々に良きおとずれが伝えられる:
自分の霊的状態が貧しく、乏しいと自覚するものがキリストの良きおとずれを受け取ることができます。イザヤ61章には、「心の傷付いた者を癒す」ということばが入っています。人生の悲劇や悲しい状況や罪が齎す心の傷が、キリストによって癒される姿を指します。

A捕われ人は赦免される:
(文字通りには)バビロン捕囚からの釈放が意味されていますが、究極的には、罪とサタンの縄目から自由にされることを意味します。「捕らわれる」という言葉は、「槍先で捕まえる」という意味です。

B盲人は目が開かれる:
キリストの奉仕は、文字通りの盲目を癒しました。さらに霊的な盲目状態にある人々の心の目を開きました。

Cしいたげられている人々は自由される:
罪や患難のために心が粉々に砕けた(というのが「虐げられる」テトラウスメヌースの文字通りの意味)を受けている者達に真の自由が与えられます。

纏めていいますと、罪の支配にある人々が、キリストの贖いによって解き放たれる素晴らしい釈放の福音が宣言されたわけです。
 
3.恵みの年
 
 
・イザヤ61章の「恵みと裁き」の予言との関係:
「主の恵みの年を告げ知らせるために」という所で、イエスはイザヤ書の引用を区切られました。イザヤ書は「恵みの年」の後に「われわれの神の復讐の日」を付け加えていますが、主は敢えて後半を外されたものと思われます。「大いなる恵み」の時代がメシヤ到来とともに始まった。しかし、裁きは側面は、主が再び来られるときまで取って置かれたと考えられます。

・「恵み」とは、「愛顧」、「受け入れ」:
ここで語られている「恵み」(ギリシャ語でデクトス)とは、「受け入れられる」とか、「喜ばしい」という意味です。イザヤ書はヘブル語でローツオーンと記しています。それは、「愛顧」、「受け入れ」という意味です。詳しく言いますと、主の受け入れなさる年とは、「神がその民のあがないのために備えなさった時、罪人に善意を表す時、キリストの苦しみを良き香として受け入れなさる時」を示します。

・「ヨベルの年」(レビ25:10)との関連:
この特別な年とは、レビ記に記されている「ヨベル(ラッパ)の年」を念頭において述べられています。レビ25:10を見ましょう、「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」この年はまず、休息の年です(25:11)。また、他人の手に渡った土地が無償で元の持ち主の下に返されます(25:24)。奴隷として売られた人々が自由民として釈放されるのです(25:41)。その年の始まりに、ヨベルと呼ばれる羊の角で出来たラッパが吹き鳴らされることから、ヨベルの年と呼ばれました。

・「恵み」はキリストの贖いによって実現:
これは、キリストの贖いによって実現しました。神が私達を受け入れる条件として、キリストの十字架によるなだめの供え物が捧げられました。その功によって、私達は神に受け入れられるものとなるのです。
 
C.宣言の今日的意義
 
1.「恵み」が信仰生活のあらゆる面での鍵
 
 
私達に意味のあるのは神の恵みです。全ての恵みの源は神です。その恵みには私達が必要とする全ての内容が含まれています。恵みは私達に充分な力を与えるものです。恵み以外に私達の信仰生活で意味と価値のあるものはありません。「恵みを知らないクリスチャン」という本の中で、シーモンズ博士はこういっておられます。「行い志向の中核にはこのモットー(『もっと頑張ろう』)があります。多くのクリスチャンがこのモットーにしたがって生きています。・・・失敗し、罪責感を感じ、悔い改め、告白し、・・・回復されるという、終わることのない循環を繰り返します。何か新しいことでもやって頑張ろうとしますがまた、同じです。(新年でこの経験をしておられる方がありませんか?=私の注)・・・神に感謝しましょう。良い方法があります。神の方法です。・・・恵みによる方法、それが唯一の答えです。」(p124,127)「恵みとは、神の愛が行為に表わされたものです。それは神の無償の赦し、神の受容、神の好意になって表現されます。・・・私達人間の側に価値があったのではありません。恵みはただで与えられるものです。・・・キリストにある神の贖いの好意です。過去に行われた何かではなく、現在も、そして未来も働き続けれるものです。ですから神との関係の土台は、恵みです。恵みだけです。それは永遠に変わりません。」(p160-161)
 
2.私達が「受け入れる」時に恵みは働く
 
 
神は受け入れなさるのに、私達が受け入れない時には、「恵みも働かない」のです。恵みは豊かに備えられています。でも、私達が心を開かないでそれを拒絶したら、その豊かな恵みは私達に効果を齎しません。私達は、人間イエスを見すぎて躓いたナザレ人のようではなく、イエスをあるがまま見つめてその恵みの言葉に驚き喜んだ人々のように、神の恵みを素直に受け入れ、それに縋って生きるものとなりたいと思います。
 
お祈りを致します。