礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年1月13日
 
「キリストの賜物を見直そう」
教会総会に備えて
 
竿代 照夫牧師
 
エペソ4章1-16節
 
 
[中心聖句]
 
  7   私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
(エペソ4章7節)

 
聖書テキスト
 
 
1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」9 −−この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。−−
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
 
始めに
 
 
恵みをキーワードとして本年を始めました。信仰生活のあらゆる分野において、それを支えるのは神の恵みであり、それを豊かに感じ、豊かに注いでいただく年でありますように祈ります。今日は、教会協議会で、役職に関する予備投票も行われますので、おのおのに与えられているキリストの賜物について、エペソ4章を中心に考察します。
 
A.「賜物」は「恵み」として与えられる
 
1.「賜物」、「恵み」「喜ぶ」は親戚の言葉
 
 
いきなりギリシャ語で恐縮ですが、「賜物」、「恵み」「喜ぶ」という三つの言葉はみんな同じ語源から出てきた親戚の言葉です。「喜ぶ」(カイロー)という言葉から「恵み」(カリス=喜んで与える態度、恩顧)が生まれました。その恵みから「賜物」(カリスマ=与えられるもの、与えられた能力)が生まれました。

何が言いたいのかと言いますと、私達が持っていると思うものはみな神の賜物であり、恵みの表れなのだということです。神の恵みの故に、私は健康という賜物を持っているし、家庭を持っているのです。恵みによらないものはひとつもありません。それなのに、これは最初から自分が持っていると錯覚するところに一番大きな罪があります。「あなたには、何か、貰ったものでないものがあるのですか。もし貰ったのなら、何故、貰っていないかのように誇るのですか。」(Tコリント4:7)
 
2.賜物は、キリストの犠牲に基づく(7節)
 
 
私達が与えられた賜物の内、特に、「聖霊の賜物」と呼ばれる賜物は、キリストがその犠牲によって勝ち得てくださったものです。少し詳しく見てみましょう。9節に「彼(キリスト)がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」十字架の死と埋葬によって、徹底的に低い地位に自らを置かれ、その後復活・昇天という大勝利を経験されました。普通、戦いの勝利者は、その凱旋行進のときに沢山の分捕り物を携えて行進を致します。それが8節にある、詩篇68:18の引用に示唆されています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」

私達は、自分が与えられている賜物が、キリストの犠牲の上に与えられている尊いものだという自覚をどれだけ持っているでしょうか。私自身充分でなかったことを認めて申し訳なく思っています。「夕鶴」の物語で「お通」が織った着物を、夫となった「与ひょう」が売りさばくのですが、背後の犠牲を一つも感じないで、ただ金儲けのためにどんどん売っていた悲しい物語と共通するものがあります。
 
3.賜物はみなに異なる形で与えられる
 
 
7節に「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」一人ひとりが違うこと、「キリストの賜物の量りに従って」(キリストの恵みの違いに応じて)賜物が与えられていることが示唆されています。しかし、何にも与えられていない人はいません。私は何にも賜物が無いというのは、与え主に対して失礼な言い方です。というのは、与え主は主ご自身だからなのです(11節)。従って、少ないからといって卑下することもなく、多いからといって誇ることもありません。只感謝して教会の為に用いればよいのです。

その具体的なリストは11節では使徒、預言者、伝道者、牧師・教師の4種類しか記されていません。だからある人は、私は「その他大勢」なのでは、と考えるかもしれませんが、他の聖書箇所を合わせて見ると、もっと多くの賜物があることが分かります。ローマ12:6には、預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善が加えられています。また、1コリント12:8には、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力と合計18ものリストが出来上がります。これに加えて先天的なもの、その他を加えるともっと多くなります。例えば音楽の賜物、絵を描く賜物、計算をする賜物、コンピュータを操る賜物などなど、数え切れません。
 
4.賜物の活用について、報告義務がある(マタイ25のタラントの話)
 
 
さて、これが神の賜物である以上、神は私達に報告義務を課しておられます。世間でも、私達が預かり物をしたとき、その管理について報告義務を持つのと似ています。もしそれを私物化して適当に使い、使い方を忘れてしまっては、貸主に申し訳が立ちません。

私達は時間という賜物について報告義務があります。ですからジョン・ウェスレーは自分がどう時間を使ったかを神に報告するために日記をつけました。お金も神の賜物です。私は細かいことには拘泥しない、とお金にルーズな人を私は信用しません。金銭出納帳くらいは神の賜物の管理者(Tペテロ4:10)としてつけるべきと思いますがどうでしょう。
 
B.賜物は、教会の建て上げのために用いられる
 
 
賜物の目的は「聖徒を整えること」(12節)です。「整える(カタルティゾー、骨格などの再構築)」「奉仕(仕える)の働きをさせ」とあるように、指導者の務めはメンバーが働きやすいように環境を整え、必要な装備を提供することです。手を取り、足を取って全部をコーチすることではなく、要点を教え、武器を与えることです。しかも職業訓練的な訓練ではなく、如何にへりくだって仕えるものとなるかの模範を示すことです。この賜物について「キリストが、地上におけるご自身の教会がその務めを適正に遂行するために与え給う、神的に制定された手段であり、力」(「キリスト教神学概論」321頁)と定義されていることを確認して、その活用に入ります。
 
1.賜物が誤用されると教会の一致が損なわれる(コリント教会、ピリピ教会)
 
 
コリント教会では、どの賜物が優れているかという競争で、教会の中で不協和音が生じていました。ピリピ教会では、二人の女性指導者、ユウオデヤとスントケが対立し、その二人に同調するそれぞれのグループが相対立していました(ピリピ4:2,3)。エペソ教会での対立について、エペソ書は明確に述べてはいませんが、異邦人とユダヤ人が混在していた教会でしたから、何らかの対立が顕在化していたようです。その証拠に、パウロは、教会の一体性を繰り返し強調しているのです(3節)。

教会の対立は、肉(神の要素を取り除いた人間性)に由来するものです。教会を建て上げるはずの神の賜物が、自己中心というばい菌が入ると臭くなり、教会の分裂さえも結果してしまうのです。

教会の一致はほっておいても自然に強化され、成長するものではなく、「熱心に保つべき」ものなのです。英語の聖書(NIV)では“Make every effort to keep the unity of the Spirit”(御霊の一致を保つためのあらゆる努力を払いなさい)と訳されています。「努力を払う」の原語はスプウダゾンテスとは、注意深く、熱心にそれを見つめ、それを促進しなさい、という強い言葉です。
 
2.賜物はキリストの体を建て上げるためのもの
 
 
・互いに仕えることによって現わされる:
「各々が賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」(Tペテロ4:10)とペテロは戒めています。逆に言えば、自分を高めるため、自分の存在を誇示するために使ってはいけないのです。この奉仕は自分が一番良くできる、他の人には渡せない、なんていうスピリットは、神の国の奉仕には全く似つかわしくない考えです。賜物は誰かを建て上げるためだけにあります。それ以外ではありません。人体が様々な器官の相互作用によって機能しているように、キリストの体である教会も、異なる賜物を持った私達一人一人が相互に仕えることによってキリストの像を形成するのです。異なる賜物を活用して互いに仕えるという美しい姿勢が、地域教会の中で、教団の中で、また、世界大のキリスト教会で見られることを主は期待しておられます。

・適材適所で用いられることを期待しよう:
「からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により」(16節)とありますように、自分の賜物がそれに相応しい奉仕の場所に当てはまり、それに相応しい力を発揮して奉仕すると、全体が高められます。その部分はあなたによってしか埋められない部分なのです。そのどこが欠けても、人体としてスムーズに機能しないのです。だから、置かれた立場で忠実に分を果たすことが必要なのです。各自がその賜物に相応しく働くことが大切です。それが競争になるのではなく、「互いに仕える」方向に働かねばなりません。これらが全部「力量にふさわしく働く」ことに依って、人体が維持、成長します。その部分はあなたによってしか埋められない部分なのです。そのどこが欠けても、人体としてスムーズに機能しません。だから、置かれた立場で忠実に分を果たすことが必要なのです。私達は賜物を預かっている管理者です。賜物は隠すためにではなく、活用するために与えられています。主に感謝しつつ、主の御力を頼りつつ、賜物を最大限に活用しましょう。日本では「指示待ち人間」が歓迎される傾向にありましたが、そのような消極的姿勢が社会や経済の停滞の理由と指摘されるようになりました。言う迄もなく主の教会においては指示待ちではなく、賜物を「生かして」用いる事が勧められています。

・互いの連携が鍵:
16節には、緊密な協力が三つの言葉で強調されています。「あらゆる結び目によって」(=アフェー=関節:エピホレーゲオー=供給の為の)「しっかりと組み合わされ」(スンハルモログウメノス=joint together, fit or frame together=一旦ばらばらにした人体を再結合させる移植手術の絵がぴったり来るであろう)、「結び合わされる」(スムビバイゾメノス=bring together=共に結び付けられている=連帯、やや人為的な要素がある)。このような連携を示す言葉の連発は、信徒は連帯してこそ霊的な命を保ちうるという相互の生命的関係を表わしているのです。単なる共同作業的連帯ではありません。主との結びつきが基本であり、それがsupplyという言葉で表わされています。これは主との個人的繋がりであり同時に横なりのメンバー同士の繋がりでもあります。信徒同士の交わりは、社交的といったものではなくて、霊的な結び付き、相互に励まし、祈り合う関係です。心を開いて話し合う、関心を持ち、祈り合う牧会小グループは、どうしても必要であります。それは、社交的といったものではなくて、霊的な結び付き、相互に励まし、祈り合う大切な関係なのです。心を開いて話し合う、関心を持ち、祈り合う、こうした助け合いの必要を忘れてはなりません。C・メラーが著した「魂への配慮の歴史」の8巻25頁に、ジョン・ウェスレーが組織した「小グループが造るキリスト者社会」においてこそキリスト者らしい同士意識とキリスト者としての義務感が組織的に養われた、と記されていることは、注目に値します。ウェスレーの言葉によると、「これらの人びとは、共に祈りをするために、ひとつに結ばれました。戒めの言葉を受け止め、互いの愛に目を注ぎ、互いに助け合うためです。自分たちの救いを全うするためです。」(同書31−32頁)
 
終りに
 
1.教会の共同体意識を高めよう
 
 
教会がキリストの体、共同体であることを認め、互いを尊重し、互いの存在を貴重なものとして感謝し、互いを助け、互いのために祈りましょう。
 
2.自分に与えられている賜物を再認識し、感謝し、充分に活用しよう
 
 
その共同体である教会の中で、私はどんな賜物をもって主に仕えることが期待されているのかを祈りつつ考え、他人の意見も聞き、捉えましょう。それを感謝し、それを活用しましょう。指示待ち人間になって遠慮とか謙遜とか言って引っ込まないで、このようなものですが、と言って、自分を差し出す人となりましょう。
 
3.他の人の賜物を評価し、その活用を願おう
 
 
自分だけではなく、他人の賜物を評価し、感謝し、その故に神を褒め称え、その人を励まし、助けましょう。
 
お祈りを致します。