プレイズ・ワーシップ メッセージサマリー 

(教会員のメモに見る説教の内容)


聖書の言葉は新改訳聖書(改訂第三版=著作権・日本聖書刊行会)によります。

2008年1月13日

箴言が語る実際的知恵@
「神第一の生活」


竿代 照夫牧師

箴言3章4-7節

                 該当聖句

4-7神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。

(箴言3章4-7節)


A.はじめに

今年は、6月まで『箴言』から実際的な知恵を学びたいと思います。 箴言は、実に含蓄の深い実際的な知恵に満ちていて、読むと「なるほどなるほど」と思わされることが多い場所です。 これを少し掘り下げて、その真髄を掴み、私達の日常生活にあてはめたいと思います。 今回は3:4-7までを扱います。神を畏れる生活の基本形がここにあります。特に6節の
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
をキーワードとして捉えます。

B.主を認めるとは・・・

1.見ておられる神を意識すること

まず、主を認めるとは、主の支配を頷いて、それにかなう生活を送ることです。さらに、私達を見つめておられる神を意識して生活することです。 ヨセフは、大きな性的誘惑に曝されたとき、
こんなに大きな罪を神の前に行うことができようか
といって退けました。誰にも分からないからやってしまえ、という考え方とずいぶん大きな開きがあるものです。 昨年は「偽り」がキーワードでした。偽りの商品表示、偽りの賞味期限、偽りの申告・・・。それらが発覚すると、「部下がやった」と部下に責任をなすりつけ、どうにもならない証拠が突きつけられるときはじめて「皆さんにご迷惑をおかけした」と詫びますが、決して「私が嘘をついて申し訳ありませんでした」という記者会見を見たことがありません。 問題なのは、人々が主を認めていないからです。

2.神に喜ばれる歩みをすること

神と人との前に好意と聡明を得よ。
と4節に記されています。どこでも見ておられる神に喜んでいただけるように、という心がけで生きていくことです。 誰が見ていても見ていなくても、誰が誉めても誉めなくても、神に眼を注いでいる人は、変わりない忠実さを持って時間を使い、お金を使います。人の見ていない細かいことでも忠実にその職務を全うします。 サムエル・チャドウィックは、教会学校のラリーで 「イエス様が履いていただいてもいいように靴をしっかり磨きなさい」という説教を聴いたとき、自分がいい加減にその仕事を切り上げてラリーに出席していたことを思い出し、集会後早速家に帰って、お父さんの靴を磨きなおし、ピカピカに磨きあがったとき、「これならイエス様がはいても大丈夫と思った」というのです。サムエルにとっての「回心」経験でした。

3.主に信頼すること

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな
と5節に記されています。また、7節には
自分を知恵のある者と思うな。
とも記されています。 私達はいかにしばしば、自分の判断力は正しい、自分は物事を見極める力がある、正しいことをやり遂げる力があると自己過信して、転倒してしまうことでしょうか。 神が知恵の創造者でありますから、私達が持っている知恵も神の賜物であり、神が私達に判断力を与えていてくださる、と思っても罪ではありません。ただ、その知恵は、神と共に歩むときにその力を発揮しますが、神と離れると、とんでもない結果を齎すこともあるのです。 日本経済新聞の最終ページに『私の履歴書』が掲載されています。2008年1月はアラン・グリーンスパン氏(前FRB議長)です。 彼がであった大統領の中で、リチャード・ニクソン氏ほど頭の良い大統領はいなかった、と評しています。しかしニクソン氏は、その頭の良さを政治的な敵を倒す策略に使い、墓穴を掘ってしまいました。ウォーターゲート事件で弾劾寸前になり、任期を残して辞任しました。 自分の賢さに頼らず、神に導きを絶えず求めましょう。自分の意志力の強さに頼らず、絶えず主の助けを求めましょう。

4.悪を離れること

主を恐れて、悪から離れよ。
と7節に記されています。神を畏れつつ、悪と同居することはできません。 実際のケースから言いますと、有名なテレビ伝道者が奥さん以外の女性と問題を起こしたり、きよめを伝えているはずの牧師がきよくない私生活を送っていたりということがないわけではありません。 この人々が神を恐れつつ悪と同居しているのではなく、神への畏れはどこかで薄れてしまったのです。職業的に説教は出来るかもしれませんが、心はおそれから離れてしまっているのです。 ヨセフの例にもありますが、神を畏れることは悪を離れることとイコールです。どこででも神を認めよ、と冒頭に語りましたが、神を認めにくいような場所からは、離れることです。
悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲るものの座に着かなかった人が幸い
と詩篇にも記されています。 「こんな映画を見てはいけない」であるとか、テレビ番組、本、雑誌だけでなく、酒、煙草、ドラッグなど
神がノーと仰ることは潔くはなれること
です。
心に赤信号が灯ったら、それは神からの警告
です。きっぱりと捨てましょう。

C.神第一の生活

あなたの行く所どこにおいても、
というのは地理的な環境だけのことを指していません。私達の立ち寄る場所はもちろん、
私達が携わる全ての活動
をも指していましょう。そこで神を認めるのです。 神を認めにくい職場、環境でも留まることが必要なケースもあるでしょう。その時こそ、主を認め、主のご干渉を祈りましょう。主のみ助けは常に豊かです。
お祈りいたします。


Message by Issac.T.Saoshiro,senior pastor of Nakameguro IGM Church
Compiled and edited by K.Otsuka/13 January,2008