礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年1月20日
 
「恵みによるハードワーク」
教会総会に備えてA
 
竿代 照夫牧師
 
第1コリント15章9-11節
 
 
[中心聖句]
 
  10   「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私は他の全ての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
(Tコリント15章10節)

 
聖書テキスト
 
 
7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
 
A.恵みを頂いたパウロ
 
1.恵みとは
 
 
恵みとは、ギリシャ語でカリスといいます。カイロー(喜ぶ)から派生した名詞で、顧み、親切、恩沢という意味です。神との関連で言いますと、「受けるに値しない者への神の特別な顧み」と定義されます。
 
2.昔のパウロ(絵図@)
 
 

今、恵みとは「価値なきものに注がれた神の特別な顧み」と定義しましたが、パウロ程、自分が「相応しくない」状態を自覚した人はいなかったのではないでしょうか。彼は過去の自分を次の三つの言葉で表わしています。

・「月足らずで生まれたもの」:
この「月足らずで生まれた者」とは、1)文字通り未熟児として生まれて、体のハンディを背負っていた、非常に小さい(パウロという名前の意味)、という意味かもしれません。しかし、2)比喩的な意味で、キリストの在世時代に入信したペテロら使徒達からみれば全く後発の信者であるという意味で「月足らずの」末っ子という意味でありましょう。未熟な状態で突然生まれたクリスチャン、即ち、他の使徒達の様に自然な形で入信し、訓練を受け、派遣されたのではなく、突然回心し、突然派遣されたクリスチャンでした。その意味では、番外の使徒でした。

・神の教会を迫害したもの:
それだけではなく、パウロは、神の教会を迫害した赦すべからざる大罪の張本人として自分を描いています。ガラテヤ1:13では、「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。」実際、ステパノを始め多くの殉教者達がパウロの迫害によって殺されました。

・「罪人のかしら」:
Tテモテ1:15,16では、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。・・・私はその罪人のかしらです。」キリストなき過去の生涯と行動が如何に罪深いものであったかに関する深刻な自覚が、パウロの恩寵感の基礎でした。
 
3.「今のパウロ」を齎した恵み(絵図A)
 
 

そんな罪深いものを見捨てる所か、反って目を留め、現れてくださったがキリストです。キリストの恵みについて、次の四つのポイントを申し上げます。

・復活の主が現れる恵み:
復活の主の(可視的な形での)現われは、復活後40日まででした。その後、主はオリーブ山から昇天されました。しかし、パウロに対しては例外で、3,4年も経ってから「パウロのために」現われてくださったのです。

・罪を赦す恵み:
キリストは、簡単に赦されないようなパウロの罪を赦して、救いに導いてくださいました。私達もそうですが、どんな消し難い罪も、恥ずかしかった過去も、十字架の身代わりで赦してくださったのです。

・信頼する恵み:
主は、それだけではなく、救いと同時に、パウロを信頼して使徒と任命して下さったのです。普通でしたならば、何処かで訓練を授け、皆の良き評判を確立してから任命するのでしょうが、パウロの場合は例外で、海のものとも山のものとも付かないうちに、いわば、先物買いのようにして、主は彼の可能性を信じて一気に使徒と任命なさったのです。私達が今ある立場、責任をよくよく考えると、どうしてこんな者がこんな立場にいるのだろうか、とか、どうして、私に出来ないような仕事が与えられるのだろうかと正直、不思議に思います。しかし、それは神の間違いではなく、神の信頼の証です。私が付いているから、君ならやれるよ、という信頼が注がれているのです。これも恵みですね。

・支え続け、溢れた恵み:
その時から、この手紙を書くまでに約20年が経っています。弱いときに強くし、迫害に遭ったときに一緒にいて助けを与え、心挫けるときに新しい力を与えてくださいました。

パウロは、その生涯の一こま一こまを思い返す時に、「神の恵みによって、私は今の私になりました。」としか言い様が無かった事でしょう。

そして、自分のような価値なき者が恵みを頂いているのだから、他のすべての人も同じように恵みが注がれるはずだ、とパウロは確信していました。エペソ3:8,9を見ると「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。」。

私達もそうです。こんな私が恵まれているのですから、他の人が恵まれないはずはない、と大胆に、そして謙って証が出来るのです。
 
B.恵みによるハードワーク
 
1.恵みを無駄にする危険
 
 
パウロは「私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」と、自分の働きは誰にも負けなかった、と正直な告白をしています。「むだにはならず」という言葉は、恵みをむだにする危険が私達にあることを示唆しているようです。Uコリント6:1でパウロは、「神の恵みをむだに受けないようにしてください」と懇願していますが、これは、神の恵みを正しく理解し、受け止めないで、それを無視したり、誤用してしまう危険があることを示唆しています。その例を挙げます。

・「恵みによる」のだから、怠けよう?:
恩寵の強調が怠惰への言訳に陥る危険があります。私はいい加減でも主は万事良くして下さる、という誤った恩寵感です。試験勉強などしなくても、いざとなれば神は助けてくださるという便利な、自分勝手なご利益主義が、案外私達の真面目な信仰生活を妨げています。

・「恵みによる」のだから、律法はいらない?:
また、全てが恵みによるのだから、生活はいい加減でも良い、むしろいい加減のほうが恵みを感じることが出来るという誤った考えも起き得ます。これは、ローマ人への手紙に、(パウロの福音への仮想的な反論として)しばしば登場する考えです。「恵みが増し加わるために、罪の中に留まるべきでしょうか。」(6:1)が代表的な考えです。ウェスレーの時代には、あからさまなアンティノミアン(律法廃棄論者)という人々がいました。神は私達のあり方がどうあっても恵んでくださるのだから、真面目な生活は必要ないという考えが、教会を毒していました。

・恵みを頂くための勤行?:
恵みの誤解からですが、より大きな恩寵を得るために厳しく修業をするという(これも一見正しい様に見える)誤った律法主義も存在します。私達は恩寵の手段を強調しますが、これは、私達の正しい行いの対価として恵みが与えられる、というのではありません。例えば、今日はデボーションをキチンと持ったから、良い一日が保証されるというのは、実際問題として間違いではないまでも、誤りを齎しやすい考えです。[恩寵の手段というのは、神が恩寵を下さりやすいような姿勢を私達が取るという意味での手段です。ジャーの水をコップに注ぐとき、コップを低い位置に置く、というのと似ています。]

さて、上に述べた考えはみな、恵みの履き違えから起きています。恵みとは一方的な神のご配慮によるものという原点をしっかり捉えましょう。
 
2.恵みに衝き動かされた勤勉(絵図B)
 
 

さて、神の恩寵が彼を衝き動かす勤勉となって表れた、とパウロはいうのです。

・恵みに感じて一生懸命働く:
パウロは、新鮮に、感恩の情に満ちて恵みを受け取りました。その恵みがパウロを突き動かして、誰よりも多く働くものとしました。その努力、戦略の雄大さ、結実のどの面から見ても、パウロの働きは群を抜いていました。

・開拓的伝道の実践:
ローマ15:16-20には、「16 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。・・・私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」と語っています。私達は教会奉仕であれ、社会における勤労であれ、家庭内の営みであれ、あらゆる面で勤勉で怠る事なく、主に仕える心で事を行いたいものです。それも他人との比較では無く、義務感からでも無く、賞賛を求める動機からでも無く、純粋に恵みに感じて行いたいものです。奉仕は、ねばならぬという義務感では続きません。猫信者というのがあるそうです。伝道セにャ、奉仕せにャ、献金セにャ、集会出席セにャとニャアニャア言っていると言うのです。

・(ペテロの例を見てみましょう)キリストの愛に応えて牧会:
ペテロは、「我を愛するか」との問いに「はい」と答えたとき、牧会の務めを与えられました。ヨハネ21:15を見ましょう。「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』」今日主は「愛しますか」と問いかけておられる。もし愛するなら、私の子羊を飼う、という魂への重荷と愛に表れて欲しいと期待しておられます。

・(マケドニヤの教会の場合)恵みが溢れて献金:
喜んで献金した人の例はマケドニヤのクリスチャンです。ローマ15:26には、こう記されています。「26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。」さらに、Uコリント8:2には、「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」としるし、さらに9節には「あなた方はキリストの恵みを知っています。富んでおられた方が、あなた方のために貧しくなられました。」とその恵みの大きさを語り、その恵みに感じてするのが献金だと述べています。

役員会等で、「先生、もっと献金について語ってください。集会の大切さについて語ってください。聖日厳守とかしっかり語ってください。」とお励ましを頂くのですが、私は、余り従っておりません。というのは、献金にしても、集会出席にしても、奉仕にしても、恵みに感じてするのが福音の本質と思っているからです。恵みに感じない人に、感じなさいといっても難しいのです。まして、奉仕せよといってもそれは義務感になってしまいます。主の恵みを捕らえましょう。主の恵みを数えましょう。値積りましょう。それは自然に奉仕に、献金に、伝道に現れてくるはずです。
 
3.その勤勉も「恵みの故」
 
 
パウロは「多く働きました。」と言った後で、「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と、ここでまた恵みを数えました。恩寵感を感じる人間になった、その恩寵感から一生懸命働く人間になった、でも、その私が偉いのでは無い、そう言う人間としていて下さるのも、これまた恵みの故である、といっているのです。徹頭徹尾恵みなのです。どんなに私と家庭が恵まれましても、その恵みを自分固有のものとして誇ってはならない、その恵みの与え主だけが誉めたたえられるべきなのです。しかし、同時にその一生懸命さすらも神の恵みによって可能となった、とへりくだっているのです。実はその謙りこそ、更なる恵みを齎す姿勢なのです。
 
おわりに
 
1.「今の私」に導いた恵みを心から感謝しよう
 
 
「昔の私」はどうであったかを良く思い出そう。故意に美化することなく、卑下もせず、あるがままの自分を、その歴史を見つめよう。心の傷があったならばそれも主の前に思いだし、この傷を癒して下さいと祈ろう。「今の私」の状態がどんなに素晴しいか、恵みを数えよう。
 
2.この年、主の恵みに感じて、一生懸命仕えよう
 
 
恵みに動かされて、一生懸命主に仕えるものとなりましょう。誰彼と比較せずに、主に眼を留め、主に仕えるものとなりたいものです。
 
お祈りを致します。