礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年1月27日
 
「手許にあるなすべきこと」
教会総会に臨んで
 
竿代 照夫牧師
 
伝道者の書9章4-10節
 
 
[中心聖句]
 
  10   あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。
(伝道者の書9章10節)

 
聖書テキスト
 
 
4 すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。 5 生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。 6 彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行なわれるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。 7 さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる。 8 いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。 9 日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。
10 あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。
 
始めに
 
 
1.第60次の教会総会を迎えました。丸の内教会の最初の礼拝が1948年4月であったと記録されていますから、今年の4月で創立60周年を迎えます。主が、創立以来今日まで多くの指導者方、信徒の方々を通して成し遂げてくださったみ業の数々の故に感謝しましょう。また、それらの方々が何を目指して今日まで走り抜けてくださったかを深く考え、継承者である私達が何をなすべきかを受け止め、献身を新にしたいと思います。今日の礼拝の第二部として議事がありますが、その中でもこの年の教会の方向性が語られることでしょう。(その意味で、総会議事を礼拝の中で行うことにも意味があると思います)

2.今朝は時間も限られていますので、伝道者の書9:10の御言を通して、私達がなすべき業に関して励ましを頂きたいと思います。
 
A.伝道者の書の特徴
 
1.神なき人生の虚しさ:すべては空
 
 
伝道者の書は、人生の虚しさをあらゆる角度から強調している本です。1:2から「空の空。すべては空。」で始まっています。「空」とか「むなしい」という言葉は、37回繰り返されています。これはヘブル語では「ヘベル(息)」で、過ぎ去って行く、実体のないもの、という意味です。2:17にも「日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。」とありますが、伝道者は徹底的な虚無感を指しているのではなく、神なき世界の虚しさを語っているのです。
 
2.「悲観的な」人生観:「日の下」という世界
 
 
その虚しさが支配している世界のことを、伝道者は「日の下」と言います。今日のテキストである9章にも6回繰り返されていますが、伝道者の書全体で言いますと、29回です。この日の下というのは「この世における限り」という限定的なニュアンスで使われています。さらに、伝道者の書には、新約聖書が語るような来世への期待が見られません(これは、漸進的啓示と呼ばれる、神の真理の段階的開示の角度から見ると、この伝道者には充分示されていなかったのでしょう)。従って、「日の下」というのは、多少の諦めを含んだ言葉でもあり、新約の光から見て、伝道者の書の言葉をそのまま私達の行動規範として捉え難いものもあります。しかし、その前提に立ち、限度を知りながら、私達への教訓を得ることもできます。
 
3.「日の下」でなすべきこと
 
 
限定された世界観とは、来世が定かでない世界観のことです。もしそれに立つと、

・人生を楽しもう(4-9節)
<とはいっても、いわゆるでたらめな快楽主義、世俗主義を謳歌しているのではありません。田園的で自然的な生活を楽しむようにという単純な勧めです。>

・現世でしっかり働こう(10節)
という哲学に辿り着きます。その中で、Aの勤勉についての教えに焦点を当てます。
 
B.勤勉の勧め
 
 
10 あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。
 
1.何をするか
 
 
・手の届く範囲で:
「手許にある」というのは、手当たり次第に何でも、という意味ではありません。英語の訳のように、「あなたの手が見出すもの」という意味です。見出す(マーツアー)は文字通りには、「でくわす」、「獲得する」、「見出す」という意味で、必ずしも、いい加減な意味で、機会に出くわしたものというのではありませんが、なすべきと示された身近な務めを指します。私達が主に仕えるとき、手の届かないような無茶な目標を立てて、自分を苦しめる必要はありません。教会々々、奉仕々々と駆け回って、家庭を無視したりするようなことは証になりません。でも出来ることを先送りしたり、避けたりすべきではありません。「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:10)とあるとおりです。

・なすべきこと:
私達は「なすべき」ことを行えばよいのです。なすべきと自分勝手に決めるのではありません。自分勝手に決めますと、それは主に対する奉仕ではなくて、自分の願いの延長になってしまいます。御言によって、祈りの内に示されるもの、信仰の先輩の承認や助言を充分に頂くものが、その「なすべき」内容です。そうでないものに手を出す必要はありません。

・示されたものはみな:
もし、示されたら、「みな行うべき」です。自分の好みや都合で選んだり、延期してはなりません。ヨナは神に仕えた預言者でしたが、自分の考えに合う仕事だけを、やりたいようにやって、叱られました。私達が一生懸命に見当違いの奉仕をしておりましても、周りの人は「あの人は一生懸命だから」と考えて、なかなか注意してくれません。何をなすべきかについては、自分でそれを見極める弁別力、他人のアドバイスを聴く謙虚さが必要です。
 
2.どのようになすべきか
 
 
・自己責任で:
「自分の力でしなさい。」と記されていますが、これは、神の力を無視することではありません。他人の力を借りないで自己責任で行いなさいという意味です。

・活力に満ちて:
「自分の力で」とは、主が与えてくださったすべての能力を用いてということでもあります。ここで使われている「力」は、ヘブル語の「コアク=活力、元気」という意味です。他にコアクが用いられているのは、ギデオンの記事です。ギデオンが神の召命を受けて躊躇したとき、神は「あなたのその力(コアク)で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(士師6:14)と語られました。「あなたのその力で」と言われたとき、ギデオンが持っていた、生まれながらの力ではなく、持ち前の勇気・才能でもなく、派遣者なる神の力が強められたものとしての「あなたの力」だったのです。
・力を尽くして:
新改訳にallという言葉のニュアンスが含まれていないのは残念です。文語訳では「力を尽くして」となっていましたし、NIVもwith all your mightとなっています。文字としてallは入っていませんが、そのニュアンスがあることは確かです。中途半端な注力ではなく、全力でしなさいという意味です。先週の火曜日にイチローのインタビューを見ました。すべての生活を試合に併せてコンディションを作り、一球毎に精神を籠めて投げ、打ち、取りに行く姿は感動的です。私達の生活の一こま一こまが、「一球入魂」のように、神の栄光を現わすために集中したいものです。
 
3.いつなすべきか
 
 
・現世においてのみ:
伝道者は「あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」と来世に対するやや悲観的・懐疑的な見方を示します。生命の永遠性を信じている新約のクリスチャンは、来るべき世においては、より良い生き方、永遠の神の豊かな報いを信じて働くという高い動機付けが与えられているのですが、それはそれとして、現世にしか出来ない働きがあることも事実です。特に魂をキリストに導くという点では、あの世に行ってからやきもきしても遅い、と主イエスは語っておられます(ルカ16:27-31)。

・「今」を大切に:
ですから、主イエスは、今の機会の大切さを噛み締めながら、今与えられた務めを、切迫した思いを持って行いなさいと語られます。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9:4)先ほど賛美しました中にも「業止むる夜の来るは早し」とありましたね。いつ眼をつぶっても悔いのない「今」の生き方を全うしようではありませんか。
 
終わりに
 
 
これから総会議事に入ります。その前に考えましょう。

1.私に取って「手許のわざ」とは?

今年のために、主が私に与えて下さる「手許のわざとは何か」を、総会の議事の中から汲み取ってください。

2.その業に全力を尽しているか?

それを汲み取ったならば、全力を注いで、その業の達成のために働きましょう。

 
お祈りを致します。