礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年2月3日
 
「残された者の輝き」
イザヤのメッセージ(7)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書4章1-6節
 
 
[中心聖句]
 
  2   その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。
(イザヤ書4章2節)

 
聖書テキスト
 
 
1 その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」
2 その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。3 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。4 主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、5 主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、6 昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。
 
はじめに
 
 
クリスマス、新年にかけて、特別な講壇が続きましたが、やっとノーマルな聖書の連続的な学びに戻ります。クリスマス前にはイザヤ1-3章を章毎に取り上げ、クリスマス近くには、7,9,11の各章から、イザヤのメシア預言を取り上げました。今日は、4章に戻り、特にイザヤの特徴的な言葉である、「残りの者」(英語ではレムナントと言います)の思想を学びます。
 
A. 裁きの日(1節)
 
 
1 その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。
 
1.社会の基盤が覆る (3:7前後)
 
 
1節は「その日」という言葉から始まります。どんな「日」なのでしょうか。これは、同じ日のことを預言している3:7,18の続きです。3:7は、「ささえとたより」が除かれる(3:1)経験です。つまり、神以外のもので、人々が信頼しているすべてのもの(偶像=2:18、糧食と水=3:1、指導者階級=3:2,3)がきれいさっぱり除かれるという方法で行われます。これは、アッシリヤの占領によってなされるものです。
 
2.驕慢なシオンの娘達が裁かれる (3:18前後)
 
 
「その日」とは、3:18前後に記されているように、驕慢なシオンの娘達が裁かれてチョー惨めな姿を曝すその日のことです。3:16に「高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」と記されているエルサレムの娘達は、一挙に暗転して、着の身着のままの難民のような姿になってしまいます。
 
3.男性の壊滅によるパニック(4:1)
 
 
この女性達は、アッシリヤの攻撃によって激減してしまった男性を巡って奪い合いをします。「七人の女がひとりの男にすがりついて言う。『私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。』」という言葉は、早く言えば、「私と結婚してください。私は7分の1の立場(つまり、7人の奥さんの1人)でもいいですよ」という誠に謙った要求をするのです。しかも、「経済的にはあなたに頼りません。みんな自給自足で行きます、ただ、あなたの名前が欲しいのです。」という誠に切羽詰った要求をします。自分達の生存のために、「7人の妻の一人としてでも良いから助けてくれ」と叫ばざるを得ないような惨めさに突き落とされるのです。
 
B.裁きを通して残される者(2-6節)
 
 
神は、人間の歴史の中に介入して、しばしば審判を行われます。正しく歩まない個人や集団、国家に対して、斧をふるって厳しい裁きを行われます。しかし、その裁きは、単に、その個人や集団を滅ぼすためではなく、彼らを新しい存在として再生しようという積極的な意図のもとに行われるものです。教会として、教団として、止むを得ずではありますが、ある人を懲戒処分にしなければならないことがあります。実際、私の今の立場で、そうしなければならない状況に追い込まれたことがありました。しかし、私はその時に「あらゆる処分は回復的な(redemptiveな)意図で行われることをご理解ください」と、当事者にも、関係者にも書くことにしています。さて、イザヤの場合に戻ります。神はどのような形で、審判を回復に変えなさるのでしょうか。
 
1.切り株から生じる若枝(2,3節)
 
 
2 その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。3 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
 

・新しい時代を担うレムナント:

神は、ある集団に審判を執行なさるとき、全部を完全に滅ぼすことをなさらず、ごく一部を残して、次の時代を切り開く核として用いなさるという方法を取られます。丁度、木を切り倒しても、そこから若芽が生え出してきて、新しい木として成長するようなものです。道徳的な暗黒の中で光を放ったノア、アブラハムなどはその良い例です。イザヤは、厳しい預言と、明るい希望の預言を織り交ぜて語りますが、その回復の面の担い手が、その若枝であります。預言書において「若枝」は一貫して、メシアの象徴ですが(11:1,53:2、エレミヤ23:5、ゼカリヤ3:8)、レムナントの中のレムナントがメシアであり、主の栄光と祝福が「残されたもの」全体の輝きとなります。

その集団は「聖なるもの」と呼ばれます。審判という轆轤を通じて練り清められたもの、審判の火を通して清められたものです。具体的に言いますと、徹底的な破壊と虐殺を免れた者です。

・憐れみの故に「残される」(詩篇130:3):

彼らは「イスラエルののがれた者、シオンに残された者、エルサレムに残った者、エルサレムでいのちの書にしるされた者」というタイトルで呼ばれています。「のがれた」とか「残された」、「残った」というのは、余り良いイメージではありません。学校で「残された」というのは、罰として居残りを命令されたというイメージで使われるからです。このレムナントも、そのフィーリングを引きずっています。

彼らが「残された」のは、何かの固有の価値があった訳ではありません。神の格別な配慮と憐れみの故に「残された」のです。私達の内だれが、神の裁きの前に立ち得ましょうか。詩篇130:3に「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、だれが御前に立ちえましょう。」と記されている通りです。私達が神の審判から逃れる唯一の道は、キリストの尊い血潮によってだけであります。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト12:13)と記されている通りです。
 
2.実質的な聖化を受ける(4節)
 
 
4 主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、
 
しかし、私達は「残された」だけで満足すべきではありません。残されたのは、聖別のためです。神のご期待は、ご自身が清いように、その民も清くなることです(レビ19:2)。

・裁きと焼き尽くす御霊によって:

聖と呼ばれるだけではなく、実質的に清められる必要があります。主は、「さばきの霊と焼き尽くす霊によって、汚れを洗い、流血の罪からすすぎ清め」なさいます(4節)。バプテスマのヨハネは、主イエスが授けるバプテスマは、「聖霊と火」とによってであり、私達の心の隅々まできよめ、私達の汚れを焼き尽くすお方である(マタイ3:12)と紹介しています。キリストの十字架と、ペンテコステの恵みによって、神は私達の心を清め給うお方です。

・洗いと清めによって:

これは、キリストの十字架による徹底的な洗いと聖めを示唆しています。キリストの血はすべての罪から私達を清めなさいます(Tヨハネ1:7,9)。しばしば多くのクリスチャンの証の中に、「私達は『赦された罪人』に過ぎない」という表現で、罪を日常的に許容する傾向のあることを見出します。確かにそれは間違いではないのですが、もう一歩、主イエスの血がすべての罪から私達を清めてくださるという、主のみ業としての聖めを信じ、告白し、そこに歩む積極的姿勢が必要と思います。私達が本当に、真実に自らを明け渡し、主のみ業の轆轤に身を任せるとき、主は私達の過去がどうあろうとも、私達の実質がどうあろうとも、神は私達を驚くべき美しい傑作品として作り変え給うお方です。

私が仙台で伝道しておりましたとき、家の斜め前にクヌートソンというルーテル派の宣教師がおりました。お宅に行きますと、玄関に陳列棚があり、きれいな陶器・磁器が飾ってありました。今日で言えば、お宝鑑定団に出したくなるようなものばかりです。どうして手に入れなさったかを尋ねましたら、なんと、かれは、ゴミ箱から拾ってきたものばかりだ、と言うのです。ゴミ箱から、拾ってきた汚い、欠けだらけの器物を洗ったり、磨いたり、塗り替えたりしてきれいな飾り物とすることが彼の趣味だと聞きました。私達もそのように、捨てられていたようなものでしたが、キリストの贖いの故に拾い上げられ、洗われ、作り変えられて行くのです。何という恵みでありましょうか。
 
3.あらゆる危険からの守り(5-6節)
 
 
5-6 主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上におおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。
 

・出エジプト時の「雲と火の柱」:

このように残された者たちに、神は豊かな恵みを注いでくださいます。その一番大きな恵みは「守り」であります。それを象徴する絵が、出エジプトのときに現れた「雲の柱、火の柱」です。出エジプト13:21,22を見ますと、昼は民を導くために雲の柱の中に、夜は彼らを照らすために火の柱の中に主が臨在なさったと記されています。イザヤは、その絵を敷衍して、昼は暑さを避ける陰となり、嵐と雨を防ぐ避け所と隠れ家となってくださる、と記しています。さらに、彼らを清めた火が、今度は守りの火として存在するのです。野営をするとき、回りに焚き火をしますと、野獣から守られるのと似ています。誠に、麗しい絵です。

・人間が経験するすべての危険からの守り(詩篇91):

しかし、これは単なる麗しい絵だけではありません。実際に、神は私達の避け所、悩めるときのいと近い助けです。

第二次大戦のとき、迫害に遭ったユダヤ人を匿った罪に問われて収容所生活をしたオランダ人のコーリー・テン・ブームという女性が、「わたしの隠れ場」(The Hiding Place)という本を書きました。これには二重の意味があります。コーリーとその家族が、勇気を持って迫害されている人々のためにHiding Placeを提供したこと、さらに筆舌に尽くしがたい苦しく厳しい収容所生活の只中で、神が彼女のHiding Placeとなってくださったことの二つがその意味です。特に、彼女が居た収容所にはノミがうじゃうじゃ居て、とても辛かったけれども、「すべてのことを感謝せよ」というお姉さんの勧めにしたがって、ノミの故にも感謝したという記事が印象的でした。後から分かったことですが、彼女達が誰はばかることなく聖書を読み、祈ることができたのは、ノミのために見張りですら近づこうとしなかったからだそうです。また、お姉さんが必要としていたビタミン剤を周りの人々に分け与えたとき、エリヤの時の様な奇跡が起きて、何時まで経ってもその瓶から液体が流れ出てきたという不思議な話も載っています。

神が私達の隠れ場であるというのは観念ではありません。現実です。或いは現実逃避でもありません。昼の太陽が焼きつくそうと私達の頭の上にじりじりと照りつけ、嵐が襲い掛かって私達の存在すら吹き飛ばそうとすることはあります。それらがみんな現実であり、私達はその現実に向き合わねばなりませんが、それ以上の強い現実は神の臨在です。今週のすべての営みのために、神の雲の柱、火の柱がともない、「それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」と確信しつつ歩みましょう。
 
終わりに
 
 
1.感謝
 
 
私達が憐れみの故に「残された」恵みを感謝しましょう。今、私達が裁きを逃れているのは、私達の固有の価値でも功績でもなく、ただただ、主の憐れみ、恵みの故であることを心から感謝しましょう。
 
2.信頼
 
 
変わることのない主を避け所として信頼し続けましょう。今週もどんな嵐が待っているか私達には分かりません。しかしどんな困難のためにも避け所となってくださる主を信頼し、その庇護の下に留まりつつ、平安な心を継続しましょう。
 
お祈りを致します。