礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年2月10日
 
「期待はずれのぶどう畑」
イザヤのメッセージ(8)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書5章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  4   なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
(イザヤ書5章4節)

 
聖書テキスト
 
 
1 「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。2 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
3 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。4 わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。5 さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。6 わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
7 まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。
 
はじめに
 
 
1.昨週は、4章から、イザヤの特徴的な言葉である、「残りの者」(英語ではレムナントと言います)の思想から、@神の憐れみ(のゆえに、裁きの只中から、いくばくかのものを残し給う)、A神の聖さ(のゆえに、神はその民を清め給う)、B神の守り(神はその民をあらゆる危険から守り給う)と、三つの角度から学びました。

2.今日は第5章に入ります。有名な「ぶどう畑の歌」です。ここでは、イスラエルがぶどう畑に、神がぶどう畑の所有者に譬えられています。そのぶどう畑が、期待通りの実を結ばず、裁きを受けるという歌です。それが述べられているのが1-7節です。(余分なことですが、以下のアウトラインは、30年ほど前に出版されました「インマヌエルの道V」という聖書各章を一日ずつのデボーション用に纏めた本の中で、私の担当部分であるイザヤ書のアウトラインに沿ったものです。)
 
A.神の期待(1-2節a)
 
1.ぶどう畑としてのイスラエル
 
 
イスラエルをぶどう畑として譬える言い方は、イザヤ書だけではなく、聖書の中に沢山出てきます。それはイスラエル農業の中心がぶどうだったことにもよります。

・イザヤ書では27章が、主が守り給う「麗しいぶどう畑」(27:2)としてイスラエルを描いています。

・詩篇80篇は、イスラエルのことを、エジプトから移植されたぶどうの木として描いています(特に80:8)。

・エゼキエル15章は、「実を結ぶ以外に何の取り柄もないぶどうの木」とイスラエルに譬えています。

・エゼキエル17,19章もイスラエルの繁栄と没落をぶどうの木のサイクルに譬えています。

・マタイ21章は、ぶどう畑で働く農夫を不服従のイスラエルにたとえています。

・ヨハネ15章は、実を結ぶぶどうの枝をクリスチャンに譬えています。
 
2.ぶどう畑作り(絵図参照)
 
 
ここに、ぶどう畑のプロセスが示されています。添付の絵図をご覧ください。

・良い場所:
肥えた山腹。日当たりの良い、しかも地味の肥えた場所を選ぶことからぶどう畑つくりは始まります。

・良い畑:
イスラエルは石の多い土地ですから、そこを耕すことが必要です。また、石を取り除いて、ぶどうの生育に優しい環境を整えます。イスラエルは全体的に石灰岩が多くありましたので、それらを取り除くのは大変ですが、その石は、石垣として使えましたから、便利ともいえます。

・良い品種:
ぶどうの植え付けについても、よい品種を選び、注意深く植えつけます。「甘いぶどう」の直訳は、「赤(ソレクの)ぶどう」で、ソレクという肥沃な谷で栽培されていたおいしい品種のことです。イスラエルでは、今日のぶどう園のように、背の高い木に育てるのではなく、横に張って広がるように低い支柱を沢山立てます。

・良い防護:
ぶどう畑の周りは、必ず石垣を巡らします。泥棒や狐などの野獣を防ぐためです。しかも、その要所々々に見張り小屋をやぐらのように建て、収穫時には昼夜見張りを置いて、泥棒や野獣、果ては鳥達も追い払います。

・良いぶどう酒作りの施設:
収穫されたぶどうは、籠に入れられ、山のように積まれます。それを石または足で踏み、汁を絞ります。それが良いぶどう酒作りの基礎になります。

・良いぶどうへの期待:
このようにして力を入れたぶどう畑作りを行う目的は一つです。良いぶどうの収穫以外何物でもありません。通常、ぶどうの苗を植えて二年間は収穫のために待たなければなりませんでした。
 
3.良いぶどう畑としてのイスラエル
 
 
・エジプトからの移植:
詩篇80篇を参照すると、このぶどう畑作りがイスラエルの歴史と重ねられています。神がイスラエルを選びなさったこと、エジプトにおける奴隷のくびきから救い出されたこと、乳と蜜の流れるカナンの地に導き入れなさった事が、ぶどうの木を移植されたこととして描かれています。

・イスラエルへの期待:
繰り返しますが、イザヤの預言は農業問題ではありません。イスラエルを神の民、神の聖き民として整えることが、カナンへの移植の目的でした。カナン土着の偶像教をきれいさっぱりと取り除き、「公正と正義」(7節)を基礎とする国民を作ろうとされたのです。このぶどう畑の譬えの強調点は、神がその聖い民を造るために最善の手立てをなさったということです。

・クリスチャンへの期待:
同じように、キリスト者に対して神は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)という御霊の実を期待しておられます。
 
B.神の失望(2b-4節)
 
1.酸っぱいぶどう
 
 
こんなに期待されたぶどう畑の話に戻ります。秋が来ました。ぶどうの収穫の時期です。ぶどう畑の主人が成育の様子を視察に来ました。ところが、彼の期待に反して、何とそこに成っていたのは、「酸っぱいぶどう」(NIVではbad fruit、文字通りには臭いぶどう)だったのです。これは、「野ぶどう」への回帰と見られます。品種改良が進んでも、ほっておくと昔の性質に戻るのと似ています。主人の失望はいかばかりだった事でしょう。つまり、神の恵みが溢れるほど注がれているのに、ぶどうの木は、恵みが一つも注がれていないかのように、野生のままであったということなのです。
 
2.イスラエルへの失望
 
 
もちろん、ここでは酸っぱいぶどうとはイスラエルのことです。7節を読みましょう。「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」

・公正(ミシュパット)の代わりに流血(ミスパク)、正義(セダクァ)の代わりに泣き叫び(セアクァ)、というのは一種の言葉遊びで、似たような言葉だけれども、全然反対の概念が示されていることを印象的に語ります。

・そして、その実態は8-23節に記されています。この中に「ああ」という感嘆詞が6回繰り返されています。この「ああ」は嘆かわしい「ああ」であります。貪欲、陥落、偽り、傲慢に満ち満ちた社会です。

8-10節: 利己主義による貧富の差(=土地を最大限増やすものと、そのあおりで、狭いところに押し込められる大衆:それがイスラエルの荒廃を齎す=10エーカーの土地が15キロリットルのぶどう酒を産する代わりに30リットルしか産しない)
11-17節: 泥酔と歓楽(彼らはどん底に追い込まれる)
18-19節: 神を認めない罪人の開き直り
20節: 偽りで塗り固められた社会(丁度今日の日本のようです)
21節: 傲慢(己の知恵により頼む人々)
22-23節: 不正と賄賂

イザヤの描写を読むと、今の日本の社会がそのまま映し出されているようで、恐ろしい気持ちになります。私達は神がいない、神の裁きは無いと言う前提でものすごい勝手な道を進んでいます。しかし、神は生きておられ、裁きを必ず行い給うお方です。神を畏れましょう。
 
3.その責任は誰に?
 
 
・神の手落ち?:
4節は、その責任が誰にあるのかという悲痛な問いかけがぶどう畑の主人によってなされます。「私はぶどう畑のために、ありとあらゆる手立てを尽くしたではないか。どうして、なぜ、こんな酸っぱいぶどうが実ったのか?」と。主はイスラエルに対して啜り泣きのような訴えをしておられます。「私は、あなたがたが神の聖い民となるために、ありとあらゆる手立てをしてあげたではないか。エジプトのくびきを打ち砕き、紅海を二つにわけ、荒野ではマナをもって養い、シナイ山では律法を与えたではないか。ヨルダン川を二つに分け、エリコの城を奇跡的方法をもって崩し、カナンの征服を許し、乳と蜜との流れているその地を与えたではないか。神を恐れる王様を与え、周りの国々を従わせるほどの威光を与えたではないか。ああ、それなのに、なぜ、あなたがたの心は依然頑固で、自己中心なのか。貪欲、暴力、不法、虐げ、賄賂、偽り、不品行という恐ろしい実を結んでいるのか。」と。

・イスラエルの頑固:
答えは記されていませんが、それは容易に分かります。神の責任ではなく、イスラエルの人々の心が問題なのです。彼らが神の恵みを心から感謝し、評価し、それにより縋って生きようとしないからなのです。
 
C.神の審判(5-6節)
 
1.荒廃したぶどう畑
 
 
・放置されるぶどう畑:
ぶどう畑に対して主人のすることが5-6節に示されます。石垣を崩して、泥棒の出入り自由にします。ぶどうの木は選定されないままにほおって置かれますから、櫛の入らない髪の毛のようにボウボウと伸び放題になります。雑草は伸び放題ですから、茨やおどろが生えて、ぶどうの木の養分を奪ってしまいます。その上雨が降りませんから、ぶどうの木自体も枯れてしまいます。

・滅ぼされるぶどう畑(24節):
24節は、その先の状況を示します。「それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。」主の審判は厳しく、容赦のないものです。
 
2.イスラエルへの懲罰
 
 
もちろん、この荒れ果てたぶどう畑はイスラエルの絵です。主は遠い国から恐ろしい軍隊を送り、イスラエルを徹底的に滅ぼしなさいます。その姿が26-30節に生き生きと描写されています。「26 主が遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。27 その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。それはまどろまず、眠らず、その腰の帯は解けず、くつひもも切れない。28 その矢はとぎすまされ、弓はみな張ってあり、馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる。29 それは、獅子のようにほえる。若獅子のようにほえ、うなり、獲物を捕える。救おうとしても救い出す者がいない。30 その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。」これは、獰猛で鳴るアッシリヤ軍隊のことです。これは実際にイザヤの生涯に起きました。
 
3.望みはないのだろうか?
 
 
この5章は、望みなき預言で終わっています。「闇と苦しみ。光さえも雨雲の中で暗くなる。」(30節)しかし、イザヤ書全体から見ると、決して暗闇のままで終わってはいません。この暗闇に希望を与えるのが、7,9,11章で描かれているメシアによる神の国です。9:2を読みましょう。「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った。」と。キリストの来臨のみが、この絶望的なぶどう畑への希望であります。
 
終わりに
 
 
1.感謝:
私達は神の大きな期待を受けていることを感謝しましょう。

2.悔い改め:
しかし、私達は私達の生涯において、いかに酸っぱいぶどうを実らせていることでしょうか。愛といたわりの言葉の代わりに人を呪う言葉、冷たい刃のような言葉をもって人を傷つけていることでしょうか。賛美と感謝の代わりに、不平と不満の言葉を神に対して放ってしまうことでしょうか。尊敬と配慮の代わりに憎しみと嫉妬によって互いの人間関係を損なってしまうことでしょうか。これらは正に酸っぱいぶどうです。酸っぱいぶどうを認めたら、ぶどう畑の主人を責めてはなりません。何で私をこんな風に生んだのかと、創造主を責めるなんてとんでもありません。私達の自己中心と頑固、我侭の結果でしかありません。私が私自身に失望する以上に、私が愛に満ちた創造主を失望させてしまっていることに、私達は深い反省と悔い改めをなすべきではないでしょうか。

3.信頼:
私達の立ち処は、神の憐れみと救いの徴であるイエス・キリスト以外にありません。「あなた方が救われたのは恵みによる」(エペソ2:5)ことを本当に、腹の中から理解し、感謝し、主の憐れみにより縋りつつ、信仰生涯を全うしたいと思います。
 
お祈りを致します。