礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年2月17日
 
「イザヤは神を見る」
イザヤのメッセージ(9)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書6章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  5   そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主です王を、この目で見たのだから。」
(イザヤ書6章5節)

 
聖書テキスト
 
 
1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主です王を、この目で見たのだから。」6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
 
はじめに:イザヤ6章の位置
 
 
イザヤが6章に記されている幻を見たのは、彼の奉仕の最初でしょうか、それとも、途中で起きた出来事でしょうか。前者とすると筋道としては理解し易いのですが、多分後者でしょう。というのは、かれはウジヤの治世に約20年間預言をしたと述べているからです(1:1)。この幻は、預言者としてイザヤを召し出したものというよりも、かれの霊的な生活と奉仕を深めるものでありました。彼のきよめの経験であったと言えましょう。
 
A.幻の背景:ウジヤ王の死
 
1.ウジヤの統治(791-739BC)
 
 

ウジヤの下にあって、ユダはソロモンの時代以来かつて享受しなかったような繁栄と権力を獲得しました。城壁、塔、櫓、強大な軍隊、紅海貿易の港の建設、などは貿易の利得、戦勝を齎しました(U歴代26:1-15)。しかし、力と富に伴って、強欲、圧迫、宗教の形式化と腐敗もやってきました。若いイザヤはその繁栄と共に、その影というべき腐敗をも見証しました。ウジヤは神を恐れた王でありましたが、彼は祭司の役を演じる傲慢の罪に陥り、その罰としてツァラアトを患うようになりました(U歴代26:16-21)。つまりイザヤはウジヤの光と影の両面をしっかり見たのです。イザヤがウジヤの従兄弟であったという伝説もありますが、強ち否定できません。
 
2.アッシリヤの勃興
 
 
同時に東の地平線には新しい力が黒雲の様に拡がり始めていました。それは新興勢力としてのアッシリヤでした。特にテグラテピレセル3世(745-729BC)は、その征服の矛先を西に向け始めました。その侵略振りは徹底していて、反逆を防ぐ為の「根こそぎ移住」政策を実行しました。
 
3.ウジヤの死が意味するもの
 
 
従って、ウジヤの死(740)は、ユダにとっては繁栄の時代の終り、暗黒の時代の到来を象徴する厳しい出来事でした。その空位となったユダの王座を悲しんでいた時、天の王座に座し給う神の幻を見たのです。

心の中で当り前と思っている人物(両親、牧師、社会のリーダー、など)が突然取り去られると、私達が無意識的に彼等を神よりも確かな者と思っていたことが知らされます。この様な危機は実は真剣に神を求める機会となりうるのです。
 
B.幻の内容:偉大で聖い神
 
1.高き王座の神
 
 
「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」神は高きに居ます絶対的支配者であられます。「高く上げられた」とは、神の卓越性を示します。「王座」は、当然のことながら支配者としての神を示します。「主」(アドナイ)も支配者、力強い方、しっかりと動かない方であることを示します。人間の支配者は変わり行く、しかし主は変わり給いません。

神は目に見えないお方として私達は教えられています(ヨハネ1:18)。その神を「見る」ことは死を意味する、とさえ記されています(創世記32:30)。イザヤが神の幻を見た意味は何でしょうか。目に見えない神が、見える形での栄光の衣を纏われる、その姿を見た、というべきでありましょう。ヨハネは、イザヤが見たものはイエス・キリストの栄光であると理解しています(ヨハネ12:41)が、この思想を示すものでしょう。
 
2.偉大な神
 
 
「そのすそは神殿に満ち」とは、その偉大さを示します。ウジヤよりもテグラテピレセルよりも遥かに遥かに偉大で、大きな懐を持ち給う神です。地上の王を失ったイザヤにはこの幻は大きな意味を持っていました。世の支配者は移り行く、しかし天に於ける支配の御座は変わらない。私達の人生にどのような変化が訪れようとも、この事実をしっかりと見据えて歩みたいものです。
 
3.聖い神
 
 
・セラフィムの行動:
2節「セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり」セラフィムとは、「燃えているもの」のことです。そのセラフィムが、普段は飛翔に使う六枚の翼の内、四枚をもって身を覆わねばならぬほど、神の聖さに触れたのです。

・セラフィムの言葉:
「3節 互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』」聖なる方としての神が意識されています。聖(ヘブル語のクワドシュ)とは切り分かつという語源から来ており、一切の汚れから解き放たれたきよさを示す言葉です。神は地上の一切の汚れから離れた、近づき難い存在であられます。しかし、そのお方が私達と交わりを持ちたく願っておられる、そこに信仰者の聖潔の必要が存するのです。

・セラフィムの叫び声:
彼らの叫び声の大きさで、神殿全体が揺るぎ動くほどだったというのですから、何ともそのインパクトが強かったことが分かります。
 
C.幻の効果:自分の罪の発見
 
1.唇の汚れ
 
 
5節「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主です王を、この目で見たのだから。』」光を通してガラスを見つめると多くの汚れがはっきりと分かるように、私達もこの神を知らせて頂くとき、自分の本当の姿を見ます。「神のご臨在の前に立った人はみな、自分が価値のないものですことを深く感じる。」のです。

罪は多くの場合具体的なポイントで示されます。またそうでなければ、その罪認識は本物とは言えませんでしょう。彼の場合、神を賛美しているセラフィムのように賛美し、神のメッセージを語るには、あまりにも汚れた唇だというへりくだった理解に立ちます。もちろん唇だけが汚れているのではなく、その元である口の言葉が清くないという自覚に愕然とするのです。

罪がどの分野に現われるかは人によって異なりますが、ある人には、言葉、ある人は性の問題(サマリヤの女)、ある人は金(ザアカイ)、ある人は悪習慣など各々に光が当てられます。その時隠したり、言い訳しないで、ああ私は駄目な人間です、と主の前に出る謙遜さを持ちたいものです。ダビデのようにまた、取税人のように。
 
2.誰彼ではなく自分!
 
 
彼は自分こそはきよい人間、神の器、神の僕と自負していました。1-5章まで、イザヤは他人を裁くメッセージを語りました。それは間違いではありません。しかし、その時自分はどうかという問いかけが欠けていました。自分を聖い神の側に置き、その目から罪深き民を裁いていたのです。その自分が聖い神の臨在に触れるとき、何と醜いものかと愕然とさせられたのです。マルチン・ルターの例:この聖い神の前にある一寸法師のような自分とは一体何物か。

「きよめられた」人に認罪はあるのでしょうか。私はあると思います。どんなに聖徒と呼ばれる人でも、限りなく聖い神の御前に出るとき、自分が相応しくない存在であることに愕然とします。もちろん、クリスチャンの認罪は、救われる前に抱いたようなものとは異なるものでしょう。以前は、不品行とか盗みとか暴言とかということが認罪の対象だったことでしょう。しかし、クリスチャンとなった後での認罪とは、より深く愛さないこととか、クリスチャンなるが故に無意識に持ってしまう霊的傲慢とか、自己満足感とか、深いものです。私は神の御前における「相応しくなさ」の自覚を失った「きよめ」はあり得ないと思います。その自覚を深く持ちつつ、同時にきよめ主である主を仰ぎ、頼り続けるところに、信仰の成長があると信じます。どんなに信仰が進んでも、聖い神の前に馴れ馴れしくなることはありません。逆に、イザヤのような新鮮な恐れ(畏れ)が深くなるものです。
 
3.滅び去るべき私
 
 
イザヤは「ああ。私は、もうだめだ。」と言いました。文語訳は「ああ、我滅びなん」です。英訳では“Woe is me, for I am undone.”とか“Woe to me. I am ruined.”です。「だめだ」とは、ヘブル語でダーマー(DaMaH)で、「切り離す、存在を止めさせる、滅ぼす」と言う意味です。イザヤは、「神から切り離される、滅ぼされる」と叫んだのです。罪を持って居ても、それで当たり前と思って平然としている人が案外多いものです。しかし、本当は、罪を持つことが滅びに値するほど申し分けないことなのだという自覚が必要なのです。
 
D.幻の効果:神のきよめの経験
 
1.燃え盛る火
 
 
「6節 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。」祭壇の火、これはたきぎによって絶えず燃やされ続けていました。その火が天来の火として、しかもセラフィム(火の天使)によって運ばれてきました。これは徹底した罪の解決を示唆する言葉です。バプテスマのヨハネも主イエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)といい、更に「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:11)と言いました。火とは、すべての汚れを焼き尽くすもの(ヘブル12:29)です。
 
2.個人的な、完成された救い
 
 
「7 彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」私個人のその口に、しかも罪の問題の中心である口に神は触れ給うたのです。しかも、その不義は取り去られ、罪もあがなわれたのです。罪の除去と、罪の贖い(KPHR=覆う)とは同じことです。新約の場合、キリストの十字架によって私達の罪は終りとされました。へブル9章には、キリストの与えられる救いの徹底性が示されています。「キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(11-15節)更にガラテヤ3:13を見ましょう、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものです。』と書いてあるからです。」最後にエペソ1:7を開きます「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」

キリストが完成された全き救いが一人々々にあてがわれるとき、私達は「清められ、あがなわれた」と言いうるのです。クリスチャンの中で、私は「きよめられた」と宣言することに躊躇を覚える人がいます。そんなことをいうのは傲慢だとまで考えるのです。正に、そのきよめが自分の功績ならば傲慢でしょう。しかし、一方的に神のみ業であるならば、「神の恵みにより、キリストの贖いによって私はきよめられました。主をほめよ。」と堂々と賛美してよいのです。もちろん、そういいながら、偉ぶらないで、尚々削っていただく面、足していただく面を謙って認めつつ信仰の成長を見るのが、本当のクリスチャンのあり方です。
 
終わりに:私達もイザヤのように!
 
1.自分の罪に向き合い、告白しよう
 
 
私達も、イザヤのように、主の御前に出、罪を示されたとき、逃げないで、その認罪を正直に言い表しましょう。しかも、一般的な、ぼんやりとした表現ではなく、個別的・具体的にそれを言い表しましょう。
 
2.キリストの全き救いを信じ切ろう
 
 
同時に、その罪深い私のために十字架にかかってくださった、そして完全な救いを成し遂げてくださったキリストのその贖いに対して、全き信頼を言い表しましょう。その信仰を揺るがずに持ち続けましょう。

来年、BTC同窓会セミナー講師として来日されるジョン・オズワルトという旧約学者、イザヤ書の研究家がいます。その著書で、この部分の最後をこう結んでおられます、「神が、私達がその中に長年生きていた罪と咎を取り除き給う時、その経験は捩るような、やけ焦がすようなものです。罪や咎を齎すものは何でしょう?それは膝を屈めることを拒否する傲慢な自己満足です。この罪こそ、イザヤが民に向かって厳しく攻撃していた罪であり、今や彼自身の中に住んでいる罪であると発見したものです。このスピリットは、戦い無しには出て行きません。自らを完全に捧げることと神の手術無しには、清い心は不可能であります。」と。
 
お祈りを致します。