礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年2月24日
 
「私を遣わしてください」
イザヤのメッセージ(10)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書6章8-13節
 
 
[中心聖句]
 
  8   私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
(イザヤ書6章8節)

 
聖書テキスト
 
 
8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」11 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」
 
はじめに
 
 
昨週は、イザヤに与えられた神の幻を共に見ました。そこでイザヤは、神が主権者であり給うこと、そしてその清き神の前に自らが全く汚れていることを発見しました。さらに、その汚れをまったくきよめてくださったという経験をいたしました。そこから、イザヤは神のみ声を聞いたのです。今日はそのみ声から始まります。
 
A.神の問いかけ(8節a)
 
 
8a 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いた・・・
 
1.神の声を聞く
 
 
イザヤがこの召命の声を聞いたのは、それまでは声がかけられていなくて初めて神は語られたのでしょうか、それとも、ずっと神は語っておられたのをイザヤが初めて気付いたのでしょうか。聖書はどちらとも言っていませんが、私は後者ではないかと思っています。

この部屋にも何万と言う種類の電波が飛び交っていますが、特定の電波の周波数に合わせたラジオを持っていないと聞こえません。しかし、ちゃんとしたラジオを持ち、スイッチを入れ、周波数を合わせると、素晴らしい音楽や映像やメッセージを捉えることができます。神の語りかけもそのようなものです。いつも、どこでも語っておられます。ああ、私達がいかに忙しく、自分のことばかりに一杯になって神の言葉を聞き損っていることでしょうか。

イザヤは、唇に象徴されている心が清められたとき、神の声をはっきり聞きました。
 
2.求む!神との協力者
 
 
神はその全能の力をもって救いの業も含めて何事も成し得なさるのです。人間の助けを借りずとも業を成し遂げ得なさいます。しかし、神はその知恵をもってその業を御使いではなく人に委ね給います。

福音のメッセージにおいてもそれは本当です。「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」(Uコリント5:19)大使としてその務めを委ねられるということは、何という大きな光栄、特権でしょうか。「誰を遣わそう」との声から、神が信頼できる器を探しておられる響きを感じます。
 
3.求む!ボランティア
 
 
誰がわれわれの為にとは、私達の自発的な申し出を待っておられる姿を指しています。神はこの業を誰かに押し付けるような事はなさいません。飽くまでも私達の自発的行動を待ち給います。誰が我々の為に、と探しておられるのです。

そうです。神のみ心を行うことは、主に身を捧げたものにとっては喜びなのです。ダビデは、神の大いなる救いを経験した後、「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇 40:8)と告白しました。神に身を捧げきっていない人には、奉仕は義務であり、ある時には重荷、苦痛であります。しかし、恵みが本当に分かりますと、神に仕えることが喜びとなるのです。主イエスもまた、「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:34)と言われました。
 
B.イザヤの応答(8節b)
 
 
8b 言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
 
1.しもべとしての応答:ここに、私がおります
 
 
彼は「言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」最初の言葉は僕の態度を表します。「神様あなたのおっしゃることは何でもお伺いいたします」というへりくだった姿勢の現われです。我はここに居るぞ、我を無視して何が出来るか、という威張った態度ではありません。私がおります、というのはI am here to serve you. I am available for your service.という意味です。神の聖さに触れて、自分は滅びるべき人間であることを心底から悟り、その人間が期待もしなかった神の驚くべききよめを経験したイザヤは、僕として自分を差し出すことができたのです。
 
2.積極的な申し出:私を遣わしてください。
 
 
「私を遣わして下さい。」とは、私はあなたのお仕事にはふさわしくない者ですが、もしあなたが強めて下さるなら大丈夫です。あなたが一緒にいてくださるのなら、どこでも結構です。あなたの願っておられる仕事を致します。」といった開かれた心がこの言葉の中に籠められています。

私達もそうです。私達は神によって特別製品として造られ、自分でなければできない方法と内容で神の栄光を表わすように定められているのです。主は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:4-7)と語っておられます。ですから、どうぞ使ってくださいというのは出しゃばりとは違います。出しゃばりというのは、自分の分を超えて、自分が期待されていない場所や仕事に「我ここにあり」と顔を出す人です。イザヤの態度は、「あなたの召しにお答えするために、あなたの遣わしてくださる場所に、お仕事の為に私を使ってください」と自分を差し出すことです。
 
C.神の使命(9-13節)
 
 
9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」
11 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」
 
1.使命は厳しい
 
 
神はもう一度、何の為に遣わすかを確認なさいました。折角神の召しに与ったものの、イザヤはその使命が決して易しいものではないことを知らされます。「あなたの語るメッセージを人々は聞かないよ」と告げられるのです。「あなたが伝道することによって、イスラエルに偉大な霊的復興がおき、民族が救われるよ」とか、「人々があっと驚くようなメガチャーチができあがるよ」とも言われませんでした。9節を一見すると、メッセージを語りながら、「悟るな、知るな」と付け加えなさい、とも受け取られます。しかし、この節の真意は、「『あなたたちが悟ることができないようなメッセージを今語っています』と言いなさい」と言うことなのです。それほど、イザヤの語ろうとするメッセージは辛口でした。いや、預言者のメッセージはみな辛口でした。

もっと言いますと、イザヤの語るメッセージが高邁すぎて、人々の頭を通り過ぎるほどであろう、というのでもありません。むしろ、メッセージは単純明快なのだが、イスラエルの民の誇りと反逆が余りにも強いために、そのメッセージは届かないだろう、拒絶されるだろう、と言うことなのです。イザヤがそのメッセージを通してただでさえ頑なな人々の心をもっと頑なにするというのでもありません。真っ直ぐなメッセージが語られるとき、主を畏れない人々はその心をより頑なにすると言う傾向を語っているのです。人々が聞かないから、ソフトなメッセージに変えて人気の出る説教者になれ、というのは現代の説教者たちが多く直面する誘惑です。イザヤは、その誘惑に惑わされるな、と言われたのです。厳しい裁きのメッセージを語りなさい、それはその時代の人々から退けられる、しかし、それは将来の大いなる救いとなって報われる、と言うのがイザヤの使命だったのです。
 
2.新約聖書での引用
 
 
ここで少し脱線しますが、この聖句が新約聖書で沢山引用されています。どんな文脈で、どんな意味で引用されているか、下にリストアップします。

○マタイ13:14-15(マルコ4:12、ルカ8:10も同様)では、種まきの譬えの中で、人々が主のメッセージを簡単に受け入れないことへの説明
○ヨハネ12:39-41では、ユダヤ人が主イエスのメッセージを拒絶したことの説明
○使徒28:26-27では、パウロがローマで伝道したときに反発したユダヤ人を嘆いたとき

真に、今も昔も人の心の頑なさは変わりません。
 
3.しかし、回復の時が来る
 
 
「11 私が『主よ、いつまでですか。』と言うと、主は仰せられた。『町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。』」

人々の頑なさは何時まで続くのか、とイザヤは問います。それは、反抗的な意味での質問ではなく、悲しみに満ちた質問です。主よ、憐れんでください、という訴えにも似た質問です。

それに答えて主は、その頑なさゆえに国が徹底的に壊滅するまで、と語られました。回復は、徹底的な破壊から生じると語られたのです。譬えは美しくありませんが、丁度悪いものを食べてしまった胃袋が、その内容物を吐き出すことによって回復するようなものです。約束の地パレスチナは、イスラエルの民を入れました。しかし、彼らが腐敗したので、吐き出したのです。そして、新しい歴史が始まるはずでした。繰り返して申し上げますが、これは、アッシリヤの侵略によって実現しました。

さて、その審判後の回復の方法とは、イザヤ書独特のテーマであるレムナントを通してです。民の滅びの只中に選びの器が興される、それは少数かも知れないが真実な人々である、というのです。それは、森の木が全部切り倒されても、その根株から新芽が生え、やがて大木となることに似ています。

私達の使命も決して易しくはありません。語っても語っても、人々は耳を傾けない状況が続くでしょう。しかし、神の言葉は空しく地に墜ちません。その働きを全うするのです。この希望があるからこそ、伝道が出来ます。先日私の大先輩で、船橋教会の副牧師である石井市五郎先生と昔話をしました。石井先生は今84歳ですが、30台のころ千葉教会を委ねられていました。ある夏に29日間休まず伝道会をすることを示され、敢行されました。私もその一部をお助けしましたが、なかなか人は集まりませんでした。しかし、その最後の日に自衛隊の制服姿で現われ、救われたのが、今小松教会で牧会しておられるY先生です。神の言葉は実ります。
 
終りに
 
1.静まって、私への主の語り掛けを聞こう
 
 
今日、この中に「誰が我々のために行くだろうか。誰を遣わそうか」という神の語り掛けを聞いている人がいませんか。それは、必ずしも肉の耳で聞こえる声でないかもしれませんが、心において、主の語り掛けを聞くことが出来ます。忙しく自分のスケジュールの終わるのではなく、自分のやりたいことを主に押し付けて祝福を祈るのでもなく、主の御心を聴くために静まりましょう。
 
2.主の召しに応じよう
 
 
「11 私が『主よ、いつまでですか。』と言うと、主は仰せられた。『町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。』」

それに応じて私はここにいます、私を遣わして下さいと申し上げたいと思います。譬え、その道が険しくとも、世的な意味で楽しく、華やかでなくても、また、沢山の収入を得る道でなくても、主の御心に素直に従いたいと思います。
 
お祈りを致します。