礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年3月2日
 
「洪水の上に居られる神」
イザヤのメッセージ(11)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書8章5-18節
 
 
[中心聖句]
 
  7,8   それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。
(イザヤ書8章7,8節)

 
聖書テキスト
 
 
1 主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため。』と書け。2 そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」3 そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。4 それは、この子がまだ『お父さん。お母さん。』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」
5 主はさらに、続けて私に仰せられた。6 「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」
9 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。10 はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。
11 まことに主は強い御手をもって私を捕え、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。12 「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。13 万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。14 そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。15 多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕えられる。16 このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」
17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。18 見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。
19 人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。20 おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。
 
はじめに
 
1.イザヤのきよめと召命(BC739)
 
 
昨週は、6章からイザヤを召しなさる神のみ声、イザヤの応答、究極的希望はあるものの近未来的には困難を伴うイザヤの使命について学びました。これは、ユダの歴史でもひときわ輝いていたウジヤという王様の死の年(BC739)でした。
 
2.アハズ王(735-726)時代のユダの危機
 
 
そのウジヤを継いだのはヨタムという王でしたが、4年足らずで死んでしまいます。その次がアハズ王(735-726)です。その即位間もなく、大変な出来事が起きます。その前から、アッシリヤは世界制覇の野望を抱き、アラム、イスラエル、ユダという順序で国々を滅ぼそうと、強力な軍隊を向けます。

アラムとイスラエルは、反アッシリヤ同盟を結んでこれに対抗します。さらに、南ユダ王国に対しても、その同盟に入るように誘うのですが、ヨタム王はこれを断ります。その本心は、「アッシリヤにはとても敵わない」という諦めからです。さて、断られたアラムとイスラエルはユダを攻撃し、強制的に味方につけようとします(BC735)。アハズはというと、密かにアッシリヤに使者を送り、二国の背後を襲ってくれと画策するのです。2列王16:7-9には、「アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。『私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。』」とあります。卑怯なこと夥しいですね。
 
3.「インマヌエル」(神が私達と共に)の約束
 
 
そこで登場したのがイザヤです。アッシリヤでもない、アラム・イスラエルでもない、エジプトでもない、神により頼んで独立を保とうと言うのです。その神の助けの保証が、「インマヌエル」(神が私達と共に居られる、と言う意味)と呼ばれるメシア誕生の約束でした(イザヤ7:14)。これはクリスマス前の講壇で扱いました。

8章はその続きですが、時代的にはもっと先を見た予言です。
 
A.アッシリヤの侵略を見通す
 
1.アラムとイスラエルが滅ぼされる(732,721)
 
 
8:1-4までは、南ユダを攻撃してきたアラムとイスラエルの二国がアッシリヤによって滅ぼされる預言です。これが実際に起きたのは、732年(アラム)、721年(イスラエル)でした。その間にイザヤは、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という長い名前の子供を儲けます。その意味は、「戦利品に対して早く、獲物に対して速やかに」です。アッシリヤが獲物に飛びかかる様を表しています。長い名前を持つ預言者の子供にとっても、迷惑千番であったことでしょうが・・・。
 
2.アッシリヤの勢力がユダにまで溢れてくる
 
 
確かにアハズは、二国同盟の攻撃という当面の危機は逃れましたが、賄賂を贈ってご機嫌を取ったはずのアッシリヤは、ユダに対しても牙を剥いてきます。猿智恵でひと時の危険は免れたものの、それが裏目に出て、より大きな危機を招いたのです(2Ch 28:20,21)。その姿が、6-8節まで、洪水の譬えで描かれます。

「6 この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水(シオンの山を水源としてユダを流れる穏やかな川)をないがしろにして、レツィン(アラムの王)とレマルヤの子(イスラエルの王)を喜んでいる。7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。」アッシリヤの大軍がユダ全土を洪水のように襲い、すべての町々、村々を破壊し、略奪し、首都であるエルサレムを残すまでに満ち溢れる様を預言します(絵図参照)。

鉄砲水が堤防を破り、建物をなぎ倒していく様をアッシリヤの侵略の物凄さに譬えています。これはこの預言の約30年後、アッシリヤのセナケリブ王のときに文字通り成就しました。その時エルサレムは全く孤立し、鳥が鳥かごの中に押し込められたように孤立無援になった、とセナケリブ自身が碑文に記しているほどです。首まで水に浸かったら、あと一歩で溺れ死ぬのを待つだけです。正に、アッシリヤの王たちがエルサレムにやってきたのは、洪水が首まで及ぶ危険と比べられます。
 
B.神の臨在の約束
 
1.絶体絶命のときに、「インマヌエル!」
 
 
8節の後半は、この洪水・怒涛のようなアッシリヤの攻撃の只中で、神の臨在が明らかに示されるという約束です。それが「ああ、インマヌエルよ。」という間投詞となって示されます。やや突然とも見える挿入です。その突然性の中に、信仰が伺えます。ユダの地は、インマヌエルと呼ばれるメシアの地でもあります。メシアがそこで生まれ、活躍し、死ぬ場所だったからです。その聖なる地がアッシリヤによって蹂躙されても、滅ぼしつくされるわけではありません。と言うのはインマヌエルがそこにおいて生まれるからです。イザヤはインマヌエルの名前を望みのレムナントを支えるため、大きな患難にあって慰めるために加えました。国が荒れ果て、残酷にも分断されたとき、民は勇気を失ってしまう可能性もあったからです。国の荒廃は、贖い主の助けを妨げるものではないと預言者は語ります。「にも拘らず、国土やあなたのものです。おお、インマヌエルよ。この国土にこそあなたはそのみ住まいを定めておられます。」このようにして、イザヤは、「神は恐ろしい患難にも、限界を定めなさる」という主の救いに対する信仰を告白します。
 
2.翼とは
 
 
・「アッシリヤの翼」:
「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」という文章の「その翼」というのは、アッシリヤの精鋭部隊(Isa 36:1 37:25)の広がりを示すというのが多くの注釈者の解説です。こう取りますと、この文章に意味は、「アッシリヤの精鋭部隊はインマヌエルの国であるユダ全土には広がるが、それ以上は害を与えない」という風に取ることができます。

・「主の翼」:
もう一つの解釈は、「その」を「インマヌエルの」と取るものです。新改訳の文章はそちらを指している様にも見えます。文語訳もそうです。(私達の教団の教報のタイトルがそこから取られています。)加えて、旧約聖書において「翼」が象徴として使われているケースを調べますと、そのイメージが殆ど保護を意味していることも注目すべきです。こう解釈して「しかし、主の広げた翼はあまねく全土を覆うであろう、神は私達と共におられるから」という自由訳もあります。残念ながら、このような解釈は少数派であることは認めねばなりません。

いずれの解釈にせよ、神の臨在は敵の攻撃に上回るものだ、という真理を強調するものと捉えられましょう。
 
3.臨在への信仰
 
 
この思想を繰り返しているのが9-10節です。神の臨在の故に、侵略者達の野望が打ち砕かれるという約束です。どんなに外国の国々が神の民を滅ぼそうと計略を立て、攻撃を実行しても、それは成就しない、神がその民と一緒に居られるからだ、というのが10節の声明です。今日の説教のタイトルを、「洪水の上に居られる神」と致しました。私達を取り巻く問題、滅ぼそうとする人の非難攻撃が洪水のように押し寄せてきたとしても、神はその洪水の上に居られることを見上げましょう。「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。」(詩篇 29:3)
 
C.絶対的信頼
 
1.神中心の価値観と神なき価値観
 
 
11-16節で、イザヤは、神なき価値観を持つ一般の民と異なり、神中心の価値観を持つべきことを強く命じられます。その内容は、
・神のみを畏れ、他の者や事柄を恐れないこと(民は他の国々を恐れるが)
・神ご自身が聖所となられる(民には躓きとなるが)、
ということです。

特にその締めくくりの16節は意味深いものです。「この証を束ねよ。この教えを私の弟子たちの心の内に封ぜよ。」と、イザヤの後継者達の心に預言の内容を銘じるようにと語られます。イザヤ時代には成就を見ない預言であっても、その弟子達が見るためだったのです。
 
2.神への信頼の告白
 
 
17節は、イザヤの最高の信仰告白です。

・忍耐をもって、み顔を隠しておられるように見える神の救いを待つ(なぜなら、神のタイミングは常にベストであるから、また、神の御心に背いた行為はむなしい結果となるから・・・)

・その神の助けに命を賭ける(「待つ」という行為を通して私達は自分の助けなき状態を悟り、神への信頼を深くすることが出来るから・・)と告白します。
 
終わりに
 
1.困難な現実の「上に」居られる主を仰ごう
 
 
私達が生きているのは希望によってです。現状がどんなに絶望的であったとしても、「大水の上に座っておられる」主を仰ぎましょう。み顔を隠しておられるように見える主を待ち望みましょう。ヨセフは、一切関わりのない痴漢という冤罪で牢獄に入れられ、孤独と恥辱と絶望の中に追い込まれました。しかし、その困難の上に居られる神の臨在の故に、気も狂わず、自殺をしようともせず、坦々とその道を進むことができたのです(創世記39:21)。
 
2.この方に自分のすべてを委ねよう
 
 
イザヤのように、「この方に望みをかけ」ましょう。ひと時でも不信仰の要素が入り込んで、洪水の下に沈んでしまわないように、「主よ、あなたが私の避け所です。近い助けです。」と声を出して告白し、より頼む心を継続しながら一週間を過ごしましょう。
 
お祈りを致します。