礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年3月9日
 
「苦難を受けるしもべ」
イザヤのメッセージ(12)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書50章4-11節
 
 
[中心聖句]
 
  5,6   神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
(イザヤ書50章5,6節)

 
聖書テキスト
 
 
4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。7 しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。
8 私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。9 見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。
10 あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。11 見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。
 
始めに
 
 
来週から受難週に入ります。そこで、イザヤ書の中から、主のご受難にかかわる聖句を取り上げます。普通、主のご受難の予言というと必ず53章が取り上げられますが、今日はその前の50章に記されている「苦難を受ける主の僕」に目を留めます。
 
1.「主の僕」とは
 
 
イザヤ書後半部分(40-66章)で「主の僕」というキャラクターが登場します。主の僕とは、主によって立てられ、主の使命を遂行する人物・グループのことで、ある時にはイスラエル全体を、ある時にはイスラエル全体の中の残された一握りのグループを、ある時には預言者自身をさしました。しかし、その完全な成就は主キリストによってでした。
 
2.「主の僕」章句
 
 
「主の僕」に関する言及はイザヤ書中に多くありますが、代表的な「主の僕」章句は4つです。その概観を比較表にしました。

今日のテキストである50章は、「神の言葉を伝える者」としての僕を示しています。この僕とは、イザヤ自身を含む預言者のことですが、一部分はキリストに当てはまります。さて、ここに記されている主の僕の特色を3つに纏めます。
 
A.神に聴く
 
1.語る前に聴く(4節)
 
 
50章で紹介されている主の僕は、神の言葉をもって人々をもたげるものです。「疲れた者をことばで励ますこと」(4節)また、「光を持たない者を、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼むことを得させる。」(10節)です。

しかし、語る前に聴かねばなりません。「弟子の舌」(tongue of those who are being taught=disciples)という表現がなされています。これは、「弟子として教えられ易い心」を持った人のことです。幼児が自然に耳から言葉を覚えてしまうように、聞くことが何よりも大切です。神のメッセージを語るとき、神に聞くことから始めなければなりません。初代総理・神学院院長であった蔦田二雄先生はよく、「教えられ易い(teachableな)人間になりなさい。」と語っておられました。私がteachableであったかは分かりませんが(多分ダメだったでしょうが)、その言葉だけは忘れません。
 
2.聴く姿勢を保つ
 
 
・朝毎に:
この僕は、朝毎に聞きます。朝は、心がフレッシュです。白紙のような心に主のみ声を聞くことは大切です。私達に当てはめると、聖書の御言に聴くことです。聖書は物語る本です。心を開いて御言に向かいますと、聖言は私達の心に生きて働きます。私達はその様な意味で聖書の言葉に沈潜し、御言をして語らしめるまで思い巡らすべきです。聞くためには時を取る必要があります。私達は神の言葉を聞くには余りに忙し過ぎないでしょうか。

・耳の開かれたものとして:
人に聴くということは、自分を主張しない心から始まります。ここで、耳を開くという表現を使っているのは、それを象徴しています。詩篇40:6―8を見ますと、感謝に溢れたダビデが、その耳が開かれ、神の御心を喜んで行うようになったことを証しています。そして、そのスピリットが、救い主として世に来られた主キリストのスピリットでもありました(ヘブル10:9)。
 
B. 耳の開かれた僕
 
1.「愛の奴隷」である証し
 
 
さて、「耳を開いた」とは、耳にピアスしたと言うことで、旧約聖書の時代には、「自発的な奴隷」(英語ではlove slave)になる事をさします。申命記 15:12-17を読みます。「もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。・・・その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、『あなたのところから出て行きたくありません。』と言うなら、あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。」

そのピアスの意味するものは、

・主人の命令を良く聞くものとなること。他人の話しを傾聴するという営みが、耳に開けられた穴を通して絶えず意識された訳です。

・主人の命令に従う事。主人の話しを聞くだけではなく、それに従う僕としての在り方がピアスのある人間のなすべきことでした。

・愛と喜びをもって仕えること。その奴隷は義務感から主人に仕えているのではなく、主人に対する真実な愛と感謝の気持ちをもって、心から仕えました。
 
2.耳を開かれた僕として
 
 
・4節は、「耳が開かれたこと」が、神の言葉を聴く僕となることと繋がると言っています。これについては先にお話しました。

・5節は、「耳を開かれたこと」が試練や迫害にたじろがずにぶつかっていく姿勢と繋がると言っています。苦難を受ける僕となることが示唆されているのです。
 
C.迫害に耐える僕
 
1.迫害を甘受する
 
 
・苦難が使命であるならば、それを避けない:
この僕は、大変な困難や迫害の中を避けないで真正面からぶつかります。その困難に身を任せるとい強さが必要なのです。5-6節を読みましょう。「5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」この経験が僕をして神の力の現実を捉える契機を与えました。彼が何故このような辱めと苦しみを微動だにせずに受けることが出来たのでしょうか。それは、彼を助け、弁護してくださる方は神ご自身であるという固い信仰があったからです。日本経済新聞に連載小説がありますが、その主人公の正太という男は、滅法強い男ですが暴漢に襲われても自分から手出しはせず相手のするがままにさせています。本当の強さとは何かを教えられるような気がいたします。この僕は、弱いから虐められっぱなしになったのではなく、物凄く強いから迫害にたじろがなかったのです。

・十字架に向かう主イエスの姿勢:
これこそ正に主イエスが示された生き様でありました。「そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、『言い当てて見ろ。』などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。」(マルコ14:65)「イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、『大祭司にそのような答え方をするのか。』と言って、平手でイエスを打った。」(ヨハネ18:22)

主イエスは、苦難に直面するに当って徹底した服従を示しなさいました。彼は、「死に至るまで、十字架の死に至るまで従いなさった」(ピリピ2:8)のです。人間であられたイエスが、苦しみそれ自体を喜ばれるということは考えられません。それは実に苦痛そのものであられたことでしょう。実際、出来るならば、その苦い杯を避けたいと願われたのです。しかし、主イエスは、「私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」(マタイ26:39)と祈られました。敢然と苦しみ・迫害に身を渡しなさったのです。この苦難を通して救いを全うするという僕の姿が深められ、完璧に提示されるのが53章です。
 
2.励まされ、助けられる
 
 
・神は僕を守り、弁護する:
さて僕は、そのような苦難・迫害の真っ只中にあって、神の助けと励ましとを与えられます。7-9節を読みます。「しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」

・迫害者たちを滅ぼす:
神ご自身が僕を侮辱から守り、彼を弁護し、彼を虐める人々を滅ぼしなさることによって彼の立場を正当化します。自分を告発しようとするものは、その言い分を立証するために余りに時間がかかりすぎて、彼らの衣が古びて、しみがそれを食べつくほどだというのです。1942年、ホーリネス派の多くの牧師たちが東条内閣弾圧によって一斉に逮捕され、治安維持法違反で有罪とされました。これを不服として牧師たちは上告をしたのですが、東京の大空襲によって裁判所と共に彼らの書類が皆焼けてしまい、処分保留のまま身柄は釈放されました。この箇所を読むと、その出来事と結びつけて思い出されます。
 
3.他の人々を励ますものとなる
 
 
・神を信頼せよ(10節):
10節、僕は自分が助けられた経験を通して、多くの人々に対して神を信頼するようにと勧めます。「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」僕は自分が厳しい試練の中にあって助けられたという経験から、確信をもってその助けがすべての人に与えられることを確信し、そのメッセージをもって人々を励まします。

・トラブルメーカーは自滅する(11節):
僕は同時に、争いを起す者達への警告も厳しく与えます。11節「見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。」短く言えば、火をもてあそぶものは、その火によって滅びる、ということです。神はこのような形で、正しきものを虐めるものに裁きを行われます。
 
終わりに
 
1.苦難を正面から受け留められた主イエスに感謝しよう
 
 
主イエスは、僕としての道に徹底しておられました。その犠牲の上に私達の救いがあります。主イエス様、あなたのみ苦しみを感謝しますと、感謝を表しましょう。
 
2.私達も、苦難を避けずに直面しよう
 
 
私達が主に従うものとなろうとするならば、この僕のスピリットを自分のものとさせていただきたいものです。人生に苦難は付き物です。どうしても私達はそれを避けて日の当る道を選びたくなります。しかし、その苦難が主の定めならば、避けてはいけません。主と共にそれにぶつかって行きましょう。主は共にあって助けてくださいます。
 
お祈りを致します。