礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年3月23日
 
「永遠に活きるしもべ」
復活節礼拝
<イザヤのメッセージ(13)>
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書53章7-12節
 
 
[中心聖句]
 
  10   もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
(イザヤ書53章10節)

 
聖書テキスト
 
 
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
 
はじめに
 
1.イースターの感謝
 
 
イースターおめでとうございます。今年のイースターは、季節的には一番早い日に来ましたので、春の実感が湧かないままの感じがしますが、それでも木々の芽が膨らんでいて、命の躍動を感じる今日この頃です。昨週は短期間アメリカを訪問しました。インディアナもシカゴもまだ大変寒く、雪が溶けないままですが、それでも暖かい日差しは感じることが出来ました。皆さんのお祈りを感謝いたします。
 
2.イザヤ53章
 
 
今日もイザヤ書を開きます。53章は受難の章として知られていますが、実はその中にキリストの復活も予言されているのです。それが10節の「彼の日は長くなる」という言葉に籠められています。といいますのは、その前に、主の僕は徹底的に苦しみ、痛めつけられ、殺されると記されているからです。その僕が末永く生きるというのは、明らかに矛盾です。その矛盾について多くの聖書注釈者は、僕の復活を示すものと考えます。私もそのように思います(これは後で詳しく話します)。ひとたび死に至り、墓にまで葬られたものが生きるとは復活以外に考えられないからです。

さて、この「永遠に活きる僕」についていくつかの考察をいたします。
 
A.砕かれた僕
 
1.砕かれることは、神のみ心であること
 
 
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」と10節に記されています。文語訳では、「エホバは彼を砕くことを喜びて・・・」となっています。加虐趣味的な意味ではありません。主の僕を砕くことが主のみ心に適ったことである、いう意味です。私達に当てはめて考えましょう。私達の人生で経験する挫折、試練、困難、課題は神のみ許しなしには決しておきないということなのです。それらは偶然で起きるのではない、何かの刑罰で起きるのでもないのです。罰という思想は、自分が呪われたものという自己認識から始まります。自分が神に祝福されたものだという絶対的な信仰は、このような苦難観を払拭するとナウエンは言っています。主の僕が砕かれるという経験は、主が何かの目的でそれを許しなさるのだという積極的な受け取り方をしたいものです。
 
2.救いの目的を遂行する
 
 
主イエスの場合、彼の打ち傷は、人々の癒しの為でした。人々は罪に死んでいましたが、彼の贖いの苦しみと死によって活かされ、その子孫である私達クリスチャンは永遠の喜びにはいることが出来ました。救いに関する主のみ心が成し遂げられました。同じように、私達の苦難brokennesは、誰かの救いのために役立つのです。
 
3.自分の祝福にもなる
 
 
誰かだけではなく、私達の喜びとして帰ってきます。神は、「心砕かれて、へりくだった人とともに住み」給います(57:15)。イザヤ66:2には、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」とあります。詩篇34:18には、「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」とあります。心砕かれた者は、神の臨在を必要としているから、神をより近く感じることができるというのが真相ではないでしょうか。大きな罪を犯したダビデではありましたが、それを自覚した時に徹底的に砕かれました。ですから神に愛されたのです。その砕かれた祝福をもって、他の方に祝福を与えうるのです。
 
B.注ぎだす僕
 
1.主の僕は進んで命を捧げた
 
 
ここで描かれる僕は、非常に受け身的です。しかし、この僕は受身的に、じっとその身代り的な刑罰を耐えなさったのではなく、自ら選んで、進んでその命を捧げ、最後の血の一滴までも私達のために注ぎつくされたのです。そのことが10-12節には顕著に見られます。

・10節「自分のいのちを罪過のためのいけにえとする」過失も含めた罪の為の宥めであり、咎が生贄に転嫁されるのです。

・11節「いのちの激しい苦しみ」「その知識(僕が持っている、神の目的と計画の知識とその実践)によって多くの人を義とし」痛みと苦しみを自発的に負われる姿が示されています。

・12節「彼が自分のいのちを死に明け渡し(傾ける、からっぽにする)」(自分の血の最後の一滴までも注ぎ尽くす姿勢)

1)保留しない愛(自分の為に何も取っておかない)
2)極限の愛(これ以上の事は出来ないという限界まで)
3)与える愛(自分の持っているもの全てを)

  一枚の 最後に残った この衣、
  神の為には 尚脱がんとぞ思う   賀川豊彦

そうです。僕はただ定められたコースに従って黙々とその道を歩んだというだけではありません。僕は、自発的意思をもって自分を明け渡して私達に命を与えて下さったのです。彼は苦しみの中を雄々しく通過し、命を差しだし、明け渡したのです。
 
2.その徴としての聖餐式
 
 
私達は、主が自ら砕かれ、命を注ぎだされたことを象徴する聖餐式に臨みます。

・パンは、砕かれた主イエスのみ体を象徴します。十字架の上で裂かれ、槍で刺し貫かれ、砕かれた尊いキリストのみからだが、これから頂くパンに象徴されています。「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』」(ルカ22:19)

・杯は最後の一滴までも注がれたキリストの尊い血潮の象徴です。「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』」(ルカ22:20)
 
C.報われる僕
 
1.彼は命を絶たれた
 
 
8節の「取り去られた。・・・生ける者の地から絶たれた。」とか、9節の「彼の墓は・・・設けられ、・・・葬られた。」というのは、完全な死を意味します。主の僕は、象徴的にではなく、文字通り死を経験します。それは、罪が現実であるように、彼の死もまた現実でなければならなかったからです。
 
2.それなのに、長い命が与えられた
 
 
10節を見ましょう。「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」とあります。別訳では「主はその日を長くする」です。この思想は、詩篇91:16と通じます。「私は、彼を長い命で満ちたらせ、私の救いを彼に見せよう。」

更に11節では「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」とありますし、12節には「わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」とあるのは、何を意味するのでしょう。

これらは、まごうかたなく、主の僕が活きていることを示します。彼は死んでいるのにです。この矛盾は「復活」という出来事を入れる以外に解決されません。ホセア6:2の預言もこれを側面から支持します。「主は二日の後私達を生き返らせ、三日目に私達を立ち上がらせる。」

さて、イザヤのこの預言は、文字通り主イエスの復活の預言であると言えます。アダム・クラークやマシュー・ヘンリーなどの聖書注解者はこれを支持します。ヘンリーは、「彼は死ぬが、甦る。彼は、その子らを孤児とはせず、子としてのケアと保証を与えてくださる。その子らが増え拡がるのをご覧になる。特に教会のたて上げという形で」と語ります。ここに復活の目的が示されます。
 
3.僕は、贖いの豊かな結果を見て満足する
 
 
・10節の「子孫」とは、彼の贖いによって救いに与る霊の子孫、つまりクリスチャンたちのことです。それを多く「見る」とは、教会が建設され、拡がっていくことにほかなりません。

・11節の「多くの人を義とし」も同様に、彼の犠牲を通して、多くの人の罪が赦され、きよめられることを意味します。今日の午後の聖別会で、この側面を詳しく学びたいと思いますが・・・。

・12節の「分捕り物」という表現は、戦いの勝者が敗者を生け捕りにし、更に戦利品を味方に分配することです。エペソ4章にキリストが信仰者に賜物を与える根拠として十字架の勝利を示しているのは、その意味です。

これらを自らの目で確かめることが、僕の復活の目的です。実際、キリストは、自らを犠牲にすることで救い主となり、すべての人がその膝を屈め、すべて舌が彼を救い主と告白するのです(ピリピ2:10,11)。

その豊かな結実を見て、僕は満足し、喜びます。これこそ、自らをすべての人の贖いとして差し出したその尊き自己犠牲の結果なのです。
 
おわりに:今日のメッセージは何か
 
 
キリストの復活という大きな勝利は、キリストの十字架の死という犠牲があって初めて可能であったこと、神に砕かれることに身をまかせて全く砕かれ、自分の命を最後の血の一滴まで注ぎだすことを通して与えられたということです。今日は聖餐式に臨もうとしています。キリストが砕かれた徴のパンを頂きます。その命を注がれた血の象徴としてのぶどう液を頂きます。これらを通して命が与えられたことを感謝し、私達もまた、砕かれること、私達の愛と献身の心を告白し、実行することによって、主の豊かな命に与るものとなりましょう。
 
お祈りを致します。