礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年3月30日
 
「主を喜ぶ力」
年会合同礼拝
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竿代 照夫牧師
 
ネヘミヤ記8章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
 10  主を喜ぶことは、あなたがたの力である
(ネヘミヤ8:10別訳)

 
[ 聖 書 ]
 
 
7:72 (イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、)
8:1 民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。
2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。4 学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。5 エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。
6 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン。」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。7 ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。8 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。
9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。10 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」11 レビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」12 こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。

 
はじめに
 
1.年会の感謝
 
 
おはようございます。第63次年会合同礼拝をこのような形で守ることができたことを感謝いたします。多分、今年の年会が「合同礼拝を持つ最後の」年会となりましょう。合同礼拝は、インマヌエルが家族として共に集まり、共に主を賛美し、共に励ましを頂く幸いな時です。しかし、一方において、大切な聖日に牧者を欠く地域教会の困難さも語られ続けてきました。会場確保の困難もそれに付随した課題です。そのような背景から、来年からはウィークデー開催となります。このような形での合同礼拝は最後となりますが、違った形での合同的な集会が将来とも計画されることと信じます。

今次年会においては、金曜日と土曜日の夜の聖会でウェスレアン総理のジェリー・ペンス博士をお迎えしました。長い牧会経験から、私達の心に届くメッセージが語られたことを感謝いたします。一昨日はヨハネ17章から「教会に一致について」、昨日はテトス1章から、「願っていない場所に遣わされたら?」と折に叶った素晴らしいメッセージを頂きました。感謝をしております。

今回は、議事会が金曜日朝と土曜日午後に分けて行われ、その間に教団の将来に関わる課題について自由な懇談や研修が行われました。「役員研修」、「青年活動」、「結婚情報サポートシステム」「牧師の奉仕年齢」について活発な論議と研修が行われました。昨年のこの場所で、出エジプト14章から「前進」のメッセージを語らせていただきましたが、群れが確実に前進していることを感謝したいと思います。
 
2.ネヘミヤの時代
 
 
今日はこの形で恐らく最後となるであろう礼拝であることを意識しながら、イスラエルの人々の住民集会について記しているネヘミヤ記8章特に10節に注目したいと思います。その前に時代的な背景を概観します。

・時代:
ペルシャ王アルタクセルクセスの治世(BC465−424)の第20年(2:1)、つまり、BC445年頃です。

・状況:
その年の6月(エルルの月、今日の暦では9月頃)にエルサレム城壁の修復工事が完成し(6:15)、その興奮が冷めやらない7月でした(7:71)。エルサレムには未だ住民が少なく(7:4)、ユダヤ人帰還者の10分の1ほどしか住んでいませんでした(11:1)。

・必要:
エルサレム住民の外的環境は城壁修復という形で整えられました。しかし、彼らが必要としていたのは、内的な霊的な更新、リバイバルの業でした。

この8章を見ますと、人々の間に大きな喜びが溢れているのを発見します。どんな喜びでしょうか。

 
ネヘミヤ記 8章1-12節(主を喜ぶ力)
 
1.ともに集まる喜び
 
 
・御言に渇いて集まった:
「民はみな、いっせいに」(8:1)という言葉が美しいですね。エルサレムが何時攻撃されるかも分からないという不安な状況にも拘らず、誰言うとなしに集まった、そんな感じのする集まり方です。「彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」のです。聖言を聞きたい、これが人々の渇きでした。私達は聖書を手許に持っています。いつでもどこでも読めます。しかし、昔のユダヤ人はそうは行きませんでした。羊皮紙の聖書は限られた数しかなく、誰かに読んで貰わねばなりません。それにしても、聖書を読んで、とは何と麗しいリクエストでしょう。このエズラとは、エルサレム再建に当たって政治的な指導者であるネヘミヤと手を携えて改革運動を行った宗教指導者・祭司 (8:9)。彼は「モーセの律法に通じている学者」(エズラ 7:6)でもありました。

・マラソン朗読:
朝から昼まで、聖書を読み続けたというのです。今の人々ならば何と退屈な、と嫌われそうなプログラムです。でも人々は聖言に渇いていましたから、立ち続けるのが苦痛ではありませんでした。読まれた場所は、人々にとって役に立つ、相応しい箇所が選ばれたことでしょう。エズラは、今が7月であることを意識しながら、仮庵の祭についての説明を抜き読みしたのではないかと思います。この為に造られた木の台の上に立ちました。人々が見やすく、聞き易いために高く上げられた台だったのでしょう。これが講壇の始まりです。その台には聖書台があって、重い聖書の巻物を乗っていました。聴衆は、神のことばが語られたとき、思わず立ち上がりました。ここに神の言葉に対する敬意があります。御言が語られる集会、そこに渇いた人々が集まる、その集まり自体がどんなに大きな喜びでしょうか。見よ、はらからあいむつみてともにおるは如何によく、いかに麗しきことかな!今日のこの集いを感謝しましょう。
 
2.御言が分かる喜び
 
 
・賛美した:
エズラは、朗読が終わると、霊の喜びに満たされて、主を誉め讃えました。多分「ハレルヤ!」とか言ったのではないでしょうか。人々は、より熱心に応答して、手を挙げてそうです、その通りですと叫び、そして地に平伏して主を礼拝しました。手を上げるとはユダヤ人にとって天にいます神への賛美、信頼の告白、切なる願いを示していました。御言を捉えた喜びに満たされたのです。

・理解して悔い改めた(Uコリント7:8-10):
一通りの集会が終わった後、フォロアップがなされました。その指導に当たったのは、レビ人でした。彼らがエズラの説教を補う解説を行ったのです。聞く人々も飽きもしないで聖言に食らいついていく熱心さを持っていました。ネヘミヤの時代、彼らが使うヘブル語と、聖書のヘブル語は大分違っていたようですので、解説が必要でした。ところが、御言が本当に分かると、人々は嘆き始めました。それは聖言によって自分達の歴史が裁かれ、自分達の実体が示されたからです。聖言は悲しみをもたらします、それは悔い改めに至る悲しみです。それは喜びのテイクバックです。パウロは言います。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。・・・神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。」(Uコリント7:8-10)と。真実な御言の説き明かしは、働き給う聖霊による認罪と悔い改めへと導くものです。

・理解して喜んだ:
ネヘミヤの指導によって、人々は再び喜びへと導かれました。主は私達の悔い改めを喜び、赦しの恵みをくださるからです。12節の後半に目を留めてください。「大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」この聖句はエマオの途上で復活の主イエスに出会った二人の弟子を思い出させます。彼らは、復活の主が道々聖書を解き明かしてくださったとき、その心が燃えたのです(ルカ4:32)。
 
3.主ご自身を喜ぶ喜び
 
 
・祝いの日を喜ぶ:
ネヘミヤは、御言に心刺されて嘆いている人々の間を回って、嘆くのではない、喜びなさい、と語りました。その理由は、「この日が主の聖別された日だから」と言うのです。捕囚の民は、長い間の外国生活で「贖いの日」の意義と守り方と楽しさを忘れていました。この日は、イスラエルが奴隷生活から救われたこと、荒野での苦しい生活から解放されて、約束の地に導かれたことを記念する贖いの日ではないか、しかも、私達の罪を担って生贄が捧げられ、罪赦される恵みを覚える日ではないか、と語ったのです。その喜びを体で表すためにご馳走を食べようと勧めました。お祝いの食事は私達に喜びを与えます。特にこの日は、朝から立ち続けで御言葉を学んでいましたから、お腹も空いていた事でしょう。食事で喜ぶなんて肉的だ、などと言ってはいけません。楽しい食事を共にする喜びは、聖書で沢山奨励されていることです。

・10節の意味:
さて、ここでネヘミヤは「主の喜びは私達の力です」(ki chedyat yahaweh hii maizkemu) と言います。英訳はそのまま For the joy of the Lord is your strength. と訳しています。問題は、この「主の」という「喜び」を修飾することばが主語的なのか、目的語なのかという点です。「私の喜び」と言えば、私という主語が喜ぶ喜びです。新改訳はそう訳します。しかし、これを目的語的に訳すことも可能です。「旅行の喜び」と言えば「(私が)旅行をする喜び」となります。文語訳、新共同訳、そして新改訳の欄外別訳はそれを示します。どうもその方が多数のようです。ですから私は、「あなたがたが主を喜ぶその喜びが、あなたがたにとって力となる」と解釈するのが自然であると思います。というのは、その前後の文脈と見ると、喜び喜べという命令が10節前半にあり、11節にも、悲しむな、喜べという命令が続いているからです。更に、レビ23:40には、仮庵の祭りに関して「七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。」と、この祭りは、「主を喜ぶ」ためであることを示唆しています。

・主を喜ぶとは:
さて、翻訳の問題を終えて、「主を喜ぶ」とは実際何を意味するかを考えましょう。それは、主が与えて下さる何かの故に喜ぶと言うよりも、主ご自身の存在の故に喜ぶことです。何をなさるかよりも、どなたであるかの故に喜ぶのです。主とのお交わりを喜ぶのです。子供が小さいときは、クリスマスの喜びはプレゼントでしょう。誰がくれるかというより、プレゼントそのものが喜びです。でも大きくなると、そのプレゼントの送り主の愛を感じて感謝するようになります。もっと進むと、プレゼントなんかくれなくても、その人がいるだけで嬉しいという関係になります。ちょうど、心から愛し合っている夫婦のようなものです。神との交わりを喜ぶ、神に聞くこと(御言葉に聞くこと)を喜ぶ、神に語りかけること(祈ること)を喜ぶ、神がどんなに大きなすばらしい存在であるかを喜ぶという経験です。すばらしい喜びですね。詩篇の作者は「私の最も喜びとする神」(詩篇 43:4)と語っているのは、同じ経験です。状況は厳しいかもしれません。状況に左右されない喜び、それは主のご臨在を信じ、より縋るところから生まれます。

・主イエスを喜ぶ:
新約時代に生きる私達にとって、「主を喜ぶ」とは、復活の主の内住がもたらす喜びとのことです。復活の夜、十一弟子達は甦った主を見て喜びました。彼らが日曜日ごとに集まってパンを裂いたのは、主イエスを思い出すためだったのです。ですから、日曜日は復活記念日です。彼らは喜びをもって聖餐を行い、目に見えないけれども共にいます主を喜びました。地上のイエス様を知らない世代のクリスチャンに対してペテロは言います、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Tペテロ1:8-9)と。パウロもまた、「私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:11)と言っています。この喜びを味わうのは、本当に私達が弱かった、不敬虔であった、罪人であった、という深い自覚から生まれます。その感謝が、神を喜ぶバネになります。
 
4.御言を行う喜び
 
 
・喜びは奉仕の力となる:
ごちそうに勝って、主を喜ぶ喜び、御心を行う喜びは私達に力を与えます。霊的な喜びは私達の心にもっと主に仕えようという力を与えます。アダム・クラークは、「神を対象として持つ喜びは、神ご自身から来る。それは霊的な力を更新させる手段でもある。」と言っています。ウェスレーは、「神を喜ぶとは、快活で感謝に満ちた心を持って神に仕えることである。それはあなたの敵のあらゆる工作に反対し、神に仕えるための精神的・肉体的なあらゆる力を与えるものです。」と言いました。

・仮庵を祝う:
13節以下は、彼らの集会は翌日にまで続いた記事です。イスラエルの人々は、先ず、仮庵の決まりを見つけました。第二日の集会で彼らが発見したのは出エジプト後の荒れ野での生活を記念する仮庵の祝いの規定でした(レビ記23)。人々は文字通りの仮庵祝いを実行しました。木の枝、葉っぱをもって仮庵を造り、そこに住み、律法の定める生贄を捧げました。今日のキャンプに似た興奮と、聖会的な厳粛さが一体となった何とも言えない不思議な喜びと感動が民全体を覆いました。聖書の朗読も欠かさず行われ、その解説もなされて行きました。

・喜びと力の連鎖反応:
この仮庵の祭りは、ヨシュア時代から一度も祝われなかったのではなく、このような意味合いと喜びをもって祝われたという意味で、専念振りの祝いでした。聖言を実行する、これに勝る喜びはありません。イエスの山上の垂訓が、行うものの祝福と行わないものへの警告で締め括られていますように、私達も今日、聖言を学びました。それが大きな喜びとなったことを信じます。しかし、それより大きな喜びは、それを実行して、ああなるほど、私は神のみ心に従った人生を歩んでいるんだな、という自覚を持ちながら日々を歩むことです。主を喜ぶ喜びが神に仕える力を与え、神に仕えることが更に喜びを与えます。これこそ永久運動です。これは核爆発のように広がっていきます。

 
終わりに
 
1.御言に傾聴しよう
 
 
私達は今、御言を聞くために集まりました。御言に傾聴する、しかも、皆が揃って傾聴するということがどんなに大きな喜びをもたらすものかを経験しました。私達がそれぞれの教会に帰って後も、各家庭の中でも、個人のデボーションでも、御言に傾聴する喜びを体験しましょう。インマヌエルの集会では、どこに行っても御言葉がまじめに、まっすぐに、力を持って説かれているという評判が立てれれたらどんなに素晴らしいことでしょうか。
 
2.御言の中心である主を見つめよう
 
 
私達は御言を、無味乾燥な古典としてではなく、その御言の中心である主イエス様を見つめました。主は甦り、私達の心に生きておられます。主の現臨を喜びましょう。私達がどんな厳しい人生をこれから辿るとしても、共に居られる主の故に、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことで神に感謝を捧げつつ進みましょう。先ほど歌いました歌の英詩を紹介します。 He lives, He lives, Salvation to impart. You ask me how I know He lives? He lives within my heart. です。この喜びを絶えず携えて生涯を全うしたいものです。
 
3.御言を行う喜びを経験しよう
 
 
年会の集会は終わりますが、今度は私達が日常生活で御言を行う番です。御言を私達の毎日の生活において行うことで、今の喜びが更に倍増することを願います。その喜びが、教団全体にも、各教会にも、各家庭にも、各個人にも満ち溢れますように祈ります。そしてその御言葉の実行の積み重ねが、この日本を覆うリバイバルであります。リバイバルに向かって進みましょう。
 
お祈りを致します。