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聖書テキスト |
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5 ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。6 わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。 |
7 しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。8 なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。9 カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。 |
10 エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、11 サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。」と。 |
12 主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。13 それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。14 私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」 |
15 斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。16 それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。17 イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのいばらとおどろを一日のうちになめ尽くす。18 主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。それは病人がやせ衰えるようになる。19 その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。 |
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はじめに |
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受難週、復活節、年会という特別な季節を越えて、レギュラーなまなびに戻ります。イザヤ書前半(1-39章)の低音重奏は、当時の世界帝国アッシリヤです。そのアッシリヤと真正面から向き合って預言しているのが10章です。アッシリヤをどう捉えるかというのは、第二次大戦の末期に圧倒的な軍事力をもって日本に迫ってきたアメリカをどう理解するかと言うことと状況的には似ています。そのころアメリカの役割と限界を論じた政治学者はどれだけいたことでしょうか。イザヤはアッシリヤの役割と限界を、その攻撃にさらされながら、全能者の神の角度から説いたのです。 |
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A.神の斧であるアッシリヤ |
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1.神は歴史を動かす道具として、ある民族を用いなさる |
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5-6節を見てください。「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。」アッシリヤは、神に背くイスラエルに対する神の怒りの杖(審判の道具)として用いられました。 | 人間の歴史を顧みると、何故こんな人間が指導者になるのだろうか、こんな民族が大きな顔をして世界を支配するのだろうかと疑問に思ってしまうこともあります。特に、独裁者が出現して横暴に振舞い、その結果何万人という人々が抹殺されたり、苦しんだりする姿を見ると、この疑問は強くなります。正直に言って、私にも答えはありません。唯一つ言えることは、地上に起きることで、何一つ神のみ許し無しには起きないということです。 |
アッシリヤ帝国は、戦いにおけるその獰猛さ、被占領国を支配する方法の残酷さをもって知られていました。しかし、イザヤはこのアッシリヤ帝国でさえも、神の御心を行う「道具」としての意味を持っていたのだ、と宣言します。特に、不信仰と不道徳の中に沈んでいるイスラエルに対して刑罰を与える神の道具として、アッシリヤは神に用いられていたのです。これは実に不思議な歴史理解です。邪悪さという点から言えば、イスラエル以上に邪悪であったアッシリヤを神は用いなさったのです。 |
私達の人生でもこれは事実です。私達の家庭、仕事、近所や親戚の付き合いなどで、必ずといっていいほど、私達を虐めたり、進もうとする道の妨げとなったり、私達の心をイラつかせる(余り好きな言葉ではありませんが、最近の言葉で言えば、「むかつく」ような)人がいますね。そんな人が全くないという人は幸いなるかな、です。でもそれは例外中の例外でありましょう。そんな人に対して私達はどう思ったらよいのでしょうか。こんな人間は邪魔だから、神様どけてくださいと祈るべきでしょうか。祈っても良いと思います。しかし、その前に、その人は「神の道具として」何かを私達に教えるために、神が許しなさった存在なのだということも覚えましょう。 |
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2.アッシリヤはイスラエルへの審判の道具として用いられた |
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実際にアッシリヤは、どのようにイスラエルに向かったでしょうか。ごく簡単にその後を辿ります。 |
・テグラテピレセル王の頃、反アッシリヤ連合の一角であるアラム王国を滅ぼした(BC732年)。 ・サルゴン王の時、連合の他方の一角である北イスラエル王国を滅ぼした(721)。イスラエルの殆どの人々(これを「失われた10族」という)は、外国に散らされ、代わって異邦人が運ばれてサマリヤに住み、元のイスラエルと混血した。これが「サマリヤ人」の始まりである。 ・セナケリブ王の時、ユダ王国に侵略してすべての町々を落し、エルサレムを包囲したが、神の不思議な干渉により、敗退した(701)。 |
もちろん、彼らが道具であったのは、時限的なものでした。12節を見てください。 |
「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき・・・罰する。」とあります。どんなに強い勢力を誇る国家であろうと、個人であろうと、彼らの務めは限られた環境と期間の範囲の中だけに許されるのです。 |
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B.自分の道具性を忘れたアッシリヤ |
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このように、歴史の一時期に強勢を誇ったアッシリヤでしたが、それは、神のご計画とみ許しの範囲内で勢力を振るっただけでした。それなのに、アッシリヤは自分の道具性を忘れ、高ぶりと暴虐に走りました。アッシリヤの問題性をいくつか拾って見ます。 |
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1.限度を超えた残虐さ |
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7節を見ましょう。「しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。」彼らは不信の民イスラエルを滅ぼすために用いられた道具です。しかし、用いられているうちに滅ぼすこと、残虐行為自体に快感を覚えるようになってしまいました。血に飢えた狼のようになってしまったのです。これは行き過ぎです。 |
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2.自分の力の過信 |
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13節を見ましょう。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。」道具が、それを造った職人や使う使い手の技量を忘れて、自分の中に価値があり、力があると錯覚したら、これは滑稽以外の何物でもありません。アッシリヤは、神がある時期、ある目的のために用意し、強くしておられるのに、それを自分たち固有の力と知恵であったと錯覚したのです。 |
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3.全能者を下に見る傲慢<絵図@参照> |
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もっと悪いことには、自分を用いなさる神に向かって誇ってしまったのです。それを記しているのが15節です。「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。」いくら目覚しく切れる斧であったとしても、斧が樵に向かって「俺の方がお前より優秀だ」などと嘯いたら、これは実にこっけいです。棒を持ち上げるのは人間であって、棒が人間を動かすことはありません。 |
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8-11節は、アッシリヤが征服した(しようとしている)国々のリストです。この発言の問題は、その国々が拝んでいた民族的な神々を馬鹿にしていることです。その嘲りを、(彼らがイスラエルの民族神と思っている)ヤハウェにもぶつけているのです。彼らの傲慢の極めつけは、セナケリブ王の将軍ラブ・シャケがエルサレムを包囲していた時に放った言葉です。彼は、「これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」(イザヤ36:20)と言って、主(ヤハウェ)を他の神々と同列において罵りました。こうして、神々を嘲りつつ、彼らは自分を「全能者の座に」置いてしまいました(13節)。 |
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4.私達はどうか? |
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・私達の「器」性: 私達は神の器です。主は陶器師、私達は土塊とも記されています(エレミヤ18:6)。土塊ですが、きよめられて主の御用に役立つものとなることが期待されています。神の栄光を表すのが私達の存在目的です(イザヤ43:21「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」)。元々が土の器であって、素材は全くお粗末であるのに、その中に宝であるキリストを抱いている故に、光り輝く存在となるのです(Uコリント4:7)。 |
・器性を忘れる危険: しかし、クリスチャン生活を長く送っていたり、さらに、牧師として長年働いていると、自分から後光が差してくるように人々から言われたり、尊敬されると、つい、自分には固有の価値があるのではないかと錯覚してしまうことがあり得ます。サムソンを見て見ましょう。彼の怪力は、神の御霊が臨む時だったにも拘わらず、いつでも力を振るっているうちに、その怪力が自分固有のものと錯覚してしまいました。かれは、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」(士師16:20)と言って大失敗をしてしまいました。サムソンも、自分の道具性を忘れたのです。 |
・器性を否定する危険: それだけならよいのですが、自分を使ってくださっている神ご自身に向かって偉ぶってしまう、ということがありえます。そのように自覚はしないでしょうが、自分が無視されたり、正当に評価されないと、その気分が裏返しで出てきてしまうものです。アッシリヤの高ぶりは、昔話ではありません。私達の最大の罪は「範囲を超えて誇る」(Uコリント10:13)です。 |
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C.滅ぼされるアッシリヤ |
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1.滅亡の預言 |
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16節を読みましょう。「それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれ(英訳は wasting disease upon his sturdy warriors= 頑丈な戦士達に疲れさせるような病気)を送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。」アッシリヤ軍は完全に疲弊させられ、燃やされるように滅ぼされます。 |
33-34節はその纏めであって、主の裁きが全土に及ぶ様が記されています。「見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。」道具は、目的を果たしたならば、投げ捨てられることがありうると言う真理を示します。神は、セナケリブ、ナポレオン、ヒトラーのような高ぶった、不敬虔なものを必ず卑しめられます。 |
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2.預言の成就 |
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神が持っておられる杖、斧は、アッシリヤだけではありません。神はアッシリヤを打つ鞭を持っておられるのです(26節)。神はアッシリヤより強力な國を興して、アッシリヤを滅ぼしなさいます。 |
この預言はイザヤが生きた時代よりもずっと後になって成就します。 |
・701年:セナケリブ王の侵攻作戦の大失敗 ・681年:セナケリブ王の暗殺 ・628年:スクテヤ人の侵入 ・625年:新興バビロンに敗北 ・612年:バビロンによって首都ニネベが滅亡 |
奢る平家は久しからず、という言葉を思い出すような滅亡でありました。<絵図A参照> |
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3.イスラエルには残されるものがある |
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このように斧として用いられたアッシリヤは滅ぼされますが、木が切り倒されるように審判を受けたイスラエルはどうなるのでしょうか。イザヤは言います。20-21節「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。」と。アッシリヤへの審判は、それで終わりですが、イスラエルへの審判は、それで終わりではありません。木は切り倒されるが、そこからひこばえが生まれる、これがレムナント思想です。神は審判の中にも憐れみのゆえに少数のものを残し、その残ったものを通して新しい歴史を作っていかれるのです。 |
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終わりに |
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1.私達の「器性」を覚えよう |
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主は、ご自分を陶器師、私達を土塊と仰います。素材こそ土ですが、そこにキリストという尊い宝を宿すための器として作り、その故に私達をきよめてくださいます。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(Tコリント4:7)というパウロの警告を受け入れましょう。どんなに祝され、用いられるようになっても、キリストを離れては何もできないと言う自覚を益々深くし、主の前に謙りましょう。 |
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2.神の御手に落ち込もう |
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私達は器なのですが、これは飽くまでも比喩であって、粘土と決定的に違うのは、人格を持った器であるということです。ですから、私達は自分の選択によって色々な器になる可能性を持っています。 |
・神の御心に沿おうとしない頑固な器 ・自分の器性を忘れて、陶器師にあれこれ注文をつける傲慢な器 ・自分を柔らかく保ち、陶器師の心に沿って作られることに協力する器 |
どうか、第三のような器とさせていただきましょう。 |
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