礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年4月13日
 
「神は私の救い」
イザヤのメッセージ(15)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書12章1-6節
 
 
[中心聖句]
 
  2   見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
(イザヤ書12章2節)

 
聖書テキスト
 
 
1 その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。3 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
4 その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。5 主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。6 シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」
 
はじめに
 
 
イザヤ書の学び、今日は12章を取り上げます。全体の流れで言いますと、12章は、7-12章の「インマヌエル預言」の締めくくりという位置を占めています。この「インマヌエル預言」では、「周りの国々の脅威で振り回されることはない、神こそは世界の王であり、信頼に足るお方である。この方に目を留めよう。」というのがメッセージでした。イスラエルの不信仰によって、彼らは裁きを受けるが、それは民族の再興という結果を生む、神の完全な勝利に終わる、と言う予言でした。12章の賛歌は、それを見越しての賛美です。
 
A.賛歌の背景
 
 
この賛歌は、「この日」という特定の時代の出来事を背景にしています。しかも、それは、前の10章、11章にも繰り返されている言葉です。それを拾いながら背景を考えます。
 
1.アッシリヤが滅ぼされる(10章)
 
 
10:20-21を見てください。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。」

これは、当時のイスラエルにとって最大の脅威であった世界帝国アッシリヤが滅ぼされるという預言の続きです。神の斧としてイスラエルを懲罰するために用いられたアッシリヤは、自分の道具としての役割を忘れて傲慢になり、結局神に滅ぼされるのです。重苦しい重奏低音であったアッシリヤが取り去られると言うのが、12章の爆発的賛美の歴史的背景です。
 
2.メシア王国の確立(11章)
 
 
さらに、11:10-12を読みましょう。「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」

11章の内容は、イスラエルは審判と言う斧で切られるが、その切り株から新芽が生えて、やがて世界を覆うような木に成長するという預言です。そして、その復興の中心人物は、エッサイ(ダビデ)の子孫であるメシアです。

その素晴らしいメシア王国の確立が賛美の背景です。
 
3.12章のテーマ:救いの賛歌
 
 
そこで12章に参ります。これは、イスラエルの復興にかかわる感謝の歌です。その主題は、「主は私の救い」と言うフレーズに籠められています。実は、イザヤと言う預言者自身の名前の意味が「ヤハウェは救い」と言うものなのです。イザヤは自分の名前の意味を噛み締めながらこの預言を行ったものと思われます。そこで12章に参ります。これは、イスラエルの復興にかかわる感謝の歌です。その主題は、「主は私の救い」と言うフレーズに籠められています。実は、イザヤと言う預言者自身の名前の意味が「ヤハウェは救い」と言うものなのです。イザヤは自分の名前の意味を噛み締めながらこの預言を行ったものと思われます。
 
B.救いの素晴らしさ
 
1.「怒り」が取り除かれる!
 
 
1節を読みましょう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」12章での賛美の理由の第一は、神がその怒りを止めなさった点です。

神の怒りとは何でしょうか。それは、感情的な怒りではなく、神の正義に基づく正当な反応です。罪は当然罰せられねばなりません。イスラエルはその不信仰と不道徳の故に、神に鉄槌を下されました。感謝なことに、彼らはその審判を通して悔い改め、神に立ち返りました。

さて、その神の怒りが除かれると言うことは何を意味するのでしょうか。それは、その怒りの原因であった罪が正当な方法で罰せられると言うことです。40:2には、「その咎は償われた」と記されています。罪は、正当な方法で罰せられねばなりません。その鉄則はヘブル9:22の「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない。」という声明で明確に示されています。

イザヤの場合、その罪の赦しはどのように捉えられているのでしょうか。その答えは53:12です、「彼は多くの人の罪を負い、背いた人たちのために執り成しをする。」という苦難の僕を通してなのです。
 
2.「恐れ」から解放される!
 
 
2節を見ましょう、「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。」神の救いを知っている人は、恐れから解放されている人です。そして神に信頼を置いています。

反対に、救いを知らない人は恐れに囲まれています。その実例がアハズ王です。アハズ王は北のアラム・北イスラエル連合軍の来襲を恐れ、更にその背後にあるアッシリヤに信頼を置きました。イザヤは、神が必ず助けてくださるという約束をアハズに与えました。しかし、アハズはそれを信じることが出来ず、一生を恐れの中に過ごしました。恐れとは、神がその約束を守らないと言う不信仰から生じるのです。

しかし、ご自分の御子インマヌエルを遣わすまでに私達を愛し給う神を信じるならば、この恐れから解放される、とイザヤは言います。彼こそは私達の力、歌、救いなのです。

その神の力は、私達が全く助けなき状態にあるとき現われるのです。Uコリント12:9には、「私の力は弱さの中に現われるからである。」と記されています。

イスラエルが絶望状態に置かれる時、それは神の救いが表されるチャンスでもありました。イザヤから数百年も前、紅海を前にして絶体絶命の危機にあったイスラエルが、海を二つに分け給うた神を見て狂喜しました。その時彼らは、「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」(出15:2)。この歌と、イザヤの歌とが何と酷似していることでしょう。人間の弱さを徹底的に悟って神に100%の信頼を寄せる時、私達は恐れと言うものから解放されるのです。

皆さんの中で、何らかの恐れを持ちながら生活をしている人はいませんか。その人は高所恐怖症の(私のような)人が、びくびくしながら崖にへばりついて一歩ずつ歩みを進めている人のようです。その恐れを振り払って、永遠の腕をもって支えてくださる神への信頼へとジャンプしてみましょう。主は受け止めてくださいます。
 
3.主が救いとなられる!
 
 
2節をもう一度読みましょう。「2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」

神が救いを与える、と言うのは事実です。実際、主はしばしばイスラエルの歴史の中に奇跡的な方法を持って介入し、大きな救いを与えてくださいました。紅海を二つに分けたのは、その最たるものでした。

捕囚からの釈放も大いなる救いでした。それが背景にあったと思われる詩篇118:14を読みましょう。「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」出15:2とイザヤ12:2との不思議な符合を見ます。

もう一つ、新約聖書では、1コリント1:30に「キリストは、私達にとって神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」と記されています。

主が救いを与えてくださると言うことは事実です。しかし、もっと素晴らしい事実は、「神ご自身が救いである」と言う点なのです。神を知ること、神と親しくお交わりが出来ること、それ自体が救いなのです。逆に言いますと、神を知らないことは、それ自体が滅びなのです。つまり、神を離れての救いはあり得ないのです。どうか、神様は要らないが、病の癒しは欲しい、経済の苦境から逃れたい、家庭の平安が与えられたい、という虫の良いリクエストをしないで、神様、あなたが居られればそれで充分です、あなたを与えてください、と祈ろうではありませんか。賛美の中にも「与えよ、与えよ、ただ、主を我に。世の富、知識、何物にても、満たされ得ざる我が胸に」とあるではありませんか。
 
4.喜びは歌となる!
 
 
2-6節は、歌で彩られています。「2 ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。・・・5 主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた・・・。6 シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。」歌と言うものは、解放された魂の自然の叫びです。

私達が神を賛美することは、神を僕として用いる偶像教的な考え方から脱却させ、世界の中心に神がいますという驚くべき事実を再確認する方法なのです。「すべてのリバイバルは、感謝の爆発によって特徴付けられる。」と語った人がいます。年会合同礼拝では「主を喜ぶことはあなた方の力です。」との題で「喜びのリバイバルを!」と語らせていただきました。賛美、感謝、喜びが世界を変えることを祈ります。

特にその喜びの溢れた様が3節の「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」という言葉で表わされます。パレスチナのような乾いた場所では、水は命の象徴です。その水が尽きない泉は、正に豊かな永遠の命の象徴なのです。
 
5.賛美は世界に広がる!
 
 
3-6節までの賛歌の特徴は、それがグローバルであると言う点です。「その日、あなたがたは言う。『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。』」

この歌は、物凄い意味を持っています。国々というのは、イスラエルにとって脅威の対象であったのです。その脅威の対象が、喜ばしい救いを伝える宣教の対象となったのです。外国の諸勢力は、恐れる対象ではなく、唯一でまことの神を知らせるべき宣教の対象となるのです。

宣教とか伝道は、他の宗教を持っている人をキリスト教に改宗させる、いわば「宗教的植民地主義」ではありません。私達の内になされた神のすばらしい業を、多くの国々、民族に証すること、それだけであります。

パウロは、自分の宣教活動の動機と目的についてこういっています。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(コロサイ1:27-28)

サマリヤで、旅の途中の主イエスに出会った女性を考えて見ましょう。彼女にとって、町の人々とは、自分のことを仲間外れにする意地悪な人々、自分に関する噂話を生き甲斐にして生きている余計なおせっかい焼き、自分を苛める嫌な存在に過ぎなかったのに、主イエスの愛を頂いた時そのイヤーな人々が宣教の対象に変わったのです。

私達もまた、私達の周りにいる人々に、主が私達を憐れみ、どんなに大きなみ業をしていてくださるかを、謙りと感謝をもって証するものでありたいと思います。
 
終わりに:主は「私の」救いとなられたでしょうか?
 
 
次の二つのステップを踏みましょう。

ステップ1:主キリストを私個人の救い主として受け入れ、それを告白し、信じ、信じ続けること

ステップ2:私達が直面するあらゆる課題について、主のご干渉を求め、主が救いとなってくださったと信じ、委ねて歩むこと

このステップをこの朝確認して、週の歩みを始めましょう。
 
お祈りを致します。