礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年4月20日
 
「『死』が滅ぼされる」
召天者を憶えて
<イザヤのメッセージ(16)>
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書25章1-9節
 
 
[中心聖句]
 
  7,8   この山の上で、・・・万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。
(イザヤ書25章7-8節)

 
聖書テキスト
 
 
1 主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。
2 あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町からうせ、もう、永久に建てられることはありません。 3 それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます。4 あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。 5 砂漠のひでりのように、あなたは他国人の騒ぎを押え、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。
6 万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。 7 この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、8 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。9 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
 
はじめに:「死」というカベ
 
 
2008年の召天者記念礼拝に良くお出でくださいました。今日は、先に天に帰られた愛兄姉のありし日を偲び、天国への希望を新たにする幸いな時です。集われたお一人々々に祝福をお祈り致します。

今日は、私達にとって大きく立ちはだかる壁は「死」であります。マンションなどでも、4と言う番号を飛ばして部屋番号を決めているところがあるくらい、死というのは忌まわしいもの、出来れば忘れて生きていたいものという感覚が日本人には一般です。お葬式の時の、いわゆる忌みごとというのは、亡くなった方を覚えるとか愛するとかの表現ではなく、その方の死が自分に降りかからないように、という願いを籠めたおまじないのようなものです。死がこのように主人顔をして、私達の心を暗いものにしているのはなぜでしょうか。神の言葉である聖書は、1人の人によって罪が世に入り、その罪によって死が入ってきたとその起源を説明しています。人間が神に背いて自分勝手な生き方を始めた、その罪の結果が死であるというのです。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった・・・」(ローマ5:12)

そしてその同じ聖書は、「永久に死を滅ぼされる。」と宣言します。驚くべき宣言ではないでしょうか。この言葉は、一体何を意味して、誰に語られた言葉なのでしょうか。それは21世紀に生きている私達とどうかかわりがあるのでしょうか。
 
「死が滅ぼされた」宣言
 
1.背景:この宣言の流れ
 
 
この宣言は、どんな文章の流れで語られた言葉なのでしょうか?

・アッシリヤの覆滅:
今日は司会者によって、25章の1節から読まれました。ここは、大きな戦いにおいて、黒雲のようにイスラエルを覆っていた敵の軍勢が打ち破られ、全土に平和が訪れると言う預言です。その敵とは、このイザヤが生きていたBC8世紀の中東における圧倒的な支配者であるアッシリヤであります。そのアッシリヤが歴史から消し去られるほどの敗北を喫します。それが齎す世界中の安堵感、喜びをこの25章は歌っています。

・助けなる神:
この章で描かれている神の姿に眼を留めましょう。
 4節=弱っている者のとりで
    貧しい者の悩みのときのとりで
    あらしのときの避け所
    暑さを避ける陰
 5節=暑さに苦しむものへの濃い雲の陰
 6節=飢えたものへのもてなし手
 8節=死を恐れるものへの命
    悲しむものへの慰め
特に5節の御言は、外国で奉仕し、色々な課題に直面した私への個人的な慰めでした。「砂漠のひでりのように、あなたは他国人の騒ぎを押え、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。」詳しい状況は申し上げませんが、この言葉は本当です。

・喜びの宴会:
神に敵する勢力が滅ぼされて、神の支配が確立された時に行われるのが大宴会です。これは、世の終わりになされるはずの喜びの祝宴の預言です。相当メタボに心配なようなメニューですが、ご馳走が問題ではなく、神に招かれて、主と共にあると言うことが既にご馳走です。

・死の消滅宣言:
この、大きな喜びの理由が「死が永久に滅ぼされた」ことです。先ほども触れましたように、聖書において、死とは自然の現象でもなく、世の儚さの現われでもなく、実に罪によって齎された呪いの象徴なのです。ですから、死の消滅はその呪いの消滅を意味していました。その消滅のドラマは聖なる山で行われる(キリストの死と復活によってなされる)のです。
 
2.意味:この宣言は何を意味するか?
 
 
・死の支配が終わる:
キリストがまず甦り、死に打ち勝たれました。「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。」(ローマ6:9)

・死の棘が除かれる:
死に対するキリストの勝利は、キリストを信じるものに、分け与えられます。と言っても、彼らに肉体的な死が訪れないと言うことではありません。ただ、死を齎した罪、死後の審判への恐怖が除かれます。「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Tコリント15:54-57)。「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

・死そのものが無くなる:
キリストが再びこられる時、キリストにあった死んだ者達は永遠の命に甦ります。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」(黙示録20:14)文字通り、死が忘れ去られ、悲しみのない世が来るのです。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配・・・を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」(Tコリント15:24-26)
 
3.恵み:それは私達に何を齎すか?
 
 
・大きな慰め:
目の涙が拭い去られる。死がもたらす悲しみを取り去ってくださいます。神は私達の一人ひとりの悲しみを良くご存知です。それらを個人的に、優しく取り去ってくださるのです。あなたがどんな苦しみを今経ているにしても、神はその一つ一つを覚えて、あの時は大変だったね、ご苦労様だったね、と声をかけてくださいます。

・大きな希望:
この希望の故に、患難、苦労を耐えることが出来る。愛する方を天に送ったものは、悲しみの中にあります。しかし、それは望みのない(絶望的な)悲しみではありません。やがて天において互いに手を取り合って再会を喜び、もっと素晴らしいことに主イエス様に顔と顔を合わせて相見える時を待ち望みます。
 
終わりに
 
 
・死に向き合おう:
死とは何なのだろう、という問いに対して、避けて通るのではなくて、真正面からぶつかりましょう。特に、聖書はどう答えているのだろう、と言うことを探ることは、私達に大きな希望と慰めを与えます。

・死の恐怖から自由になろう:
死をもって死を滅ぼしてくださったイエス・キリストの救いを自分のものとすることによって、死の恐さから解放されて、この人生を生き生きと生き抜くものとなりましょう。

・死の彼方にある世界を待ち望もう:
死が終わりではなく、その先に素晴らしい世界があり、先に信仰を持って帰っていった友達が待っているのだと言う明るい希望を持って、この人生を過ごすものとなりましょう。

Fさんというクリスチャンソーシャルワーカーの証を紹介して終わります。Fさんはマスコミの仕事をしていました。三代目のクリスチャンホームに生まれ、日曜礼拝は欠かさず守り、教会学校の先生もし、仕事も勉強も真面目にしていた彼女は、神様が天国に招いてくださる時にはいつでも準備が整っており、「はいはい」と二つ返事で、天国に行けると思っていました。

20年ほど前のある晩、夜遅くまで仕事をした後で事務所の鍵を閉めようとしたときに、右手に力が入らず、鍵がガチャっと落ちました。そのことから、急性多発性根神経炎が分かりました。麻痺が首に顔面に、呼吸筋にと進行していきました。その時、「今死んだら何にもならない、死にたくない」と叫んでしまいました。それからこう祈りました、「神様。もう一度命を与えてください。そうしたら、今度こそ人のため何か出来たといえるような、喜んで天国に行けるような生き方がしたいです。」この祈りが答えられ、徐々に快方に向かいました。

その時同病であった人々が死の恐怖に苦しんでいたことを思い出し、この方々に自分が与えられた神の愛を伝えられるような病院のソーシャルワーカーとしての道を歩むようになりました。
 
お祈りを致します。