礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年4月27日
 
「上から霊が注がれ・・・」
ペンテコステに向かう
<イザヤのメッセージ(17)>
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書32章9-20節
 
 
[中心聖句]
 
  15   しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。
(イザヤ書32章15節)

 
聖書テキスト
 
 
1 見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。2 彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。3 見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。4 気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。5 もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。
6 なぜなら、しれ者は恥ずべきことを語り、その心は不法をたくらんで、神を敬わず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。7 ならず者、そのやり方は悪い。彼はみだらなことをたくらみ、貧しい者が正しいことを申し立てても、偽りを語って身分の低い者を滅ぼす。8 しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。
9 のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。10 うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。11 のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。12 胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。13 いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。14 なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。
15 しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。16 公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。 17 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。18 わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。19 ――雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。――20 ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。
 
はじめに
 
 
ペンテコステを2週後に控えた聖日です。二千年前の今週木曜日が「昇天記念日」で、主イエスがオリーブ山から召天された日に当たります。それから10日間、弟子達は聖霊を求めて祈り続け、その日が満ちて聖霊が下り、弟子達は新しい人に作り変えられます。その結果生まれたのが教会です。その出来事を思い巡らしつつ、今日とペンテコステには、イザヤ書から聖霊に関する預言について学びます。
 
A.聖霊の注ぎの預言
 
1.漸進的啓示
 
 
旧約聖書において、聖霊の働きは多く認められますが、必ずしもそれが支配的であるという印象は持てません。これは(神学的用語で恐縮ですが)「漸進的啓示」の故であると考えられます。漸進的啓示とは、人々が受け入れられる容量に応じて、真理が徐々に示されることと定義されます。ワイリーという神学者は、旧約における聖霊の働きは、二つの面で限定的であったと指摘します。第一は範囲です。特定の役職や使命を与えられた人々に聖霊が与えられるという概念が一般的でした。第二は深さです。多くの場合、聖霊の働きが、与えられた個人の奉仕に関することが多く、人格の変化を、しかも継続的になさるという例は多くありませんでした。その一例はサムソンです。聖霊が臨むと怪力を発揮することが出来たサムソンは、女性の誘惑には大変弱いという弱点を克服できませんでした。
 
2.聖霊の注ぎの預言
 
 
このような中で、預言者たちは、やがての日に聖霊が圧倒的な力をもって
・(限定された人々ではなく)すべての人々に臨み
・(一時的な力の賦与と言う以上に)その内面までも変革なさる
という希望の預言を行っています。その預言は時を追うに従って、より明確になり、より広範なものとなって行きます。先駆けがイザヤ32:15です。「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」この預言は、ヨエル、エレミヤ、エゼキエルと年代が下るに従って、その明確さを加えていきます。
 
B.この預言の背景
 
1.イザヤ書の流れの中で
 
 
28-33章が、不信仰者に降りかかる災いを述べているのですが、色々なタイプの不信仰者が列挙され、審判が告げられた後に、トンネルから抜け出た光の世界のように現われるのが32章です。そこでは、神の干渉と釈放が約束されています。その神の干渉のクライマックスが15節です。
 
2.32章の流れの中で
 
 
・1-8節:理想的な(回復された)国
そこでは、公正が支配し、偽りは糾弾される

・9-14節:(回復の前の)イスラエルの荒廃
接近している危機に無頓着な女性達への警告。彼女達は、その不信仰の行いにも拘らず、神が守っていて下さるという偽りの信頼によって自己満足していたようである

・15-20節:聖霊の注ぎによる全面的回復
聖霊の注ぎは、自然界および社会の隅々への祝福となる
 
C.この預言の内容
 
1.絶望(状態)はいつまでも続かない
 
 
「しかし、ついには・・・」とのことばは、神を計算に入れない社会の絶望的な状況の只中にあって神の干渉が訪れる、というニュアンスを表します。イスラエル社会は、神に背いて徹底的に滅ぼされ、町は荒廃するのですが、その荒廃はいつまでも続くものではない、「ついには」(英訳はuntil)神の希望の時が訪れる、これがイザヤの預言でした。人間的希望が完全に尽きてしまったその時が、神のチャンスなのです。夜の闇が暗ければ暗いほど夜明けは近いのと同じように、世の中が暗くなればなるほど、「ついに神はみ業をなしてくださる」のだと、逆に希望を持つことが出来ます。

来年の日本伝道会議のテーマは「危機の時代における宣教協力」です。現代を覆っている危機の暗さ、深刻さについては敢えて述べるまでもありません。冷戦が終わってから、地域的な民族・国家同士の紛争は減るどころか深刻さを増しています。日本の政治の混迷は言うまでもありません。教会も閉塞感というような形容詞までついた調査がなされるほどです。しかし、人間的な努力が空しいことが徹底的に悟らされた後にこそ、神は力をもって臨み給います。
 
2.聖霊は上から臨む
 
 
「上から・・・臨み」とは、今述べましたように、横からでもなく、下からでもなく助けは上から来る、いや、上から来る助けだけが本当の助けだと言えるのです。周りに助けを求めても、頼りがいがない場合が殆どです。下から助けを求めても混乱するばかりです。四方八方が行き詰まるところ、そこに上からの干渉が加えられる時、主の栄光の聖名を崇められます。私は日本の政治状況の混乱を見るにつけ、横からでもない、下からでもない、外からでもない、上からの恵みの注ぎが絶対的な必要であると感じます。
 
3.回復は「活かす御霊」による
 
 
聖霊は、創造において力強く働きなさいました(創世記1:2、2:7)。そして、罪によって堕落した世界の回復に更に働かれるお方です。聖霊こそが、すべてを活かし、すべてを刷新する唯一の原動力です。「あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます。」(詩篇104:29-30)
 
4.御霊はすべてを刷新される
 
 
聖霊による回復は、自然界および社会の隅々への祝福となります。自然界においては、豊かな果物の収穫です(15,16,20節)。

しかし、この文節では、それよりも、もっと社会における平和と安全、正義と公正がその結果として描かれています(16-18節)。そして、その平和、安全、正義、公正は、人間的な努力によっては全く得られないものだという絶望(6-7節)への反動です。オズワルトはここを解説して「約束された神の国が来る。そこには平和と安全がある。しかし、それは、人間の努力の破産が明らかにされた後で、神のイニシアチヴと力の賦与によってだけやってくる」と言います。

その平和とは、一人ひとりが神との平和を保っていることから来る互いの調和に満ちた関係です。

その安全とは、環境的安全と言うよりは、神が民の中に居られること、民は神の中にあると言う事実から来る絶対的な安全です。

公正と正義とは、民が神を恐れることが広がった結果の徳であります。
 
終わりに:聖霊の満たしを求めよう
 
 
聖霊が、一人ひとりの心を満たしてくださることこそ、私達の希望であり、力の根拠です。それによってだけ、私達は神のご性質を分け持つことが出来るからです。

神が満たしてくださるためには、その領域は神の支配を待ち望む状態でなければなりません。私達がその主権を完全に神に明け渡す時にだけ、主は御霊をもって満たしてくださいます。

終わりの賛美を、信仰をもって歌いましょう。
 
お祈りを致します。