礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年5月11日
 
「豊かな聖霊の注ぎ」
ペンテコステ礼拝
<イザヤのメッセージ(18)>
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書43章25節-44章5節
 
 
[中心聖句]
 
  3   わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いた地に豊かな流れを注ぎ、私の霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
(イザヤ書44章3節)

 
聖書テキスト
 
 
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
26 わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。27 あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。28 それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、ののしられるようにした。」
44:1 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。
3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。4 彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。5 ある者は『私は主のもの。』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」
 
はじめに
 
 
ペンテコステのお祝いを申し上げます。今年は格別に、3名の受洗者が与えられ、この日の祝福を共に祝うことができました。主に感謝を献げましょう。

ペンテコステとは、「第五十」という意味で、キリストの復活から数えて丁度50日目に当る日曜日のことです。

・旧約時代のペンテコステ: 実は、キリストが世に来られるずっと以前から、ユダヤ教の三大祭の一つで、収穫の終わりを感謝する「7週の祝い」(ペンテコステ)が祝われていました。それは過越しの祭りから数えて7週が終わった安息日の翌日から始まるものでした。

・新約時代のペンテコステ: 2千年前のペンテコステの日に、約束の聖霊が注がれて教会が誕生したことから、ペンテコステは、教会の誕生日として、キリスト教の祝祭日として一層大切に祝われるようになりました。

この日に注がれた聖霊について、旧約聖書は幾つかの預言を行っていますが、今日はその内の一つであるイザヤ44:5-6を取り上げます。
 
A.シーソーゲームへの決定打
 
1.44:3の預言の背景
 
 
・イザヤ書後半:イザヤ書の後半(40−66章)は、イザヤの「将来的なメッセージ」です。

・第一部(40−48章)は「贖いの型としての出バビロン」を預言しています。

・44章はその真ん中に位置しており、バビロン捕囚からの釈放を預言しています。捕囚は罪の結果であり、釈放とは、単なる民族的回復だけではなく、罪からの贖いを含んだものです。
 
2.43章にみる(刑罰と祝福の)シーソーゲーム
 
 
今日のテキストである1−5節は、「しかし今」(新改訳には、「しかし」がありませんが、多くの英訳は「しかし」があります)から始まります。それは、43:26-28に記されている「罪への処罰」の思想を受けているからです。

・43:1の「だが」: そして43章全体を見ますと、鍵となる二つの「しかし」を発見します。一つは1節の「だが」です。不従順の故に刑罰を受けるイスラエルに対して神の憐れみを示す「だが」です。

・43:22の「しかし」: それがずっと21節まで続くのですが、22節の「しかし」でひっくり返ります。イスラエルは、神に対する充分な尊敬を払わないばかりか、従おうともしませんでした。27節「あなた(イスラエル)は罪を犯し、その故に聖所の司達を汚し、イスラエルが罵られるようにした=捕囚の憂き目に遭った」と言っているのです。

・44:1の「しかし」: 「この罪にも拘らず」という逆転が44:1の「しかし」です。ここから始まる恵みの預言は、43:25の「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」という神の贖いの恵みで予告されています。罪を赦すのは神ご自身のみであり、その神は、ご自分の限りない善の故に、罪を赦してくださる、というのです。
 
3.愛されているイスラエル (1-2節)
 
 
この沢山の呼び名の中に、イスラエルに対する主ご自身の格別なご愛を感じます。ここには5つあります。

@主のしもべヤコブ(ヤコブはイスラエルの別名です。どんなに背いても、イスラエルは神の僕だということを示します)

A主の選ばれたイスラエル(価値のないイスラエルを選び給う神の特別な顧みを示します)

B主はイスラエルを形作られた(イスラエルを擬人化して、子供が胎内にいる時から特別な顧みの中にあるように、イスラエルが神の格別な顧みと愛の対象であることを示します)

C助け主(主は審判者ではなく、弁護者となってくださいます)

Dエシュルン(義である、小さいものという意味で、ペット的な言い方です。申命記32:5は、イスラエルを軽はずみでよく人のことを蹴る子牛に譬えてエシュルンと呼んでいます。序ながら、中川先生が「つばさ」誌に、エシュルンという飼い犬から見た随筆を連載しておられました。とても、興味深い、軽妙洒脱な文章で私は大好きでした。)

主はここで、恐れるな、と語られます。彼らは、その罪の故に、当然恐れねばならない状況にありました。しかし、43:25に示唆されている神の絶対的な恩寵の故に、恐れる必要はないのです。
 
4.決定打である聖霊の注ぎ (3節)
 
 
3節は4つの繰り返しから成っています:

 わたしは
  潤いのない地に 水を注ぎ
  かわいた地に 豊かな流れを注ぎ
  あなたのすえに わたしの霊を(注ぎ)
  あなたの子孫に わたしの祝福を注ごう

この4つの繰り返しは同じ真理を語っています。聖霊が民一人ひとりの心に注がれて、新しい命を与え、豊かな信仰生活を送らせるということです。ウェスレアン注解は「これらはみな、創造的な生命の源から押し寄せてくる、逆らい得ない、ダイナミックなエネルギーを示している」と解説しています。言い換えれば、一人ひとりの心が聖霊に満たされ、勝利と祝福に満ちた生涯を送るようになると言うことです。それも、中途半端な注ぎ方ではなく、outpouring 注ぎつくすほどの恵みです。これは、シーソーゲームへの決定打であると先ほど言いました。それまでのイスラエルは神に従ったり背いたりを繰り返していました。もう、その繰り返しを必要としない位の決定的な勝利が、聖霊の注ぎによって与えられるはずなのです。
 
B.聖霊の注ぎは・・・
 
1.内側の刷新をもたらす
 
 

聖霊の注ぎは、命の源である聖霊が内側に宿り、神の命を人に注ぎ込むことです。それが水、流れ(flood)と表現されています。ヨハネ7:38が述べているように、聖霊の流れが心の内に溢れ、川々のように流れ出る様を指しています。

エゼキエル36:25-27を開きましょう。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。・・・あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」ここにはキリストの贖いを基礎として、聖霊を通して与えられる新約の救いの内容がはっきり記されています。

@罪と汚れからの完全なきよめ
A自己中心で頑固な「石の心」が除かれ、柔軟に神の御心と他人の忠告に耳を傾ける「肉の心」が与えられる
B神の律法を喜んで行う心が与えられる、と言うことです。

これが、勝ったり負けたり、上がったり下がったりのシーソーゲーム的信仰生活から脱皮して、新しい段階の信仰生活に入る道です。
 
2.祝福が広がる
 
 
この預言が成就するとイスラエルは命を得ます(4節)。そして、聖霊に満たされたイスラエルは、その魅力のゆえに、祝福を周りに及ぼして行きます(5節)。この5節は、名目的なユダヤ人が、真のユダヤ人となる恵みを指すのだ、という有力な説もありますが、ウェスレアン聖書注解は、この箇所は異邦人の救いと取っていますので、それに従います。ここでの「ある者」とは、異邦人のことでしょう。その人々が、イスラエルの祝福にあやかろうとして、真の神(イスラエルの神)に帰依する様子を示しています。

@「私は主のもの」(ではなかったのに、主のもの)と自分をみなし、
A「ヤコブの名を名のる」(元々イスラエル人ではないのに、精神的にイスラエル人であると名乗る)
B「手に『主のもの』としるす」(腕時計のような形の覚書をイスラエル人たちは腕に巻いており、そこに聖句などを記していた。それに似たものを異邦人達が作り、そこに「主のもの」と記し、主への帰依を表した)

この三つの画は、異邦人が、真の神ヤハウェに帰依する、いわゆる改宗者となることを預言しています。実際、捕囚によって世界に散ったイスラエル人(これをディアスポラと呼びます)の証を通して、多くの異邦人がユダヤ教を受け入れ、改宗者となったのです。

聖霊に満たされた人は、その行く場所どこででも、多くの人々を活かし、キリストの救いへと引き寄せる力となるのです。エゼキエル47:9には、「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」と記されています。この川とは、主イエスがヨハネ7:38で「私を信じる者は聖書が言っているとおりに、その日の心の奥底から、生ける水の川が流れるようになる。」と語られた聖霊の注ぎのことです。
 
3.渇いた魂に与えられる
 
 

注ぎの対象はイスラエルの民です。それは「渇いた地」に譬えられています。乾いた地とは、絶望的なまでに不毛な状態にあるイスラエルのことです。捕囚という政治・社会的な絶望状況が背景にありますが、それだけではなく、霊的に絶望的な状態にあることが伺われます。日本も今霊的に絶望状態です。最近の青少年犯罪事件は、眼を覆うというよりも、もっと世紀末的な絶望状態を物語っています。渇ききった大地のようなものです。

でも、客観的に見て「乾いた地」であるのと、自覚的に「渇いていると認識して、主の恵を切に追い求めている魂」とは同じではありません。主イエスは、「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)と語られました。そして、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)と飢え渇きをもって、主に求める必要を語っておられます。満ち足りていると思う魂には、主は働き給いません。

真実に飢え渇いて求めたのは、イエスの弟子達でした。聖霊に満たされるまでは、エルサレムに留まりなさい、という主イエスのご命令を頂いて、彼らは真剣に求めて祈り続けました。その結果として、ペンテコステの日があったのです。彼らは、求めて祈っている過程で、本当に自分達に欠けているものは何かということを示され、謙って聖霊の注ぎを求めたのです。
 
終わりに:私達も、飢え渇いて恵みを求めよう
 
 
私達にとって、聖霊の注ぎを頂かねばならない分野は何でしょうか。主に相応しくない心の動きでしょうか。主の御心を喜んで行うことのできない不服従の心でしょうか。自己中心と頑固の「石の心」でしょうか。それが何であっても、聖霊のみ業によって主は新しい心を与えてくださいます。新しい注ぎを祈りましょう。
 
お祈りを致します。