礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年5月25日
 
「明けの明星よ、どうして落ちたのか」
イザヤのメッセージ(19)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書14章12-15節
 
 
[中心聖句]
 
  12   暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか
(イザヤ書14章12節)

 
聖書テキスト
 
 
12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。
 
はじめに:イスラエル周辺諸国への審判(13-23章、地図参照)
 
 

13-23章までは、バビロン、ペリシテ、モアブ等のイスラエル周辺諸国に対する審判が預言されます。この預言は、その対象国にイザヤが出かけて行って語ったものではなく、イスラエルへの励ましのために語られたメッセージでした。14:1-2を見ると、バビロンの滅びがイスラエルの復興と繋がることが分かります。「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。2 国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。」

今日は、13−14章に記されている「バビロンへの審判」を学びます。
 
1.歴史の中でのバビロン
 
 
最初に、バビロンという国がどのように歴史の中で登場しているかを概観しましょう。

@バビロンの起原:
バビロンとは、今のイラク南部に当る場所です。その起原は創世記に遡ります。「その頂が天に届く塔を建てよう」(創11:4)として、神の罰を頂いたあのバベルの塔がそれです。古代バビロニヤ帝国は、メソポタミヤ文明の中心として、立派な街づくり、高度な文化・法制・技術を誇っていました。

Aイザヤ時代のバビロン:
イザヤ時代の前から世界帝国となったアッシリヤは、バビロンを属国扱いにします。バビロンは、何回か反逆を試みますが、そのたびに攻められ、破壊を受けます。その破壊がイザヤ13章の背景ではないかと考える聖書学者もいます。

B新興バビロン:
そのバビロンが、アッシリヤの衰退と共に独立し、世界帝国として君臨するようになるのは、ナボポラサル(BC7世紀末)、そしてその子のネブカデネザル王(BC7−6世紀)の頃です。その絶頂のころ、ネブカデネザルはこういいました「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(ダニエル4:30)と。 そこに、バビロンの傲慢の精神を見ます。繁栄も短期間で、BC6世紀の後半にはもう完全に滅ぼされてしまいました。

C終末におけるバビロン:
終末の時代、バビロンとは神に反する世俗精神を代表する象徴的な名前として使われます。黙示録を見ましょう。「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」(17:5)と記されています。
 
2.バビロンへの審判(13章)
 
 
イザヤが生きていた時代は、世界帝国といえばアッシリヤでした。バビロンはその一部であって、歴史を支配する力を持っては居ませんでした。しかしイザヤは、先見の明をもってバビロンによる世界支配とその滅亡とを見通したのです。<先にも述べましたように、この「滅亡」は、BC7世紀に、アッシリヤに反逆をして、破壊された時を指している、という有力な解釈があります。>どちらにしても、そのバビロンが神の審判を受けることについて、イザヤは13章で、審判の厳しさを強調します。その審判は、以下の三つの特色を持っています:

@応報的である:
「わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。」(11節)

A徹底的である:
「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。」(6-8節)

B確定的である:
「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。・・・山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない。」(17-22節)
 
3.バビロンの罪(14章)
 
 
これについては、14章に詳しく描写されています。2つの罪を掲げます。

@その暴虐:
「あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。『しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。』」(4節)「あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』」(16-17節)

Aその高ぶり:
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(14:12-15)
 
4.「明けの明星」の失墜
 
 
@言葉の意味:
この「明けの明星」(ヘブル語ではヘーレルで、字義は「明るい」です。そして、最も明るい星である金星を指します。ラテン語ではLuciferと言います)は、サタンの別名としても知られています。

Aバビロンの譬えとして:
バビロンが、下界の黄泉に譬えられていた9節(「下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。」)から、その譬えが天上に変わります。高ぶったバビロンは
 ・ライバルの存在を許さない
 ・神よりも自分を高くする

Bサタンとの類似:
多くの教父たちは、この句と、黙示録12:8-9を結びつけて、サタンの堕落を示すものと受け取っています。しかし、宗教改革者たちはすべて、この解釈を否定しています。この文節は人間の高ぶりを語っているのであって、天使の高ぶりを語ってはいないからです。しかし、このバビロンの高ぶりとその高ぶりの故の刑罰は、サタンの起原とその刑罰の象徴であることまでは、(次に述べる理由から)考えられます。サタンについてエペソ2:2は、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」と語ります。黙示録20:3には、「底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。」とあります。これはイザヤの表現と似ています。

Cカナンの神話との類似:
この詩は、カナン人の間に受け継がれてきた神話とも似ています。それらは、神々の間での競争を語っています。カナン人の神話に出てくるアスタル(明けの明星)神は、他の神々と徒党を組んで、バアル神を廃位させようとします。しかし、この物語では、アスタル神は自分がそれに相応しくないものだと見極めて、クーデターを自分から諦める、という筋になっています。13節の「神」と言う言葉は、通常のエロヒムではなく、カナン宗教の神殿の高き神であり、その下でバアルとその伴侶者たちが頑固にも仕えているgod(エル)と言う言葉が使われています。これもアスタル神の話の影響を示します。さらに、北の会合の山とは、シリヤの北のカシウス山を指していると思われます。山々の中の山という表現で、バビロンが、諸国の上に立とうという野望を示します。

Dイザヤの論点:
イザヤは、被造物が創造主に挑戦するという構図を描いています。究極的には、闘争は創造主と被造物のそれであり、問題は、被造物が創造主の前に跪き、正しい敬意を払うか、或いは、創造主と同じだと主張して高ぶりを継続するかと言うことです。イザヤは当時の文学を豊富に引用しつつも、独自の方法で、人間が神に挑戦する愚かさを私達に示しています。私達が被造物の分際を忘れて創造主のようになりたいと主張するのは、とんでもない反逆です。そうではなくて、彼に従って生きていく時に、神のご性質は私達に分与されます。13節の「王座を上げ」と言う言葉はバビロンの自己主張の言葉です。

しかし、神は申命記32:13を見ると、「主はこれを高いところに上らせ・・・」とありますように、神の恵みとして、私達を引き上げてくださいます。この恵みの可能性を計算に入れないで、自分で自分を高めようと言うところに人類の最大の罪があります。私は年を取って、色々な立場や働きに携わり、色々な方々の問題に否応無しに携わるようになって、益々、人間の問題は自己主張の強さであると思うようになりました。必ずしもあからさまな我侭ではないのですが、熱心さ、自己義が互いにぶつかり、傷付け合うということを、自戒を含めて深く考えさせられています。
 
おわりに:私達への警戒
 
 
さて、自分を神の座に置こうとしたサタンのスピリットは、正に人間の罪の原点でもあります。私達は、癒しがたいほど傲慢で我侭です。このイザヤの預言は、人間の心に奥深く潜む高ぶりの傾向と危険性を示します。

しかし、神こそが高く挙げられるべき唯一の神です。私達はただの土塊です。神無しで生きていけるという不遜な思いを一瞬でも持つことの無いよう、謙って祈りましょう。私達が徹底的に謙りますと、神は私達を高く上げてくださいます。「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)
 
お祈りを致します。