礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年6月15日
 
「 危機時代の指導者とは」
イザヤのメッセージ(21)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書22章15-25節
 
 
[中心聖句]
 
  23   わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。
(イザヤ書22章23節)

 
聖書テキスト
 
 
15 万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。 16 あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。
17 ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、 18 あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。 19 わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。
20 その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、 21 あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。 22 わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。 23 わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。 24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。
25 その日、――万軍の主の御告げ。――確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。
 
1.イザヤ22章について
 
 
・13-23章の諸外国への預言の一部:
13-23章までは、イスラエル周辺諸国に対する審判が集められています。前回は、19-20章の「エジプトに対する宣告」(19:1)を学びました。今日は、ユダがどうなるかという問題に戻ってきます。どうして、ユダへの宣告が諸国民への宣告の中に混じっているかといいますと、実際的な面で、ユダの民は周辺諸国に勝っている点はなく、彼らの世界観は周りの人々と変わらず、それゆえ周辺諸国と同じ裁きを受けるべきであった、という意味合いがこめられていたからと思われます。

・預言の対象は、「幻の谷(エルサレム)」(1節):
1節に、「幻の谷への宣告」というタイトルを見出しますが、これはエルサレムのことです。この場合の幻は、良い意味でのビジョンという意味ではなく、自分たちは罪を犯しながら、神が守ってくださるという偽りの信仰が幻である、という皮肉な意味で使われているのです。その中心に居たのが、あとで述べるシェブナでありまして、彼は、勇気と責任感が、レンガやモルタルよりも勝る防御であることを信じなかったのです。

・背景になっている危機:
この章での危機とは、アッシリヤの王セナケリブがユダに侵攻し、後一歩でエルサレムを呑み込もうとした時、BC701年の出来事のことです。他の出来事に結び付ける説もありますが、私はセナケリブ説が相応しいと思います。さて、この章では、危機における人々の姿と行動、危機における悪しき指導者と良き指導者の二つの姿が描かれています。
 
2.一般人のデカダン思想と行動
 
 
・偽りの安心(8-11節):
エルサレムが危機に直面しているのに、人々が偽りの安堵感を持っていた理由のひとつは、エルサレムの城が十分な武器を備え、水の供給源を持っていたことでした(8-10節)。「こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し、二重の城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた。しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。」これは、有名なヒゼキヤ王時代に掘られた地下水道への言及です。確かに、ヒゼキヤが武器を備え、水の供給を確保したことは、人々にとってものすごい後ろ盾を与えました。しかし、創造の主であり、しかも、そのような良き地を選んでくださった方に目を留めず、自分たちが水路を掘ったから大丈夫と言う考えは全くもって傲慢至極ではないか、と預言者は語ります(11節)。あらゆることに準備は必要です。しかし、万全の準備が、神への信頼を減殺してはなりません。

・絶望感(12-13節):
大きな危機を直前にすると、人々の心がむき出しに現われるものです。エルサレムが包囲され、生きる望みが失われたかに見えたとき、人々は自暴自棄、捨て鉢になって快楽という麻薬の中に逃げ込みました。神は「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」(12節)と悔い改めを迫ったのですが、ヨナ時代のニネベのような悔い改めを行うどころか、人々は開き直りました、「どうせ死ぬのだ、飲め、食らえ、楽しめ。」と。危機におけるこうした快楽的な行状は、セナケリブがエジプト軍との戦いに追われて一時的にエルサレムの包囲を解いた出来事がその背景にあったと思われます。死の先にある世界を知らず、信じない人々の行き着くところは結局、この世の楽しみが一番、飲んで騒いで楽しもう、しかなくなるのです。
 
3.不適格の指導者:シェブナ(絵図@)
 
 
この危機にあって執事の職にあったシェブナという男が居ました。イザヤの預言の中で名指しで非難されているのは、この男だけです。恐らく、危機時代の不信仰の民の典型がシェブナであったからと思われます。さて、シェブナについて、15節以下はこう語ります。

「万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。 16 あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。 ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。」実に恐ろしい預言です。そのプロフィールを纏めます。

・宮内庁長官:
シェブナは、「宮廷をつかさどる執事」、今日で言えば宮内庁長官のような立場でした。今の長官は政治的な力を持っていませんが、当時の宮内庁は、権力の中枢の一人でしたから、総理大臣に近い立場であったとも言えましょう。彼の意思次第で王様の命令が批准されたりされなかったりすることがあったからです。

・親エジプト派の中心:
父の名前が記されていないことと、彼の名前から見て、外国人であったという推測をする注釈者もいますが、これは確かめられません。彼は、親エジプト派の中心人物として暗躍していたと思われます(28:14-15、30:1-5参照)。しかし、その親エジプト派は、セナケリブのエジプト侵攻によって一気にその面子を失い、権威も失墜するのです。

・その利己主義的、出世欲、偉ぶり:
さらに、そのシェブナは非常に利己主義的な役人であり、その地位を利用して首長たちの墓に並べて自分の墓地を建設し、自分の家を(実際の高さで行っても、また地価から見ても)高いところに建設し、自分の生活を高めることのみに腐心したのです。〇〇省の偉い人々がその地位を利用して接待付けの生活を送って、贈賄の罪で起訴されたことと似ています。また、昨今、官僚の深夜タクシー券の使い方を巡って実に嘆かわしいというか、呆れたような行状が報告されていますが、人間の心というものは、今も昔も変わっていないことをシェブナの行状を見て悟らされます。悲しいことです。彼は、市民でもなく、尊敬に値するような長老でもなかったのに、すばらしい服を着、高級な飾りのついた戦車、今日的に言えばものすごく高い外国車を乗り回すような生活をしました。普通の役人ならば、らばや馬に乗って出勤するのですが、彼は公に姿を現すときは堂々とした戦車で自分の偉さを印象付けようとしたのです。

・マリのように投げ捨てられる:
彼に対するイザヤの宣告が述べられます。主は彼を鷲づかみにし、マリのようにくるくる丸めて広い地に投げ捨てる。そこで彼は死ぬ。彼の自慢の戦車も一緒にだめになる。主は、シェブナを免職し、その尊敬された地位から追放なさる、というのです。何と厳粛な、何と恐るべき結末でありましょうか。

シェブナは、主を知らない未信者ではありません。主を知っているはずの、今で言えば、教会の高い地位にある人です。その人が捨てられる、これに勝る教訓はありません。
 
4.真実な指導者エルヤキム
 
 
・王家の三役の一人:
シェブナと対照的に、主から信頼され、用いられると約束されたのがエルヤキムです。彼については、セナケリブの第二の包囲のときの記事で言及されてきます。「そこで、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った。ラブ・シャケは彼らに言った。『ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。10 今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか。主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ。」と言われたのだ。』11 エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。『どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。』・・・22 ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフは、自分たちの衣を裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。37:1 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。2 彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。」 (36:3-37:2)。多少引用が長くなりましたが、ユダ王国とヒゼキヤ王の危機にあってその実質的な切り盛りを委ねられた三役のひとり、しかも宮内庁長官として序列ナンバーワンとして活躍したこと、しかも、王様と預言者との間の調整を行う大切な仕事をしていたことが伺えます。このような地位が与えられたのは、この危機の直前、主のみ言葉によってヒゼキヤ王が動かされ、彼をこの地位に置いたからと思われます。エルヤキムについて、さらにいくつかのポイントを拾うことが出来ます。

・「主の僕」(20節):
彼は「主の僕」です(20節)。彼の名前の意味は「神は立てられる」です。まさに、神に立てられた僕でした。

・シェブナの立場と権威を継承:
彼はシェブナが着ていた長服(ガウン)を着、彼の飾り帯を締め、彼の権威をその手にゆだねられます。彼はエルサレムの住民とユダの家の父(保護者)となります(21節)。

・ダビデ王家の経済、政治を仕切る:
彼は、ダビデ王家のすべての経済、業務を執り行います。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はありません。この表現は、黙示録の七つの教会の内、大変ほめ言葉を頂いたフィラデルフィア教会にキリストが与えなさった言葉と共通です。そこでは、宣教のかぎがこの教会に与えられている、という文脈です。エルヤキムはそのような絶大なる信頼をダビデ王家の中で与えられます。彼が王と民に対する忠実な心、純粋な愛をもって仕えたことが、この言葉遣いで分かります。シェブナとは対照的です。

・人々に信頼される:
「彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。」:その信頼のしるしが「彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。」という言葉です。釘を打ち込むとき、壁の向こうが空洞であるような所に打ち込みますと、ものを掛ける役割を果たすことが出来ません。落語の中で、長屋に釘を打ったところ、隣の壁からその先が出てきて、箒か何かを掛けるのに便利であったというお話がありますが、糠に釘ではなく、確かなところへの釘が、エルヤキムなのです。

・父の家に栄光を齎す:
彼はその父の家にとって栄光の座となる。出藍の誉れ、という言葉がありますが、エルヤキムは、父であるヒルキヤにとって、一家の誇りとなるのです。彼の栄光は「子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで」祝福されるのです。卑近な言い方をすれば、エルヤキムの使ったつぼは、お宝鑑定団によれば大変な値打ちものと評価されるほど、彼の名声は高くなるのです。

危機の時代にあって求められているのは、このような指導者です。私は指導者ではない、という方もおられるでしょうが、指導するかどうかは別としても、神はこのような信頼すべき確かな器を求めておられます。私達は、置かれた社会において、「確かな壁に打ち込まれた太い釘」でありましょうか。
 
5.エルヤキムの瑕疵
 
 
・悲劇の預言:
こんなすばらしいエルヤキムでしたが、問題がなくはなかったのです。それが何かは記されていません。しかし、「確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。」という不思議な預言が語られます。エルヤキムは、すばらしい指導者ではあったが、「抜き取られ、おられて落ち」、彼の上にかかっていた国家的な運命も、彼の失脚と共に下降線を辿るというのです。とても不思議です。

・理由は人間への過大な信頼:
なぜそうなのか、なぜそれが記されたのかはわかりません。ただ、24節の言葉が暗示的です。「彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。」エルヤキムは太い釘でしたがその釘に何百人もぶら下がったら、折れてしまいます。出世したエルヤキムに家族親族の期待が全部かかりました。ちょうど名もない家柄から出た総理大臣に家族や親族、そして郷土の皆さんが全部寄りかかるのと似ています。それはそれですばらしいのですが、人間への期待が人々の信仰を誤らせます。モイ大統領はアフリカ福音教会(AGC)の母体であるカレンジン族でした。モイさんに頼めば何でも通るという部族的誇りがAGCの純粋な信仰を誤らせたと私は見ています。また、モイさんも、私に頼めば何でもしてやるよ、「よっしゃ、よっしゃ」という気持ちで驕りが進んだように思います。人間誰でも、指導者になると、はじめのうちは私などはとても出来ないという謙った気持ちを持ちます。しかし、だんだんすべてがうまくいき、人々の信頼が集まりますと、俺もそう見捨てたものではないという密かな驕りが侵入しやすいのです。警戒せねばなりません。神は、一旦信頼した器でも、その器が分を超えて誇るようになると、捨てなさるお方です。サウル王がそうでした。厳粛ですね。

・「神のみにより頼む」大切な教訓:
ですから、このエルヤキムへの審判は、(オズワルトによると)、 エリヤキムとてただの人間であることを示すために挿入された言葉なのです。オズワルトはいいます、「彼に全国民の期待が集中したならば、ただの人間であるエルヤキムは、とてもその期待に応え得ないのです。国民の期待と信頼は、英雄的な人間に向けられるのではなく、主に対してだけ向けられるべきなのです。しかし、ユダはそのための準備ができていませんでした(14節)。近代の歴史でも、ウイルソンやチェンバレンに対して『神に近い政治指導者』として期待をかけすぎたという失敗がありました。人々は、彼ら英雄的な期待を持って見つめ、そして、その結果は大いなる失望に終わりました。」今日の教会でも、英雄待望論があります。〇〇先生は偉かった、もう一度彼のような指導者が起きれば教会はかつての栄光を取り戻すのではないかという考え方、言い方がなされることがあります。神はそういう指導者を起こしなさるかもしれません。しかし、起こしなさらないかもしれません。どちらにせよ、これは私達が決める問題ではありません。イザヤ22章から何を私達は学ぶべきなのでしょうか。それは、私達の希望がシェブナでも、エルヤキムでもなく、ただ主にのみある、という大切な真理であります。
 
おわりに
 
1.私達は確かな釘となろう
 
 
今、私達は危機的な時代に住んでいます。人類全体が、食糧危機、地球温暖化、エネルギー危機、日本の政治で言えば、正に方向性を失ったとしか思えない状況、教会においても、いろいろな面で危機が襲ってきています。そのような中で、私達は社会の一員として、またある場合には指導者として、主のご期待に適う「確かなところに打たれた釘」のような存在でありたいと思います。主に対する真実さは、それを可能にしてくださいます。
 
2.しかし、私達は釘でしかないと認めて謙ろう
 
 
しかし同時に、自分も含め、どのようなすばらしい指導者であろうとも、人間に頼るむなしい期待感から救われ、私達の唯一の望みである主を真に切に仰ぐものとなりましょう。
 
お祈りを致します。