礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年6月22日
 
「平和を備え給う主」
イザヤのメッセージ(22)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書26章1-12節
 
 
[中心聖句]
 
  12   主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。
(イザヤ書26章12節)

 
聖書テキスト
 
 
1a その日、ユダの国でこの歌が歌われる。
1b 私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。 2 城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。 3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。
4 いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。 5 主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。 6 貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。
7 義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。 8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。 9 私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。 10 悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。 11 主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。 12 主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。
 
1.イザヤ26章について
 
 
1)13-23章は諸国民への審判の預言でありました。そして、それに続く

2)24-27章は、ユダへの審判と救いの預言です。そのうち
・24-25章は、ユダの救いとその祝い
・26-25章は、エルサレムを守り給う神への賛美です。さらに
・25章の教訓は、「神は避け所となってくださる」と言うことでした。
・26章は、この思想を継いで、「避け所の象徴」としてのエルサレムが描かれます。エルサレムとは、「平和の所有、または基礎」という意味ですが、この章全体を通じて、神の与える平和が語られます。
 
2.神の与え給う平和
 
・信頼から生まれる平和:
 
 
第1節でイザヤは告白します。「私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。」さらに、「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」(4節)といいます。

エルサレムは、山の上に立てられた町で、その四つの囲みには深い谷があるという自然の要害で、難攻不落の城として有名でした。実際にBC701年、アッシリヤ王セナケリブの猛攻にあって持ちこたえたのは、このように難攻不落の城だったからです。

しかしながら、この町自体が民を救うのではない、とイザヤは言います。神を避け所、とりでとする信仰が彼らを救うのです。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(3節)とあるとおりです。新約では「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)と、真の平和がキリスト・イエスへの信仰と祈りとによって与えられることが約束されています。
 
・混乱と悪意の真中での平和:
 
 
その平安とは、悪しきものが、悪を思う存分行う真っ只中で与えられるものです。10-11節を見ると、「あわれみを示されても、義を学ばない悪者、正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしない不信仰の者」が渦巻いています。そのような人々が、神の民に対して神の祝福が注がれることによって、恥じ入るような勝利が約束されます。7-9節を見てください。義人の道筋が均されて平らにされるというのです。また、神のさばきが行なわれるとき、世界の住民は義(正義が行われる、正義が勝つこと)を学ぶのです。

つまり、四方八方うまく行って物事が順調であるという意味での平和ではなく、混乱や悪意の只中にあって主が正しいものの命を確保し給うという意味での平和なのです。主イエスは、十字架にかかる前の夜、動揺している弟子達に平安を残していかれました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と世の患難を乗り越える平安を約束されました。

昨週伺ったウェスレアン教会総会で、何人かのシェラレオネ・ウェスレアン教会の代表にお会いしました。彼らは10数年前、内戦によって物凄い迫害・混乱・殺戮を経験しました。教会のメンバーが何人も焼き殺され、なたで殺され、手足を切り落とされました。しかし、その迫害の後で多くの人が教会にやってきて、救いに与りました。というのは、迫害に苦しんだ人々の中に会った喜びと平安に人々は感銘を受けたからです。彼らは、家を失い、すべての持ち物を失った人々が何故喜んで、平安でいられるのか、その秘密が知りたかったのです。こうした証が数多くなされたのが恵みでした。
 
・無力なものに備え給う平和:
 
 
「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。」(12節)と言うのは、主は私達に関わるすべてのことに関心をもち、私達の業を通しても主のみ業を進めなさることを示します。

ユダは、自らを守るために何もできません。勿論、民はエルサレムの城壁を守るための骨折をしました。しかし、実際にエルサレムが救われたのは、天使が遣わされてアッシリヤ軍18万5千人を一気に滅ぼしなさった奇跡によるものでした。

神は全能のお方です。そして、神が過去においてなさったことを考えると、神は、将来においても、すべてのことを益としてくださると確信できるのです。それに続く言葉「私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」という言葉が、その理由を説明します。そこで、この次の句に焦点を当てます。
 
3.私達の行為=神の行為
 
・平安の基礎:
 
 
私達の行為のすべてが神の行為である、と言うのは、実に不思議な言葉です。私達の行為と神の行為は当然別々なことではないでしょうか。でも、イザヤは、私達の行為=神の行為という真理こそ、神が私達に平和を備えてくださる、平安の根拠であると言い切っているのです。何故でしょうか。その意味を分析しましょう。
 
・謙遜を教える:
 
 
イスラエルが過去において成し遂げたと思っている事柄も、実は、神から来ているのです。エルサレムの民は、町を守るために石垣を補強し、やぐらを築き、水道を作りました。そして、それは実に有効でした。それでは、神の助けはどこにあったのでしょう。彼らが補強工事に精を出していること自体の中に、神の助けがあったのです。

私達は神の助け無しに、価値のある、効果ある仕事は何も出来ないのです。私達が伝道や教会建設のために、どんなに素晴らしいと他人に評価される仕事をしたとしても、「私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。」と謙って証するものでありたいと思います。

主イエスも語られました、「あなた方は私を離れては何事もできない」(ヨハネ15:5)と。いや、私はイエス様を信じなくても、イエス様に頼らなくても、ちゃんと仕事は出来る、勉強もできる、自分の人生を切り開けると自負している方はいませんか。表面的にはそうかも知れません。しかし私達は何一つ価値のあることはできないのです。

私は小学校3年生の時に物凄く太い筆を持たされて、後ろには習字の先生がいて、先生に私の右手を掴まえられて「もみじ」という大きな文字を書きました(書かされました)。何とそれが船橋市の小学校の習字展覧会で銅賞か何かを貰ったのです。私は子供心に、とても恥ずかしい思いでした。私の手を今でも握って、働きをしていてくださるのは、習字の先生ではなく、偉大な神の御手であります。
 
・確信を与える:
 
 
もし、私達の業が神の業と同じと考えられるとすれば、私達は神が私達のために持っておられるご目的に関して、100%の確信を持つことが出来ます。神は、イスラエルの民を、ご自分の尊い目的のために用いなさる方です。ピリピ1:6には、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」と書かれていますし、2:14には、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」とあります。私達の内に良き志を立てさせなさるのは主のみ業なのです。それがどんなに小さな手の業であったとしても、神に対する真剣な祈りをもってなした行為であるならば、神は、それをご自身の行為とみなしてくださるのです。
 
・信頼と祈りを導く:
 
 
私達の行動と生活のなかで、神を待ち望むという営みの大切さが、この26章に色々な言葉で出て参ります。「待ち望む」(8節)「したい求める」(8、9節)「切に求める」(9節)「祈って呟く」(16節)という言い回しは、この政治的な危機に際して、民が如何に神に信頼したかを示しています。信仰と祈りをもってなす私達の小さな業はすべて、神のわざと計算されうるのです。

そして、その小さな業を通して神は大きな業をなし給います。五つのパンと二つの魚をもって五千人を養いなさったように、私達が神のためにベストをつくし、神の大きな業を期待しましょう。
 
おわりに
 
 
私達の一週間のあらゆる営みが「私達のなす業のすべてはあなたが私達のためになして下さる業です」という心の態度をもってそれにあたることができるように。そして一週間の終わりには、本当にその通りでした、という感謝をもって終わることができますように。
 
お祈りを致します。