礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年7月6日
 
「『ナビ』に聞き従う」
イザヤのメッセージ(23)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書30章1-5,15-21節
 
 
[中心聖句]
 
  21   あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。
(イザヤ書30章21節)

 
聖書テキスト
 
 
1 「ああ。反逆の子ら。――主の御告げ。――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。 2 彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。 3 しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。 4 その首長たちがツォアンにいても、その使者たちがハネスに着いても、 5 彼らはみな、自分たちの役に立たない民のため、はずかしめられる。その民は彼らの助けとならず、役にも立たない。かえって、恥となり、そしりとなる。」
15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。 16 あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。 17 ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。
8 それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
19 ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。 20 たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。 21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。
 
はじめに(絵図@)
 
 
私は、二年ほど前から、主牧車にカーナビを搭載しました。大変便利で、カーナビ無しには運転できなくなったほどです。時々、カーナビより私が良く知っているということもあって、従わないことがありますが、初めての道は特に便利です。

カーナビとは、カー・ナビゲーダー(自動車運行の案内人)と言う言葉の省略です。自動車のラリーなどでは、助手席に座って道筋をあれこれ教えるのがナビゲーターです。さて、私達の人生にも、ナビゲーター(「人ナビ」)が要るのでしょうか。絶対に必要です。それが、今日の主題聖句です。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」(21節)これは大変有名なことばで、私自身もしばしば引用します。しかし、この聖句の文脈が捉えられないで、独立して扱われる嫌いがあります。そこで、前後関係を良く学びつつ、このみ言葉の真意を掴みたいと思います。
 
1.イザヤ30章の位置づけ(絵図A)
 
 
28-33章の「不信仰者の災い」についての預言の一部です。

30章はその中核でありまして、その主題は、「エジプトとの同盟の虚しさ」と言うことができましょう。副題は、対エジプト同盟の必要がない理由のひとつですが、「アッシリヤの滅亡」 (31節参照)が預言されるのです。

時代的な背景は、諸説ありますが、BC701年のセナケリブによるエルサレムの包囲と考えられます。ここでイザヤが言おうとしているメッセージは、大変ストレートでありまして、「エジプト頼むに足らず、また、アッシリヤ恐れるに足らず、人間的画策を排して、ひたすら主を待ち望もう」という信仰姿勢です。この姿勢は、現代の私達クリスチャンに対しても、非常に大切なチャレンジを与えます。

さて、主を待ち望んで、その道に従うためには、主の導きをしっかりと心に留めよう、それが21節の主意です。
 
2.エジプト同盟に頼る愚かさ(1-5節)
 
エジプトを神の位置に置く愚かさ:
 
 
ユダの民は、「はかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。」(1-2節)とありますように、アッシリヤ軍の包囲を受けて、伝統と歴史を誇る超大国エジプトに頼ろうとします。当時の王であるヒゼキヤは、積極的エジプト派ではなかったようですが、側近には、先日学んだ執事のシェブナをはじめ多くのエジプト派がいたのです。さて、エジプトとの同盟が何故罪なのでしょうか。イザヤは言います。それは、エジプトを神のように頼り甲斐のあるものと考えることがいけないのだ、と。
 
神に相談せず人間の知恵で画策する愚かさ:
 
 
神に相談せず人間の知恵で強力な国との同盟を計り、神の助けを求めないで、エジプトの力に頼ることなのです(1-2節)。
 
エジプトは頼り甲斐がない:
 
 
しかも、そのエジプトは、実に頼りがいのない、古さだけが誇りの「大国」にしか過ぎないのです (3-5節)。私達も、如何にしばしば「エジプトに頼る」愚かさを繰り返していることでしょうか。現金の必要に迫られてサラ金に手を出して借金が雪だるまのようになる、と言うのが一番分かり易い例ですが、こんな愚かなと思うことを、クリスチャンでさえも行ってしまう例が案外多いのです。
 
(同盟の理由である)アッシリヤは滅ぼされる:
 
 
それだけではありません。同盟の最大の理由はアッシリヤの脅威でしたが、そのアッシリヤがやがては滅ぼされる、とイザヤは預言します。
 
3.神に頼る確かさ(15節)
 
悔い改めと信仰への促し:
 
 
これに対して、主は「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(15節)と宣言し、民の悔い改めと信仰を促します。
 
ユダの反抗:
 
 
しかし、ユダの民はこれを望まず、「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」とエジプト方向に逃げます。馬と言うのは、今日で言えばF-16のような新鋭兵器の代名詞です。馬があるから大丈夫、という気分です。
 
ユダへの懲罰:
 
 
しかし主は重ねて「それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。」(16-17節)と、その逃走の虚しさを強調されます。
 
4.ユダの回復(19-21節)(絵図B)
 
 
先ほど述べた手痛い教訓を民が学んだ後、ユダは回復され、主は恵みの神としてご自身を表しなさいます。その恵みの約束は、人間の三つの感覚器官と関連しています。

1)彼らの口から出る祈りは、必ず、しかも直ちに聴かれます(19節)。「ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。」彼らの罪は、既に贖われているからです。

2)彼らの目は、教師なる主をしっかりと見ます(20節)。「たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。」この教師が主を意味することは、多くの聖書注釈者の支持するところです。文法的には、この教師は複数とも単数ともどちらにも翻訳可能なのですが、それに続く動詞が単数形ですから、わしは単数と見ます。単数ですから、文脈から言ってこれは主のことを意味します。さて、「乏しいパンとわずかな水」とは、包囲のときの苦しい生活を示唆しているのでしょう。そのような厳しい状況にも拘らず、いや、厳しい状況であるからこそ、人々は、導き手である主を見つめるようになるのです。

3)彼らの耳は、確かなる主の導きの声を聞きます(21節)。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」この教師(神)は語り給うお方です。その事実は今も昔も変わりません。問題は、私達が神の声に対して波長を併せて聞く準備をしているか、また、聞いた場合、それに聞き従う心の備えがあるかどうかという点にあります。
 
5.導きの声(21節)
 
 
主は、教師として生徒にいと近くあって道筋を示しなさいます。16節で、主がここに留まるようにと命じたのに、いや私達は馬に乗って逃げようと勝手な道に進んで痛い目にあった人々は、素直な心を持って主に従おうとします。

さて、主のみ声について、三つの特色を学びます。
 
1)どこでも
 
 
「あなたが右に行くにも左に行くにも」―――特別に大きな選択を迫られた時だけではなく、日常生活のあらゆる場面に私達は導きを必要としています。そして主は語っておられます。
 
2)明確に
 
 
「これが道だ。これに歩め。」―――私達が我を通そうとすると、主は許容的な御心の故にそれを許しなさることがありますが、その時に必ず、良心の警報装置が働くものです。ダビデが人口調査を命じた時がそうでした。サタンの唆しに乗ってイスラエルの人口調査を強行したダビデは、その愚かさを悟って、良心の痛みを感じ、悔い改めをいたします。主は、「最善は最善」と、はっきり示しなさるのです。最善以外については、それを許しなさったとしても、それは次善なのだと示しなさいます。
 
3)後ろからの声
 
 
「うしろから言うことば」―――私達の肉の耳では聞こえないことがあります。正面からではなく、後方から語りなさるところに、主の奥ゆかしさがあるように思います。これは、羊飼いが後方から群を追っていくときのフィギュアです。群が間違った方向に進もうとすると、主はこれをチェックなさいます。ある道筋のために祈っていると、それが止められるように感じるときがあります。それは聖霊のチェックです。その聖霊のチェックにどれだけ敏感に応答するかが、その人の霊性を測る尺度ともいえましょう。御言の学びを通して、ある道筋が主の最善ではないと言うことを示されることがあります。祈りの中で、これが最善と示されることがあります。主の語り掛けに敏感に反応することが私達に求められています。
 
6.主の導きに従う
 
従い易い心を (イザヤ50:4-6):
 
 
今お話しましたように、主の語り掛けをキャッチすること以上に大切な問題は、私達がどう従うかです。導きに鈍感ですと、導きそのものも捉え損ないます。導きに敏感ですと、導きの声も強くなります。先ほどのカーナビの話しですが、大事なことは、カーナビに従うことですね。あまり従わないと、カーナビが分からなくなって黙ってしまったり、表示の地図がぐるぐる回ったりとストライキを起します。イザヤは、主の僕のあり方を第一人称でこう語ります、「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず・・・」(イザヤ50:4-6)
 
聖霊によって歩むこと:
 
 
オズワルトは、この節に注を加えて「正しい方向に進ませようと引っ張ったり、叩いたりすることが必要な頑固な動物の絵の代わりに、教師がその肩口に居て、正しい道筋を歩むように必要な助言を折々に必要とするだけの生徒の姿が描かれている。これが聖霊に満たされた生涯の理想である。そこには、私達と聖霊とのコンタクトは非常に緊密であって、ちょっとした囁き程度が、私達をして彼の道に進ませるに充分である。」と言っています。
 
おわりに
 
 
この一週間、大筋の方向についても、また、小道についても、「これを歩め」との声を聞き続けましょう

そして、み声を聞いたならば、柔らかい心で従いましょう。
 
お祈りを致します。