礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年7月13日
 
「麗しい王、広がった国」
イザヤのメッセージ(24)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書33章17-22節
 
 
[中心聖句]
 
  17   あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。
(イザヤ書33章17節)

 
聖書テキスト
 
 
17 あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。18 あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。「数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。」19 あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。
20 私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。21 しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。22 まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。
 
はじめに
 
 
かなり飛び飛びになってしまいましたが、今日と来週で、イザヤ書の前半(1-39章)を終えたいと思います。
 
1.イザヤ33章の位置づけ
 
 「不信仰者の災い」の預言(28-33章)の最後:
 
 
この章は、28-33章の「不信仰者の災い」についての預言の最後に当ります。
 
 28:1、29:1、29:15、30:1、31:1 に続く呪いの宣告(33:1):
 
 
28,29,30,31章の各章は「ああ」始まっています。不信仰者の様子の一つ一つが示され、それに相応しい刑罰が宣告されています。33章の「ああ」は、破壊するもの、裏切るものに対しての呪いです。これはアッシリヤを指すと思われます。そして、彼らの齎す災いが7-9節に描写されています。「見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。」と。
 
 BC 701年のアッシリヤ軍によるユダ侵略が背景:
 
 
この描写は、BC 701年に起きた、アッシリヤ軍によるユダの町々の侵略・略奪・暴行・裏切りが背景であると考えられます。
 
 アッシリヤの裏切り・略奪(2列王18:13-17、地図参照):
 
 

アッシリヤは、セナケリブ王のもとで、中東支配を完成すべく、総力を挙げて701年に遠征を行います。その緊迫した状勢が列王記に記されていますので、引用します。「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。『私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。』そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。」(2列王18:13-17)要点を纏めますと、

@エルサレムを除くユダのすべての城は陥落した。

Aその内のラキシュがセナケリブ王の駐屯地と定められた。

Bユダの王ヒゼキヤは、セナケリブに貢物を送って、ユダから撤退してくれるようにと懇願した。そのために、神殿の宝物まで送った(ヒゼキヤは信仰深い王であったが、必ずしも信仰で一貫したわけではないことを示す)

Cセナケリブは、貢物は喜んで受け取ったが、撤退には応じないで、却ってエルサレム攻撃のためにラブシャケ将軍を派遣した(今日も、援助だけはしっかり受け取って、ちっともその条件を果たさない国がある・・・。)
 
2.ユダの守り(10-16節)
 
 神の直接的干渉:
 
 
この絶望的な状況にあって、主は、エルサレムの救いのために立ち上がってくださいます。「『今、わたしは立ち上がる。』と主は仰せられる。」のです(10節)この10節で「今」と言う言葉が3回も繰り返されていることに注目しましょう。主は、私達の祈りに答えて、「今」働いてくださるお方です。
 
 アッシリヤ軍の敗退:
 
 
「国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。」(12節)と、ユダを責める国々が滅ぼされると預言されます。これは、アッシリヤ軍の18万5千人が一夜にして滅ぼされたことによって実現しました。
 
 エルサレムの回復:
 
 
エルサレムに関しては、罪人たちが処罰をされ、義人は高められます。「罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。『私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。』正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。」(13-16節)
 
3.麗しい王と広がった国
 
 エルサレム包囲の恐ろしさが回顧される(18-19節):
 
 
イザヤは、この戦乱の世にあって、その終わりの状況を信仰によって見通しています。激しい嵐が過ぎ去った後に、嵐とは全く対照的な平和が訪れるのです。その嵐が18-19節に描かれています。「あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。『数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。』19 あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。」と。暴虐なアッシリヤ軍が、エルサレム城のやぐらを数え、占領を前提として租税を計算している恐ろしい姿が描かれています。しかも、ヘブル語とは違う異国の言葉で・・・。しかし、それはすべて過去のものとなりました。
 
 王の平和な姿(麗しい王):
 
 
その預言の中心人物は「麗しい王」です。時代から言いますと、王とはヒゼキヤのことと思われます。彼は、アッシリヤ軍の猛攻の間中、悲しみと苦しみを表す荒布(目の粗い麻布)を着ていました(37:1)が、戦いが終えた今、祭りの服に着替えたその麗しい姿を指しているのでしょう。尤も、この「王」に定冠詞がついていないことから、この王は一般的な王様、王である神を指す、と解釈する人もいます。私は、次の18-19節に続くユダ解放の描写から、第一義的にはヒゼキヤを指しているが、しかし、究極的にはメシア的な王を遠望するものと考えます。つまり、歴史的にはヒゼキヤを見ているのですが、その先に、王なるメシアとしてこられるイエス・キリストご自身を遠望しているのです。それは、王が救い主であるという22節の表現と一致します。
 
 回復された領土(広げられた国):
 
 
先ほど説明しましたように、この時ユダの国はアッシリヤ軍の圧倒的な存在の故にすべての城砦が占領され、残ったのは首都エルサレムだけでした。それが、主の特別な奇跡的ご干渉の故に救われ、更にアッシリヤ軍の主力が滅ぼされ、残りの軍勢もほうほうの態で故国に逃げ帰りました。つまり、ユダ国の領土は回復され、見渡す限りはためいていたアッシリヤの旗は全く影を潜めてしまったのです。「遠く広い国」が見渡せるようになりました。
 
 平和な首都:
 
 
主は、エルサレムを(奇跡的方法をもって)守ってくださったのです。「私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。」(20節)と。さらに、主の臨在が約束されています。「しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」(21-22節)
 
4.メシアの国を遠望する
 
 
イザヤが見ている幻は、第一義的には近未来的なものなのですが、そのずっと先に、メシアが統べ治める遠く広い支配を示しています。
 
 主は王である(詩篇47:2):
 
 
旧約聖書で、神は王として描かれています。「まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。」(詩篇47:2、その他多数の箇所、この章の22節にも)主は、王として全世界を治めておられます。イエス・キリストは、「王として生まれなさった」お方でした。
 
 聖さと言う衣(詩篇93:5):
 
 
しかも、主は、聖さという衣を身に纏っておられます。「主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。」そのような主を礼拝するものに相応しいのは、主と同じ聖さという衣です。「聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。」(詩篇93:5)
 
 全世界的支配=世界宣教(詩篇2:8):
 
 
そしてその支配は、この全地であり、すべての国々は神の副王として働かれるメシアに与えられるのです。「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」(詩篇2:8) 世界全部をその領土とするという雄大な発想は、この旧約の時代にもありました。とするならば、新約聖書を与えられ、全世界を巡ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよと語られている私達は、もっと大きなスケールの見方をもって世界を見、世界に福音が広がるように祈るべきではないでしょうか。

近代宣教の父といわれるウィリアム・カーレイは、靴屋の仕事をしながらも仕事場の壁に世界地図を貼り、トンテンカントンテンカンと靴を直しながら、世界のために祈り続けました。彼が世界宣教のビジョンを語ったとき、教会の先輩は、「カーレイ君、座り給え。神は偉大であるから、君や私の助けを借りなくても、異教徒に福音を宣べ伝える手段を持っておられるのだ。」とカーレイを叱りました。しかし、カーレイはそれにもめげず、祈り続け、とうとう自ら宣教師となってインドに渡りました。1792年のことです。カーレイは、遠く広い国を見ていたのです。
 
おわりに
 
1.私達は、聖さを身に纏われた全地の王なる主を仰ぎましょう
 
 
現実の小さな課題にあまりにも多くの関心が集中し過ぎてしまっていて、そのすべての上におられる主を忘れたような生活をしてしまっていないでしょうか。イザヤは戦乱の只中で、しかも、国が滅びるかもしれないという危機にあって、その勝利を確信させられるような王なる主の幻を見ました。私達も、現状の厳しさに埋没してしまうことなく、主の姿を見続けるものとなりたいものです。さらに、今その前に膝を屈め、血潮によって清められた聖めの服を着て、主を礼拝しましょう。
 
2.それと同時に、私達のために広げられた国々を見ましょう
 
 
それは、キリストの福音を待っている国、私達の助けを必要としている国々です。また、これらの方々が主を受け入れるように労し、祈り続けましょう。先週私達は、ケニアよりの使者を通して、彼の地でなされている素晴らしい働きを眼にしました。私達の視野を、神の視野に従って、遠く広いものとさせて頂きましょう。
 
お祈りを致します。