礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年7月20日
 
「聖名のために祈る」
イザヤのメッセージ(25)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書37章14−20節
 
 
[中心聖句]
 
  20   私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。
(イザヤ書37章20節)

 
聖書テキスト
 
 
14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。15 ヒゼキヤは主に(の前で)祈って言った。16 「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。17 主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。18 主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。19 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。20 私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」
 
はじめに
 
 
イザヤ36−39章は、歴史的な記録です。36−37章はアッシリヤ軍の脅威からの救い、38−39章はヒゼキヤの病の癒しがテーマです。しかし、それは単なるエピソードではありません。前者は、イザヤの1−35章のメッセージの仕上げですし、後者は、40−66章のバビロン捕囚からの救いの前奏曲という意味を持っています。
 
A.ヒゼキヤの危機
 
1.セナケリブ、ユダを侵攻(36:1、BC701)
 
 

セナケリブはサルゴン3世の後を受けてBC705年にアッシリヤ王として即位しました。サルゴン3世の末期には、帝国のあちこちに綻びが出てきました。東ではメロダク・バラダンが率いるバビロンが頭を擡げ、西ではパレスチナが反乱を試みていました。セナケリブは、先ずバビロンを破り、それから総力を挙げてパレスチナ遠征を行います。先ずユダの城町46箇所を瞬く間に占領、エルサレムの南西ラキシュに駐屯します。この時エジプトがユダとの同盟条約の義務を果たすために形だけの出兵をしますが、アッシリヤの反撃に遭ってあっさり退却します。セナケリブは、遠征の仕上げとして最後の砦エルサレムを攻略しようとします。アッシリヤの碑文によると<私はヒゼキヤを鳥かごの鳥のように閉じ込めた>のです。
 
2.ヒゼキヤは恭順を示す(U列王18:14−16)
 
 

さて、ヒゼキヤ王の側を見ましょう。彼の即位は726年で、25歳の時でしたから、これは、50歳頃の出来事です。(36:1に「ヒゼキヤの第14年」と記されているのは、36章の出来事ではなく、38章の出来事に付くものと考えられます)。ヒゼキヤはイザヤの教えに従って、主に対して誠実であり、宗教的腐敗に対しては妥協なき改革を行い、外交的には神に頼りつつ武装中立、軍備増強と守備の補強を行うなど、偉大な業績をもって知られた善王でした。このようにヒゼキヤは信仰の人でしたが、徹底した信仰的態度を貫いたのではなく、セナケリブに対して卑屈とも見える恭順を示して、軍隊を引き上げるようにと懇願します。U列王18:14−16に「ユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。『私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。』そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀・・・ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。」と記されています。これは、サタンに対して、攻撃を緩めてくれと懇願するくらい卑屈な行動です。でも、ヒゼキヤも人間であったという正直な記録として大切なものです。戦争中の教会指導者が軍部に迎合したという反省を聞きます。本人が反省することは尊いことですが、その状況を体験しなかった者が軽々に批判することはできません。閑話休題。
 
3.ラブ・シャケ、エルサレムを包囲 (36:4−20)
 
 
ラブ・シャケとは、アッシリヤ語で将軍という意味です。セナケリブは、ヒゼキヤから品物は受けたが撤退はせず、将軍ラブ・シャケを送り、エルサレムを包囲させたのです。難攻不落のエルサレムを攻撃して、徒に味方の損害を大きくすることを好まなかったラブ・シャケは、巧みな弁舌をもってヒゼキヤに降伏を促します。まあ、よくここまで意地悪な言葉が出てくるものよ、と思えるほど天才的な誹謗中傷を行います。その要点は以下の5つです:

@エジプトに頼るな:
エジプトは頼りない(これは当っています)。

A主(ヤハウェ)にもより頼むな:
どの神々も、アッシリヤ王の手から国民を救わなかったではないか(これは、大変な冒涜です。しかも、ラブ・シャケがイザヤ預言を熟知していたとは驚くべきことです。敵は信仰者を攻撃するとき、良く教会の教えを学んで、それを攻撃材料に使うものです)。

Bその主が、アッシリヤ軍を遣わした:
主がユダ国を滅ぼすためにアッシリヤ軍を遣わした(大変な矛盾!)。

Cヒゼキヤを信頼するな:
彼はいい加減な指導者だから、信頼するな(これは巧妙な離間作戦)。

D降伏すれば、幸福な生活が出来る:
降伏は幸福に繋がる(これも大嘘です。アッシリヤは被占領民族を強制移住させるのが通例でした。そこを隠しているのです。苦い薬を糖衣錠にしているようなものです)。
 
4.ヒゼキヤの沈黙(1−6節)
 
 
このような悪意に満ちたプロパガンダに対する最大の武器は、完全な沈黙です。理性を持たない悪意の中傷者に答えるのは愚かだと箴言にも記されています。「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。」(箴言26:4)とあります。

@ヒゼキヤは、イザヤの祈りを乞う(1−4節):
ヒゼキヤは、沈黙を守る一方、イザヤに使いを送り、ラブシャケの暴言を報告し、祈りを乞うのです。大きな問題にぶつかった時、祈っていただく友、教師を持っている人は幸いです。

Aイザヤは、勝利の約束で励ます(6−7節):
アッシリヤは直ちに撤退して、国へ帰ると預言するのです。
 
5.ティルハカ、セナケリブを牽制(9節)
 
 

そのころ、エチオピアのティルハカ王がセナケリブを背後から脅かします(9節)。このころエチオピアはエジプト支配の一角を占めていましたから、エジプトと一体行動と見てよいと思います。パレスチナに長居しているアッシリヤ軍をヒゼキヤと組んで挟み撃ちしようとする(本気ではないとしても)ジェスチャーでした。
 
6.セナケリブの最後通牒
 
 

@セナケリブ、リブナに転進 (8節):
その頃、セナケリブはラキシュからリブナに転進していました。理由は分かりませんが、エチオピアの進軍と無関係ではなかったことでしょう。

Aラブ・シャケ、セナケリブと会談 (8節):
エチオピアの軍勢が攻めてくるというニュースで動揺したアッシリヤ軍を立て直すために、セナケリブがいるリブナで会談します。エルサレム攻略を早期に片付けることが彼らの会談の課題でした。

Bセナケリブは「最後通牒」をヒゼキヤに送る(10−13節):
セナケリブがリブナへ転進したことが撤退と間違われないために、セナケリブはヒゼキヤに最後通牒を送ります。内容は、ラブ・シャケが神に頼ろうとしたヒゼキヤを馬鹿にした内容です。彼は、イスラエルの神を愚弄し、滅亡された国々の神々と活ける主を同列において、主の無力さを指摘し、そして、ヒゼキヤに降伏を迫りました。「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。私の先祖たちはゴザン、カラン、レツェフ、および、テラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々が彼らを救い出したのか。ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、また、ヘナやイワの王は、どこにいるか。』」(10−13節)と。
 
B.ヒゼキヤの祈り
 
 
ヒゼキヤは、一旦ラブ・シャケの退却で心が緩んだところへ再度の脅威が訪れたので、その緊張感は大きなものであったことでしょう。その絶体絶命のピンチにおいて真剣な祈りを捧げます。その祈りを学びつつ、さらに、祈り一般について、教えられることを捕らえたいと思います。
 
1.課題の把握:セナケリブの手紙を広げて祈った(14節)
 
 
ヒゼキヤは、神殿に行き、聖所の入り口の広場で、その手紙を広げて祈ったのです。別に広げなくても、神は全部ご存知だから、構わないではないか、というのは観察者の思考です。ヒゼキヤは、自分が直面している現実のすべての課題をありのまま提出したのです。また、敵の言い分を神に突きつけることで主に助けを求めたのです。もっと言えば、自分の悩み、苦しみの題材をありのまま提出したのです。神様、私はこんなことで悩んでいます、困っています、くよくよしています、と正直に、包み隠さず言い表したのです。私達は如何に繕った「祈り」をささげて、適当に守られたことにして終わってしまうことでしょうか。私達は自分とその課題を包み隠さず、裸になって祈りたいとおもいます。
 
2.対象の把握:全能の神を捉えて祈った(15−16節)
 
 
ヒゼキヤは、唯一の支配者、創造者なる神に眼を据えて、その干渉を祈りました。セナケリブの手紙は、活ける真の神を嘲っているものだったと先ほど話しました。ですからこそ、ヒゼキヤが祈る時、活ける真の神にしっかり眼をすえたのです。彼は、神は王であり、創造主であると捉えました。しかも、その創造者であり王である偉大な神が、イスラエルの神としていと近くにおられると捉えました。ケルビムとは、契約の箱の上に翼を広げている天使像のことです。契約の箱とは、神の臨在の象徴です。ヒゼキヤは、神を近くにおられる主、インマヌエルと捉えたのです。
 
3.内容の把握:真っ直ぐで、大胆な要求(17−20節a)
 
 
ヒゼキヤは、苦境にいる国民を救ってほしいという祈りを捧げました。それは、真っ直ぐで、大胆な要求でした。確かに、大国アッシリヤが他の国々を滅ぼし、その神々を火で焼いたのは事実でした。人間的に見れば、ユダは風前の灯でした。しかし、ヒゼキヤは、神がそのような神々と同列のお方ではなく、地のはるか高いところにおられることを救いによって示してくださる、と確信していたのです。
 
4.目的の把握:神の聖名のために祈った(20節b)
 
 
ヒゼキヤの祈りは、自分中心的な祈りではなく、神の聖名を慮る祈りでした。主が唯一の神であることが世界中に知られるようにとの目的を持った祈りでした。ですから、強かったのです。この祈りならば答えられると言う確信を持ったのです。私達の祈りは、自分の幸福、安全、救いが究極である場合が多いものです。しかし、ヒゼキヤの祈りにならって、私達も、聖名が汚されぬように願い、聖名が崇められることを切に願っての祈りを捧げたいものです。
 
C.祈りの答え
 
1.イザヤは、祈りの答えを保証した(22−35節)
 
 
ヒゼキヤの祈りは、彼が祈った以上の効果と速やかさをもって答えられることが約束されました。
 
2.祈りは奇跡的に答えられた(36−38節)
 
 
実際に、この祈りの直後、アッシリヤ軍の内、18万5千人の兵士が一晩にして滅ぼされました。さらに、その時から20年後、セナケリブが暗殺され、エサルハドンが新しい王となりました(BC681年)。

このように、信仰の祈りは、この世の厳しい人生の現実を乗り越える実践的な道です。
 
終わりに
 
 
私達は、多くの祈りの課題を持っています。それを正直にありのまま、主の前に提出することはとても大切です。もう一歩、その祈りが何のために答えられることを期待しているのかを考えて祈りましょう。自分が苦しみから救われたい、自分が幸福でありたい、それは悪いことではありません。しかし、主キリストは「主の祈り」の中で、聖名が崇められること、御国が来ること、御心が地で行われることを第一に祈れと語られました。その祈りの原点に立って、一つ一つの課題のために祈り、祈り続けましょう。そして、答えが与えられる時、本当に主の聖名が賛美されるのです。
 
お祈りを致します。