礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年7月27日
 
「祈りのシンフォニー」
プレイヤーフェロシップデーに因み
 
竿代 照夫牧師
 
マタイの福音書18章15−20節
 
 
[中心聖句]
 
  19   あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
(マタイ18章19節)

 
聖書テキスト
 
 
15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
 
プレヤーフェロシップデーの歴史と意義
 
 
この教会でプレヤーフェロシップデー(PFD)を始めたのは、2000年の7月、「海の日」のことです。それまで、各組会内部の交わりはありましたが、教会全体としての交わりをより強くしようという願いから、聖宣神学院講堂を借りて、一日修養会を開きました。それ以後、年々形態は変わりましたが、一貫して、「教会的な交わりと祈りの実践」というテーマは続けられてきました。一昨年からは、牧会小グループの実施と関連して、このPFDが用いられるようになりました。そのことを意識しながら、主イエスの教えを学ぶことにいたします。

今日のテキストは「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」(19節)です。ここから、「祈りのシンフォニー」という題でお話しします。一致した祈りは、父の神によって答えられるというお約束です。
 
1.「教会の権威」の延長として(18節)
 
 
先ず、この約束は孤立したものではなく、18節の約束の続きであり、また、20節で理由が説明されているという流れの中で理解されねばなりません。

15−20節は、教会における交わりを扱っています。まず、罪を犯した兄弟の回復に直接に勧告すべきことが教えられます(15-17節)。続いて、悔い改めた人を赦し、或いは悔い改めない人を懲罰する教会の権威が語られます。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(18節)。

ここで、「地上」と「天」が対比して述べられています。地上とは、私達が生きている世界のことです。天とは、神の直接的で完全な支配がなされている領域のことです。教会が、神のご支配の領域に関わる権威を与えられていることを示します。その18節の思想を継いでいるのが19節です。その地上における一致した祈りが、天のみ父の喜び給うところである、と教えられています。
 
2.集まることから始まる(20節)
 
 
19節の続きの20節を見ましょう。ここで「ふたりでも三人でも」としるされているのは、19節の「あなたがたのうちふたり」という言葉と繋がっています。これらは、教会の交わりの最小単位を示します。二人とか三人でなければならないという意味ではありません。「最小単位の二人であっても」という意味です。ですから、大勢で心を合わせて祈ることは、もっと祈りに力を与えることでしょう。

この教会的交わりの尊さは20節でより良く説明されます。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

この節は、「なぜなら」(ガール)から始まっています。つまり、20節は19節の解説なのです。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」という約束は、「心を一つにしての祈り」の基礎が主にある交わりであることを示します。

@聖名を崇めるために集まる:
「わたしの名において」とは、文字通りには「聖名に向けて」(エイス ト エモン オノマ)です。つまり、キリスト教という看板を掲げて何となく集まるのではなく、イエスを主として崇めるために集まることです。イエスへの愛をもって、イエスと一つとなることを求めて、また、イエスの栄光を表すことを求めて集まるときに臨在が約束されるのです。

A集まることが恵み:
19節は「ふたり」、20節は「二、三人」と記しています。数が問題ではありません。1人を超えた交わりが大切ということが言われています。炭はひとつでは燃えません。互いに寄り合ってはじめて燃えるのです。クリスチャンもそうです。交わりは、私達に力と熱を与えます。初代教会にとって、あらゆる機会に集まることが彼らの習慣であり、教会の特徴でもありました。「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:24−25)

B主の格別な臨在がそこにある:
その場所に主は共におられると約束されます。今は、復活の主が、共におられるのです(マタイ28:20)。特に、聖餐のテーブルにおいて、贖い主としてご自分を示し給うのです。
 
3.心をひとつにするとは(絵図参照)
 
 
「一つにして」という言葉は、スュムフォーネオー(共に和音を出す、to sound together, to be in unison, accord of musical instruments)で、この言葉からシンフォニー(交響楽)という言葉が生まれました。このことから、単に音程をひとつにすること以上に、一致する(使徒15:15)合意するという、深い、内的な一致を指すようになりました。

私は、高校時代にオーケストラでフレンチホルンを吹いていました。演奏もさることながら練習でも一番大切なのは、音合わせです。クラリネットがA(ラ)の音を出すと、皆がそれに合わせて調節します。温度とか、弦の張り具合で音の高さは微妙に変わってきますから、折々に音合わせをしなければ、ハーモニーは保てません。それと同じで、祈りもハーモニーが必要なのです。

「どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら」(If two of you on earth agree about anything you ask for …)というのは、彼らが祈る内容において一致するなら、ということです。祈る前に、何を祈ろうか、という互いの話し合いの一致を指します。祈る方向、内容、その動機付けの一致を指します。

それを齎す要素は何か、と言いますと

@主への愛と献身:
目的をひとつにすることが第一です。主を愛し、主の栄光を表すことが信仰者の共通の動機のはずです。これがある限り、私達の方向が大きく離れることはありえません。

A相互理解:
分かち合いによって互いが互いを理解することが大切です。このためには心を開き、正直になることが必要です。自分の欠点や問題点をさらけ出す勇気が必要です。

B聖霊への信頼:
私達はどのように祈るべきか分かりませんが、聖霊は私達の心を知り、父なる神の御心を知って、私達の祈りを正しい方向に導いてくださいます。

祈りの課題は、「何でも」とあります。無制限に「何でも」でしょうか。そうではないでしょう。自分の野心、わがままがここに含まれるとは思いません。大体そのような祈りの課題では、祈りの相棒が賛同するはずがないからです。主の御心に適い(Tヨハネ5:14)、祈るものにとって、祈られるものにとって最善である目標が祈られる祈りであり、答えられる祈りです。
 
4.一致を妨げるもの
 
 
実際問題として、教会にあって難しいのは、この一致です。それを妨げる要素をいくつか挙げることができます。

@無関心:
互いが互いに対して余り関心を示さない、或いは、干渉して欲しくない、干渉したくもないという態度です。私は礼拝という式に静かに加わって、静かに帰りたい、それ以上は期待しない、という方もあります。生涯のある段階で、それはそれで良いでしょう。しかし、一生涯そのようでは寂しいですね。人間は互いの関わりの中に生きている生き物です。まして、私達はキリストの血潮によって贖われた兄弟姉妹なのです。互いに分かち合い、互いに助け合うのが自然です。聖書は、この「互い」性について、数多く教えています。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」(Tコリント12:25)「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。」(Tテサロニケ4:9) 

Aプライド:
一致を妨げているもう一つの要素は、自分を飾ろうとするプライドです。プライドがありますと、正直になれません。上手に自分を繕ってしまいます。本当の交わりは、自分のプライドを捨て、成功物語的な証ばかりではなく、失敗の経験も含めて、正直に自分を表すことから始まります。

B赦せない心:
主の前に出る時に、兄弟同士、赦せないという気持ちを持ったままでは祈りは聞かれません。主は言われました、「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:24−25)と。 
 
5.一致の祈りを主は喜び給う
 
 
まず、主は、私達が心を一つにしていることをお喜びになります。教会が本当に一つになって祈る時、主はそれを喜び、そしてその願いを叶えてくださいます。反対に、一人ひとりは熱心でも、全体として不協和音を出しながら、一人ひとりが熱心に祈っても、主は喜び給いません。

私達が、心を一つにして祈る時、どんな小さなことでも、大きなことでも、主は聞いていてくださり、責任を持って応答してくださるお方です。主イエスが昇天された後、弟子達は聖霊に満たされることを求めて祈り始めました。その祈りは、「心を合わせ、祈りに専念していた」(使徒1:14)という一致した心の祈り会でした。その中で、和解がなされ、互いの赦しがなされたことでしょう。その祈りが爆発点に達した時、ペンテコステの恵みが与えられました。色々な祈りの課題があると思いますが、私は日本の救いとリバイバルは最大の課題と思います。このために心を合わせて祈り続けましょう。
 
終わりに
 
 
私達は、今日この交わりと祈りを小さなグループで実践したいと思います。先ずお互いに心を開いて自らの願い、課題を紹介し合い、御言に聞き、互いの願いを聞きあい、そして、主の前に心を一つにして祈りたいと思います。具体的なグループ分けは、後で説明されますが、どんなグループでも、主の名によって集まると、そこはミニ教会なのです。その恵みを先ず今日の午後経験しましょう。

家庭では(信仰者が居れば)祈りあうことを始めましょう。そして、今週、その共に祈る力と恵みを経験しながら歩み続けましょう。

祈祷会の大切さを再認識しましょう。祈祷会は、正に主の聖名のために集まる集いであり、心を一つに神に祈る祈りの道場であります。色々な隘路を乗り越えて祈祷会を愛し、祈祷会に集う教会とさせていただきましょう。
 
お祈りを致します。