礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年8月3日
 
「壁に向かって祈る」
イザヤのメッセージ(26)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書38章1−8節
 
 
[中心聖句]
 
  2   そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。『ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。』こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
(イザヤ書38章2節)

 
聖書テキスト
 
 
1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」
2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、3 言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
4 そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。5 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。6 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』7 これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。8 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。
 
1.38章の歴史的背景
 
1)年代の推定
 
 

・ユダのヒゼキヤ王の死(695年)より少なくも15年前:
38章で、ヒゼキヤは病の癒しの後、少なくとも15年は生きた(5節)と記されています。彼の死はBC697年ですから、38章の出来事は712年以前といわねばなりません。

・バビロンの王メロダク・バラダンの活躍期(722−710年):
さらに39章に登場するバビロンの王メロダク・バラダンの活躍時期は722−710年ですから、710年よりは前ということになります。

・ヒゼキヤ治世の14年(712年):
こう考えますと、36:1の、「ヒゼキヤ王の第14年(712年)」という年号は、38章の出来事を指すものと思われます。
 
2)36−37章(701年)が38−39章(712年)に先立つ理由(絵図@参照):
 
 

それでは、701年のセナケリブ来襲が先に記録され、712年のヒゼキヤの病からの癒しが後に記録されるという不自然がなぜ行われたのでしょうか。これは、イザヤ書編集上の意図があったと考えられます。つまり、イザヤの時代に、暴風雨のように圧倒的な力をもって押し寄せてきたアッシリヤ帝国の脅威に対して信仰を持ってそれに抵抗すべきことを説いたのがイザヤ書前半(1-35章)とすると、36-37章は、そのクライマックスを飾るに相応しいエピソードでした。そして、病気見舞いを口実にエルサレムをスパイしたバビロンの使いの記事(39章)は、将来起きるバビロン捕囚を主要テーマとする後半部分(40-66章)への序曲にふさわしいエピソードでした。
 
2.ヒゼキヤの病
 
 
・病気(腫物):
さて、712年といえば、ヒゼキヤは38歳の働き盛りです。北イスラエルが滅ぼされたのが721年ですから、彼が小国ユダの存亡をかけて国を強化していた頃です。ちょうどその頃、ヒゼキヤは重い病気にかかりました。腫れ物がひどくなって来たのです。

・死の宣告:
主は、イザヤを通して死を宣告されます。それは確定的な宣告で「あなたの家を整理せよ(Put your house in order. Give charge to your household.)。あなたは死ぬ。直らない。」と丁寧に三重の宣告を受けるのです。勿論、実際的にはこんなぶっきらぼうな言い方ではなく、「王様、大変申し上げにくいことではありますが、あなたの病は大変重く、近々召されることが御心と示されました。ですから、後継者のこと、王様のやりかけた事業のこと、一つひとつ整理なさることが今のお仕事と存じます。」と丁寧に言ったことでしょう。しかし内容は厳しいものでした。

・死に備えよ:
さて私達が、この話しを他人事として聞かないで、自分のこととして考えたいと思います。仮に、私が〇〇という病気に罹り、余命3ヶ月と宣告されたとしましょう。私は何を考え、何を整理し、どうやってその3ヶ月を過ごすことでしょうか。願うことは、いつでも整理した状態でありたいと思うことです。持ち物に関しては遺族が目を覆いたくなるようなガラクタの山、経済関係は公私混同で記録もなし、人間関係についてもあちこちに迷惑をかけっぱなし、ということではどうにもなりません。江戸時代の武士は、いつ死んでも笑われないように下着まできちんとすることを努めたといわれていますが、私達クリスチャンは況して、いつ召されても良いように、身の回りの整理に努めたいと思います。
 
3.ヒゼキヤの祈り
 
 
・壁に向かって祈る(絵図A参照):
ヒゼキヤに戻ります。彼は、整理することを拒んだのではなく、今死ぬべしという時間を巡って、神と直談判を行います。それが彼の祈りとなってきます。「壁に向かって祈った」というのは、ベッドサイドの壁のことでしょう。他人の見舞いや行動に妨げられずに、集中して神に向き合うためだったかも知れません。或いは、自分の動揺や涙を見られたくないと思って、周りの人々から背を向ける仕草だったかもしれません。どちらにしても、彼の祈りは真剣・深刻・切実なものでありました。

@ユダは危機にある:ユダ国の危急存亡の時にあって、ヒゼキヤは、国を守り、敵と戦うために命を懸けていました。彼が死んでしまえば、ユダはたちまちアッシリヤに飲み込まれてしまうと考えるのは当然です。

A世継ぎがない:そのころ、ヒゼキヤには世継ぎがありませんでした。というのは、次の王であるマナセが生まれたのは709年だったからです。今ヒゼキヤが死んでしまえば、ダビデ王朝はそこで絶えてしまうことになるのです。

B自分は真実に仕えた:ヒゼキヤは、一生懸命主に仕えてきました。その真実さを評価して、祈りを聞いてくださいと言っています。これは自分の功績を誇ってそれを祈りの答えの基礎として神とバーゲンしているのではありません。主に仕えようという動機の一貫性は主張していますが、自分の行動の完璧さを誇っているのでもありません。しかし、自分が真実であったそれ以上に、主は真実であられるし、それを病の癒しとして表して欲しい。それは、先祖ダビデに語られたお約束への忠実さの証であろう(2列王20:6)と信じていたのです。

C死後に賛美はできない:自分が主を誉め称えるのは、肉体の生を与えられているときだけであり、黄泉に降ったら、主を賛美することはなくなると彼は考えました。この思想は、ダビデが病にかかった時の祈りと共通です(詩篇30:9)。復活の希望を与えられている私達クリスチャンは、死後の世界について豊かな啓示が与えられ、彼の世においてなすべき賛美の務めがあることを知っています。しかし同時に、この地上でなければ果たすことの出来ない証の務めがあることも自覚しています。それは、神の恵みに感謝し、その感謝を通して周りの人々に神の恵みと誠実さとを証することであります。パウロは、キリストと共にある来世を待ち望みつつも、多くの人々への証と喜びのために、肉体に留まる必要を感じていました(ピリピ1:21−23)。

D今は人生の真昼:ヒゼキヤは38歳でした。人生で言えば真昼に相当します。その真昼に命を奪われるのは、生木を裂くようなものとヒゼキヤは訴えます(9−13節)。

・神のご計画と柔軟性:
いかがでしょうか。これだけ理由を挙げて、切実に真実に祈られたら、神がこれを退けなさるとは考えられません。神は私達の人生を握っておられるお方ですが、寸分たがわないコンピュータ的な正確さをもったプログラムで私達一人ひとりを動かしておられるのではなく、大きな道筋を持ちながら、しかし細目については柔軟に導いておられるように思います。ヒゼキヤに対して、病で直ぐ死ぬ、というみ告げも確かなものであり、同時に祈りに答えてその方針を変更なさったのも確かです。ここに私達が祈る可能性と意義を見出します。尤も、どんなに祈っても答えられない場合もあります。主イエスのゲッセマネの祈り、パウロが病を癒して欲しいという祈りも答えられませんでした。しかし、それは真剣に主と向き合った末に得た結論です。いい加減に祈って、だめなようだから、これは御心ではないんだと諦めるのは良くありません。どんな課題であっても、ヒゼキヤのようにしつこく、熱心に、真剣に祈りたいと思います。
 
4.主の答え
 
 
・主はヒゼキヤの祈りに感動し給う:
主は、ヒゼキヤの涙を見、祈りを聞いてくださいました。私達は時として、祈りというのは壁に向かってしゃべる私達の自己満足で、壁以上には超えていかないものと考えていないでしょうか。神は壁の向こうに居られます。そして、私達の祈りを聞き給う、私達の涙を見給う神です。壁のように動かないお方ではなく、私達の叫びと涙に感動してくださる神です。

・15年延命の約束:
主は約束を下さいました。15年の余命です。15年というのは短いでしょうか、長いでしょうか。私は、まとまった仕事をするには充分な長さと思います。その目的は、「アッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。」ためでした。主は私達にご自身のお仕事を全うするために延命なさいます。言い方を変えると、今、命があるのは、神のお仕事があるからです。勝手に縮めてはなりません。

・逆戻りした日時計:
その延命の保証として、主は一つの不思議を与えなさいます。「見よ。わたしは、アハズ(ヒゼキヤの父)の日時計(階段)におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。時計が逆走りしたというのです。この日時計がどんな形のものか、よく分かりません。ピラミッド状の階段が時を計るのに用いられていたというのが多くの人の説明です。ともかく、影が進まないで戻ったのです。オー・ヘンリーの短編に、「最後の一葉」というのがあります。肺炎にかかった画家の卵のジョンジーがベッドから見える蔦の葉が一枚ずつ落ちていくのを見て、あれが全部落ちるころ私は死ぬと思い込んでいるのです。それを知ったベールマンという売れない老人画家が、嵐の夜に、壁に一葉の蔦を描きます。ジョンジーが、何故あの一葉が落ちないんだろうと不思議に思っているうちに病気が治るという話です。これには悲しい落ちがつきます。その画を描いたベールマンが、この嵐の中で壁画を描いた作業がたたって、病気になってなくなってしまうというのです。それはさておき、時計の逆走は、ヒゼキヤの心に励ましを与えました。

・干しイチジクの効果:
この癒しのために用いられた薬は干しイチジクの塊でした。「イザヤは言った。『ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります。』」列王記第二 20:7にその続きの物語があります。「人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。」干しイチジクは、道具として用いられたに過ぎません。でも大切な道具でした。恐らく、腫れ物の毒を吸い取る作用を果たしたと思われます。私達は病気に罹ったとき、人間の知恵を用いてなされる医療行為を受けます。それすら否定するほど極端であってはなりません。しかし、それに頼りすぎて、神の働きを軽視する極端に走ってもなりません。テヌウェク病院のモットーは「We Treat, Jesus Heals (私達は治療する、しかし、本当に癒すのはイエス様だ)」というものです。真理です。
 
5.ヒゼキヤの失敗
 
 
・バビロンの「お見舞い」に隠された動機(絵図B参照):
38章は、そこで終われば、すばらしい勝利の証です。しかし現実は違いました。病を聞いたバビロン王メロダク・バラダンがお見舞いの使者を送ります。常識で考えてください。西の外れの小国ユダの王様の病気を、千キロも離れたバビロンの王様が聞きつけてお見舞いに来るのは、下心あってのことに決まっています。それは、世界を蹂躙しているアッシリヤ帝国の圧制に抵抗するために、東と西から挟み撃ちにしようという目的があったのです。

・「はしゃいでしまった」ヒゼキヤ:
病が癒された嬉しさの為か、遠方から来てくれたお見舞いのための感謝からか、或いは、「敵の敵は友」(当面の脅威はアッシリヤであり、そのアッシリヤに抵抗勢力となりつつあるバビロンは友)と考えた故か、ともかくヒゼキヤははしゃいでしまって、使節団を大歓迎いたします。今の言葉で言えば、中小企業の社長のお見舞いに、トヨタの社長さんから品物が届くほどの感激です。ヒゼキヤは感激の余り、自分達の宝物蔵の中まで皆見せてしまいます。宝物蔵を見せるとは、当時の習慣では攻守同盟を結ぶことを意味していました。

・「祈らない」行動の深刻な結果:
その結果は、バビロンに対して同盟を結ぶ利益を確認させた以上に、「いつか、この宝物を目指してエルサレムを征服しよう」という征服欲を掻き立ててしまったのです。そしてそれが、何と約130年後のバビロンによるユダ征服となるのです。これは、アッシリヤによる北イスラエルの滅亡以上の民族的悲劇であるバビロン捕囚を生みます。その原因を作ったのが、ヒゼキヤのこの愚かな行動でした。何よりも大きな失敗は、このバビロンからの使節団を迎えるに当って、ヒゼキヤが充分祈って備えなかったことです。ヒゼキヤの癒しと回復は、彼の真剣な祈りから生まれました。彼の大失敗は、祈らなかった行動から生まれました。
 
終わりに
 
 
・危機における祈りの大切さ:
私達は、危機にぶつかると必死に祈ります。危機にあって祈らない人もいますが、多くの人は祈ります。そして主はその祈りに答えなさいます。

・いつでも祈ることは、もっと大切:
しかし危機における祈りよりももっと大切なのは平時の祈りです。危機にぶつかって感じる人間の弱さ、愚かさというものを、私達はいつでも持っているのです。平時には、それを余り自覚しないで生きているという違いはありますが・・・。「エマオの道」の8月1日分の中で、キンロー博士がこう語っておられます、「私達の多くは、問題の解決を求めて祈ります。直面する課題が祈る動機付けとなっているのです。しかし神の民として歩んでいれば、問題のあるなしに拘わらず祈るはずです。・・・人が神の臨在のうちに充分な時を費やすなら、課題は背後に消え去っていき、神の偉大さが次第に大きくなります。」私達は、いつでも、どこでも、祈るものでありたいと思います(Tテサロニケ5:17)。
 
お祈りを致します。