礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年8月10日
 
「主を待ち望む」
イザヤのメッセージ(27)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書40章27−31節
 
 
[中心聖句]
 
  31   主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
(イザヤ書40章31節)

 
聖書テキスト
 
 
27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
 
1.イザヤ書後半部分(40−66章)
 
 
・前半(1−39章):イザヤ時代のメッセージ:
1−39章は、イザヤが生きていたBC8世紀後半という歴史的背景の中で、その時代に向けられたメッセージが集められています。

・後半(40−66章):(170年後の)捕囚からの釈放:
それに比べて、40−66章は、その170年後に起きたバビロン捕囚からの釈放をテーマとした預言です。

*後半の著者は「第二(偽の)イザヤ」か?:
前半と後半のテーマや背景の違いから、40章以下の著者は、イザヤと自称する別人(第二イザヤ、または偽イザヤ)が書いたものだという主張はかなり強く、そして広くなされてきました。しかし、イザヤ書を二分(または三分)する文献的な証拠がひとつもないこと(紀元前1世紀以前に作成されたと言われる死海写本のイザヤ書では、39:8と40:1は同じページで繋がっています。その頃、39章までの前半と40章以下の後半が二つ別物という意識がなかったことを示唆しています)、ユダヤ人の伝承も、さらに主イエスも、そして初代教会もこれを一体と考えていたこと、から、私はイザヤ書を一体と考えます。さらに、40:1の「慰めよ」との預言は、39:8のバビロン捕囚の予告を受けて、そこからの釈放を指していることからも、両者は分かちがたく繋がっていることが分かります。
 
2.40章は、釈放のファンファーレで始まる(1−11節)
 
 
40章は後半部分の序曲であり、その主題は「神は全宇宙の唯一の支配者である」(12−26節)、「その神は釈放のために働き給う」(1−11、27−31節)という点です。

・慰めの宣言(特に、1-2節):
釈放のメッセージは、慰めの宣言から始まります。「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼び。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」これは捕囚からの釈放宣言です。その労苦(懲役)は終わった、咎は贖いの故に帳消しとなった、という宣言です。

・「備えよ」とのことば(特に、3節):
釈放のための道備えが命じられます。

・来るべきメシアの統治と恵み(特に、10-12節):
来るべきメシアの力強い統治、豊かな恵み、そしてその羊飼い的なケアが述べられます。これは、ヘンデルの「メサイア」の中でも一番優雅で、心を打つ旋律で取り上げられています。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。・・・主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」
 
3. 神の偉大さ:釈放の約束を保証(12-31節)
 
 
12-31節は、それまでの素晴らしい約束を保証するお方として、創造者の偉大さが全宇宙的な規模でデモンストレートされます。

1)主権者、創造者(12-14節)
2)諸国民の支配者(15-17節)
3)主のみが神 (18-20節)
4)全宇宙の支配者(21-26節)
5)神の民は、この神に強められる (27-31節)
 
4.イスラエルの不満(27節)
 
 
問題は、今まで述べてきたような偉大な神が偕におられるのに、自分達は忘れられている、神は自分たちの訴えを無視しておられる、自分達は弱いと落ち込んでいるところです。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴え(justice)は、私の神に見過ごしにされている。」つまり、偉大な神と自分達の現実が結びついていないところに問題がありました。長くクリスチャン生活を送っている人々は、頭では、神は全能・全世界の支配者・正義のお方と分かっていても、不条理がまかり通り、正しい者達が苦しい目に遭っている現実を見ると、神は生きておられるのか、私達を本当に見ておられるのか、神は裁きを行い給うのか、疑問に思ってしまうことはないでしょうか。
 
5.神の無限の力(28−29節)
 
 
しかし、イスラエルが忘れられているのではなく、彼らが忘れていることがあるのです。それは、神は世界・宇宙の創造者として君臨しておられるだけでなく、私達の人生の微細な点に至るまでの弱さ、悩み、課題の直ぐそばに折られるお方だということです。神はご自身が力強いお方であるだけではなく、その力を私達に分け与えてくださるお方です。主は、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけ」なさいます。つまり、弱さを自覚し、告白し、主により頼む者に力が与えられるのです。
 
6.主を待ち望むものへの約束(30−31節)
 
 
・若者さえも疲れる:
「(平均的な)若者も疲れ、たゆみ、(選ばれた選手のような)若い男もつまずき倒れます。」これは、人間の力の弱さ、儚さ、限界を示します。選ばれた人々でもそうならば、まして平均的な人間はもっとだめだといっているのです。若者がそうならば、まして高年齢の者達は、走るのもままならず、歩いては疲れるのが実感ではないでしょうか。気候的に言っても、特に地球温暖化のためか、年々夏が耐え難くなっていくように思えます。

・主を待ち望むことが、主の力を頂く条件:
しかし、「永遠の神、地の果てまで創造された方、疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れず、疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」主を仰いでいる私達には、自然が与える以上の活力・気力・体力が与えられます。私達がそのような新しく力を頂く唯一の条件(カギ)は、「主を待ち望む」ことです。

・「待ち望む」とは「物を掴もうとして体を捩る」こと:
「待ち望む」という動詞はQVH(クァーヴァー)で、元々の意味は、物を掴もうとして体を捩る動作のことです。そこから、「熱心に期待する」、「待つ」、「待ち続ける」という意味で使われるようになりました。主を待ち望むとは、少なくとも次の三つの事柄を含む心の所作です。

@人間により頼まないこと:自分自身にも、また他の人々にも、力の源泉がないことを率直に、しかも徹底的に認めることです。幾分かでも自分に頼るものがあるという意識がありますと、主を待ち望むといっても、それは自分の力を補完すると程度になってしまいます。私達の力も知恵も救いも、すべて主からだけ与えられるという信仰の原点を確認したいものです。主のみが力の源泉であることを認めましょう。特に健康について、私達は、「外なる人は、日々に衰える」ものであることを頷きつつ日々を歩みたいものです。

A主にだけより頼むこと:主には豊かな力と癒しと救いがあるということを認め、告白し、お頼りしたいものです。それも、頭で頷くのではなく、心から、完全に主により頼むことです。「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(詩篇36:9)

B主に期待し続けること:その信仰の告白と祈りが、直ちに何らかの効果を生まなかったとしても、それに一喜一憂しないで、静かに主の最善と全能を信じ、主のご計画の素晴らしさを確信して、ご計画の成就を待ち続けることが大切です。最善のときに主が働き出給うと信じ、委ねきることです。

・天的な力が注がれる:
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」力の更新とは、力が別次元から与えられることです。一時的にリポビタンAを飲んで元気を回復するのではなく、永遠なる神に繋がって、神の力を直に頂くことです。その時、私達の力が、神の力によって更新されるのです。その時私達は私のように翼を張って飛ぶことが出来ます。勿論文字通りの飛翔ではなく、自由闊達さ、大いなる可能性を示します。蛇足ながら、私は暫く前までしばしば空を飛ぶ夢を見ましたが、最近体重が増えたためか、ビジョンが小さくなったせいか、空飛ぶ夢を殆ど見なくなりました。淋しいと思っています。閑話休題。空を飛ぶだけではなく、走っても、歩いても疲れない。オリンピック選手が、是非その秘訣を聞きたくなるような素晴らしい神の業です。
 
7.エリック・リデルの説教と実践
 
 
さて、そのオリンピックが昨日から北京で始まりました。オリンピックに因み、また、イザヤ書40章に因んだ物語を持って、今日の説教を締めくくります。

イザヤ40章は、1924年のパリ・オリンピックで、四百メートルで優勝したエリック・リデルが、オリンピック期間中の聖日礼拝で説教をしたときのテキストでした。エリックが、聖日遵守を理由に百メートルの予選を棄権したその聖日、彼はパリ中心部のスコットランド長老教会の礼拝で説教を致しました。長老教会特有の十数段の踏み段をのぼって、高い説教壇に立ったエリックは、落ち着いた声で聖書朗読を始めました。彼が朗読をしている最中にも、競技はどんどん進み、勝って喜ぶ選手もあり、敗れて疲労感に苛まれている選手も続出していました。それらを想像しながらエリックは宣言しました「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

エリックは、数日後四百メートルの決勝に出場しますが、周りの選手達は彼に注目しませんでした。彼が四百のためには訓練をされていなかったからです。彼の走法はスムーズとは言い難い、野生の馬のような荒っぽい型破りなものでした。前半の二百で力を使い果たして、後半はばててしまうと思われていました。実際、エリックは前半を全速力で駆け続けトップを保ちます。

いよいよ後半に入りました。「そのとき、エリックの頭がうしろに倒れた。力がこんこんと湧きでているときに見せる、エリック独特のランニング・ポーズだった。これまでより、いっそうスピードが加わった。走りながら流れ込む空気を吸うように口を開け、力をふりしぼるように両腕を振った。ますますペースが速くなった。」(「炎のランナー」より)序ながら、その時の優勝記録は47秒6で、その後20年間破られなかったそうです。
 
おわりに
 
 
私達も、エリックのように主を待ち望むことを覚えましょう。いつでも天を仰ぎ、こんこんと湧き出る主の力に満たされて、信仰の馳場を全うしたいものです。

アンドリュー・マーレーは、「神を待ち望め」という本の中で、祈りの大切さと、祈りの中に主を待ち望むことの恵みを強調しています。「神に対する待ち望みは、主として祈りの内に遂行されなければなりません。もし私達のまちのぞみが、自然的働きを沈静させることから始まり、神の前にしずまり、やがて頭を垂れて、全ての善をなしうる唯一の神のみ業を慕い求め、更に神は私達のうちにもみ業をなそうとしておられるという確信に進む・・・まで待つことができるなら、待ち望みこそ、真に魂の力と喜びとになることでしょう。」と語っています。今週、どこかでキチンと時を取って「主を待ち望む」姿勢を表しましょう。
 
お祈りを致します。