礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年8月24日
 
「彼は衰えず、くじけない」
イザヤのメッセージ(29)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書42章1−9節
 
 
[中心聖句]
 
  4   彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
(イザヤ書42章4節)

 
聖書テキスト
 
 
1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。 2 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。 3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 4 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
5 天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。 6 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。 7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。 8 わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。 9 先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」
 
1.主のしもべの紹介
 
 
42章では、後半部分の大事なキャラクターである「主のしもべ」が紹介されます。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。」という出だしは、何と誇らしげで、何と印象的でしょうか。「見よ」という言葉は、大変強調的です。前の41:24、29にも「見よ」がありますが、これは偶像の虚しさを示す「見よ」です。しかし42章では、これと対照的に、神の信任し給う器を紹介する「見よ」であります。

さて、ここで「主のしもべ」について説明します。イザヤ書における主のしもべとは、「神の救いの計画を地上で実現するために、神によって立てられた神の代理人」のことです。「主のしもべ」と言う表現は、イザヤ書後半にしばしば出てきますが、特別にこの思想が纏って出てくるところを「しもべの詩」と呼びます。イザヤ書にはそれが4つありますので、その一覧表を下記に記します。(図表@)

主のしもべが誰を指すかは文脈によって異なります。@究極的には、メシアによって成就されるのですが、Aあるときには預言者、Bあるときにはイスラエルの中の選ばれたもの、Cあるときにはイスラエル全体を指します。同じ文章の中でも複合的に使われているケースが多く見られます(図表A)。序ながら、主のしもべは、常に良いイメージで描かれているのではなく、失敗をして落ち込む姿も描かれていることも付け加えておきます。例えば42:19に「わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。」と、イスラエルが主のしもべとして選ばれていながら、その使命を外れてしまうことが叱られています。

 
2.しもべの立場
 
 
もう一度1節に戻ります。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け・・・」と、しもべの立場について4つのことが述べられています。

・神に支えられている:
主のしもべは、神に支えられています。彼の力は彼自身から来るのではなく、彼を遣わす神ご自身から来るのです。

・神に喜ばれる:
神にご自分の取って置きのエースとして受け入れられたものです。これは、主イエスが洗礼を受けられた直後に、天からの声として聞こえてきたものと同じです。「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:16-17)

・神に選ばれたもの:
自分で選んだ仕事ではなく、神に選ばれ任命されています。主イエスが弟子達に、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残る・・・ためです。」(ヨハネ15:16-17)と語られたのと同じ思想です。

・神の霊を頂いたもの:
主イエスの受洗の時に御霊が鳩のように彼の上に下ったと記されていますし、また、ペテロも「彼は聖霊によってその奉仕を全うした」と述べているように、その奉仕は御霊に導かれ、力づけられたものでした。使徒10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
 
2.主のしもべの使命
 
 
・国々に対して:
「公義をもたらす」。公義という言葉は余り日常使われていませんが、正義と同じです。正義を齎す、正義を確立する、ということは、曲がったことが横行している社会を正すことです。オズワルトは、これは救いを齎すことと同じと説明しています。

・イスラエルに対して:
彼らの「契約となる」、つまり、新契約の民を創設するのです(6節)。

・異邦人に対して:
神を畏れる道を示し、真理と希望の光となることがその使命です(1、4、6節)。

・虐げられた者に対して:
釈放を与えること(7節)、つまり、見えない目を開き、囚人を牢獄から解放し、暗黒に住むものに光を与えます。

特に、異邦人に対して福音が広く伝えられる可能性を示すものとして、この預言は注目されます。これは、主イエスに与えられた使命と同じですし、また、福音を伝える者全てが与えられている使命です。パウロは異邦人伝道の出発に当ってイザヤの預言をその根拠としました。「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」』」(使徒13:46−47)
 
3.主のしもべの牧会的配慮
 
 
主のしもべは、その使命の遂行に当って、ブルドーザーのように自分の目標を推し進めるのではなく、いためる葦、くすぶる灯芯のような弱い魂に対する配慮を持ちながら、その使命を果たすのです。私達人間が、小さなことで傷つきやすいデリケートな生き物であることが先ずこの例えから伺えます。

・「いたんだ葦」:
葦は、弱さ、失望、落胆、傷心を表わします。主のしもべは、痛んだ葦を折る(つまり、回復不可能なまでに傷を広げる)ことをしません。力をもって引っぱるようなこともせず、その痛みに添え木を添えて静かに傷がいえるのを待ちます。

・「くすぶる灯心」:
ランプの灯心は、亜麻のような素材で出来ていました。それが油切れで不完全燃焼して消えそうになっている状態が「くすぶる灯心」です。私達の霊的な炎の低下を暗示しています。しもべは、いたずらな激励(息を強く吹きかけて却って火を消してしまうようなこと)や画策(芯をかき回すようなこと)をせずに油を注ぎ、芯をほぐし、やさしく息を吹きかけて炎を回復します。

・主イエスの静かな奉仕:
これは主イエスのご奉仕の態度を表すものとして引用されています。イエスが手の萎えた人を癒された後、人々がおしかけて来たのに対して、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められました。その行動がイザヤの預言の成就だとマタイは言うのです「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタイ12:18―21)と。showyという言葉が英語にありますが、主イエスのご奉仕にはshowyな要素は一つもなく、まことに静かな態度を取り続けなさいました。
 
4.しもべ自身の持久力
 
 
そのような奉仕をするしもべ自身も、同じようにか弱い人間です。こんなに大きな使命を与えられているのですから、失望・落胆への誘惑・機会がいくらでもあるのは当然です。「衰えず、くじけない」と言っているのは、衰える可能性もくじける可能性も大有りであることを示しています。

パウロも「誰かが弱くて、私が弱くないということがあるでしょうか。」(Uコリント11:29)と告白しています。落胆や失望のチャンスも多くあるのは当然です。しかし、しもべが、落胆しないで奉仕を全うする、とイザヤは言います。落胆をしないで奉仕を全うできる秘訣は何でしょうか。

@彼は、神に支えられている、彼の上には、神の霊が留まっているからです(1、2節)。
A彼は、全世界の光となるという雄大な使命を持っているからです。
B彼は、正義が勝利することを確信しているからです(2節)。ですから、自分の働きを宣伝する必要もないのです。

私達もまた、色々な理由で「衰え」る事があります。年齢的にも年を取ればとるほど、衰えたなあと感じます。特に昨週のCSキャンプで野球をした時に、自分の脳の命令どおりに動かない体の反応を見て、悲しく思ったことです。それだけではなく、持久力の衰えは色々な面で感じます。されに「挫ける」というのは、主の働きに携わる時に多く経験する心の営みです。期待通りに物事が進まない、周りの人々が無関心であったり、悪意を持って攻撃したり、という状況にぶつかると人間誰でも挫けるものです。しかし、彼は「衰えることなく、くじけない」という主の持っておられた不屈の忍耐力、主が与えて下さる持久力をもって、与えられた一人ひとりの使命を完遂したいものです。
 
終わりに
 
 
私達が主に仕える中で、しばしば落胆したり、悲観的な思いを持つものですが、主のしもべとして、気落ちすることなく、不屈の忍耐力が与えられるように祈りましょう。パウロの言葉を再び引用して終わります。「こういうわけで(3章で示されたような光栄ある務めを考えつつ)、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられている(全く相応しくないもの務めに任じられているという大きな憐れみを感謝しながら)のですから、勇気を失うことなく(落胆しないで)、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(神に喜ばれることだけを求めて奉仕に邁進します)」(Uコリント4:1-2) 今週も、この不屈の持久力を与えられて、走るべき道のりを全うしようではありませんか。
 
お祈りを致します。