礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年8月31日
 
「水の中、火の中」
イザヤのメッセージ(30)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書43章1-7節
 
 
[中心聖句]
 
  2   あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
(イザヤ書43章2節)

 
聖書テキスト
 
 
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。6 わたしは、北に向かって『引き渡せ。』と言い、南に向かって『引き止めるな。』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。
 
1.「輝いている」43章
 
 
・宝石のような諸聖句(4、7,13,18-21節など):
43章には、有名な言葉が散りばめられています。たとえば4節の「4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とか、19節の「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」などです。7節、21節「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」は青年大会で主題説教のテキストとして引用しました。

・テーマは出バビロンの明示:
ただ、イザヤ書をすばらしい言葉の金言集としてだけ眺めるのではなく、全体として何を言おうとしているのかをしっかりと捉えた上でみ言葉を味わうこと大切ですので、そこから始めたいと思います。43章は、イザヤ書後半部分のテーマである「出バビロンの約束」が明確に示されるところです。1節は、「だが」から始まっていますが、これは、42章の終わりでイスラエルが神の厳しい裁きを受けることが預言されています。しかし、その裁きを経た後で、神はイスラエルに大いなる恵みを注がれます。それは、イスラエルが何らかの価値を持っているからではなく、一重に神の一方的な恵みによります。
 
2.創造者である主(1,7節)(絵図参照)
 
 
1節で、創造者である主が宣言されます。特にイスラエルを形作られた主としての主権が主張されます。7節はさらに、「私の名で呼ばれるすべての者は、私の栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」と記しています。

・創造者:無から有を生み出す神
・形づくる:その形を形成する
・造った完成なさる

これは、一人ひとりを丁寧にオリジナルなものとして作った過程を表します。工場で大量生産で造られたのではありません。最初の「創造し」createdとは、何もないところから原材料を切り出すイメージ、「形作り」formedとは、大まかな形を形成なさったことを意味します。そして、「造った」completedとは完成なさったことです。私達は、みんな神様の傑作品として心をこめて造られています。

私達はオリジナル作品ですから、お互いに違って居るのは当たり前です。ですから、他の人と比べて、俺はダメだと僻んだり、俺の方がすごいぞと優越感を持ったりする必要はありません。
 
3.贖い主である主(1-4節)
 
 
・親戚として (他を犠牲にしてでも)「買い戻す」:
1節に「私があなたを贖ったのだ。」と宣言しておられます。贖うという行為は、一番近い親戚が、人手に渡ってしまった自分のもの、自分自身を買い戻す行為です。神はイスラエルを、特別な名前で呼び、ご自分の所有とされました(1節c)。この贖いは、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。」という言葉に表れています。他のものを犠牲にしてでも、イスラエルを敵の手から救い出すという意味です。その具体的な表れは、クロス王の子どものカンビュセスがエジプトを攻め、ペルシャの属国とした出来事(527-6)を指すと思われます。

・所有者として、徹底的に贔屓する:
4節は、イスラエルを徹底的に贔屓なさる言葉です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(43:4)神の民として選ばれ、愛され、訓練を受けたイスラエルの民が、その神から離れ、偶像に走り、道徳的には誠に腐敗した生活を送った刑罰として、その国の破滅と言う恐ろしい体験を致します。その、落ち込んでいるイスラエルを励ます言葉が、「あなたは高価で尊い」なのです。イスラエルのようなダメ民族をも神は愛し、守り、導かれるというのがイザヤのメッセージなのです。私達も、みんな罪だらけの生活をしていました。そんな私をI love you.とおっしゃって、十字架にかかってくださったのがキリストの愛です。

・患難の中で守り給う(2節):
私達を造り、贖いたまうた神は、私達を守り給います。それが2節に記されます。
 
4.神の民は困難や危険を通過する
 
 
そのイスラエルが、「水の中を通り、川を渡り、火の中を歩く」と言われます。それは、民族として、困難や危険を通過することを意味します。それは、民族が体験している、或いは体験するであろう苦難や危険の象徴的表現です。具体的には、下記の事柄が含まれていると示唆されています。

・バビロンにおける最後的な苦しみ(捕囚の最終段階での苦しみ)

・あるいは、バビロンから釈放されても、旅路の困難のことであるかもしれません。特に橋のなかった頃ですから、川を歩いて渡る以外には向こう岸につけなかった訳です。

・聖地に戻ってからも、近隣諸国から嫉妬され、攻撃されるという困難を表したことも意味されていたかも知れません。

これらのうちどれかという、特定はできません。あるいは、それら全部が含まれているとも言えましょう。もっと広く考えると、ユダヤ人がその後の歴史の中で体験し続けた、差別、迫害、苦難全体を指しているのかもしれません。

新約聖書の中でも、火は試練や迫害を指すものとして使われています。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(Tペテロ1:6−7)
 
5.危険の只中での臨在と守り
 
 
・困難の中「からの」救いというよりも、困難の「中での」救い:
イスラエルは、そのような苦難を経験しますが、その困難の只中にあって、主が共におられ、助けなさいます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と約束してくださいます。この約束を注意深く見てください。必ずしも、困難と試練の中「からの」救いが約束されている訳ではありません。試練と困難の中での救いです。もっとも、詩篇66:12はそこからの助けがありますので、神の助けは一様ではありません。「あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」いずれにせよ、その艱難の只中に主が共にあって助け守ってくださるのです。

・ダニエルの三青年の例(ダニエル3:23-27):
水の中では、共に居てくださり(臨在)、大川を渡るときも「押し流されない」しっかりと私達を留めてくださり(確保)、火の中でも焼かれず、炎がもえつかない(安全)、のです。火の中でも焼かれず、燃えつかない例として、ダニエルの友人の三青年のみ守りを思い出します。ダニエル書を読みましょう。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。『私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。』彼らは王に答えて言った。『王さま。そのとおりでございます。』すると王は言った。『だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。』それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。『シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。』そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。・・・この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。」(ダニエル3:23−27)このような例がないわけではありませんが、イザヤがここで述べている「火」とは、文字通りの火というより、試練を比喩的に指すものでしょう。

・艱難の只中にあっての勝利したパウロ:
パウロも、艱難の只中にあっての勝利を歌っています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35−37)私達のだれも、患難の中から救い出されることを願います。それは答えられることもあります。しかし答えられないこともあります。どちらにしても確かなことは、主は共に居てくださるということです。

・中国の「家の教会」、ウガンダなどなど・・・:
先週水曜日の「報道ステーション」で、厳しい迫害を通っている中国の家の教会の模様が報告されていました。集会所として使われている家が壊されたり、指導者達が逮捕されたりということが日常的に行われているのです。印象的だったのは、そのような迫害に遭えば遭うほど信徒が燃え、信徒の数も増え続けていると、ナレーターが締めくくったことでした。ケニアの隣国ウガンダでも、アミン大統領のころ、厳しい迫害が起きました。ある牧師がアミンの軍隊の攻撃に遭って山刀で切られ、首の骨に達するほどの深手を負うのですが、奇跡的に助けられ、奉仕に復帰するという実話が映画化されました。その題が “Some Through the Fire, Some Through the Sea”というもので、大変印象的でした。この聖句を読むたびに、その映画を思い出します。
 
終わりに
 
 
・私達も試練を通過する:
私達も、さまざまな形で「火の中、水の中を」を通り過ぎるときがあります(使徒14:22「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」)。

・その中での臨在、み守りを確信しよう:
しかし、覚えたいことがあります。その道を許しなさるのは主ご自身であること。そしてその火の中、水の中に共におられるお方であり、私達を守っていてくださるお方であることを(詩篇23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」)。

・試練を通過する者に与えられる品性の実を期待しよう:
そして、その中を通り過ぎるものだけが持つことの出来るすぐれた品性の実を結びうるものであることを(ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」)。
 
お祈りを致します。