|
聖書テキスト |
|
|
1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。 |
3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。 |
5 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。6 袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。7 彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。 |
|
|
|
はじめに |
|
|
中目黒教会の名簿を見ますと、70才以上の愛老会員は、男子32名、女子82名、合計114名です。その内、新愛老会員は8名です。今日ご出席の方は約半数で、他の半数は外出の不可能な方々です。高齢化の波が教会にも押し寄せてくるのを感じます。主が与えてくださった長寿を祝い、感謝し、そして、今後の人生に、更に勝る輝きを祈ります。 |
講壇では、イザヤ書をずっと取り上げているのですが、今日は「しらがになっても、わたしは背負う。」という聖句を含んだ46章に当りますので、この聖句を中心に愛老聖日にちなんだメッセージを語ります。 |
|
|
1.無力なる偶像 |
|
|
イザヤ書40章以降は、イスラエル民族のバビロン捕囚からの釈放がテーマです。46章は、その釈放を齎すのが、偶像の神々ではなく、活ける真の神ご自身であることが強調されます。 |
・ベル: 1節は、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。」という宣言から始まります。ベルというのは呼び鈴のことではなく、バビロンに沢山ある神々の主神の名前です。カナンにおけるバアルのような位置づけです。ベルに因んだ名前としては、ベルシャザル、ベルテシャザルと言うものがあります。 |
・ネボ: ネボというのも神々の1人で、寝ぼけた神と言う意味ではなく、知恵を司る神と考えられています。ベルと同じように、ネボを頭に頂く名前も沢山ありました。ネブカデネザル、ナボポラッサル、ナボニダスなどというのは、歴史的に有名な王様でした。さて、そのベル神をイメージする偶像、ネボの偶像がひっくり返り、倒れてしまう、と予言されます。これは、バビロンの滅亡の時の混乱の様子を表すものと考えられます。この国でも、日本でいう「御神輿」のように、新年の祝いでは、この神々を皆で担いで練り歩く習慣がありました。しかし、今は、ネボとベルは、人々の重荷でしかありません。 |
・担われる神々: その神々の像を背負う人々、牛車に乗せ、或いはロバの背に負わせて、坂道でヒーヒー喘いでいる姿が1節後半と2節です。「彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。」途中で疲れて休憩する時も、偶像は乗せられたまま、自分で荷紐を解いて一服するわけには行きません。7節は、その騒ぎの締めくくりをやや皮肉に描写します。「彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。」バビロンの神々は、苦難の時、人々の重荷にこそなりますが、救いの力は全くないのです。 |
|
|
2.背負われる神ではなく、背負い給う神 |
|
|
3−4節は、人々に背負われて重荷となっている偶像と対比して、人々を背負い人々の重荷を背負ってくださる真の活ける神が示されます。「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」何という発想転換、主客転倒でありましょうか。人間の献身をひたすら要求する宗教ではなく、人間の悲しみと苦しみを背負い給う神が紹介されているのです。 |
|
|
3.イスラエルを背負い給う |
|
|
・出エジプトの時に: この聖句の対象は、「ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者」です。短く言えば、捕囚となっているイスラエル民族のことです。彼らは「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者」でした。つまり、エジプトでの奴隷状態から、出エジプト記によると「鷲の翼に載せ、わたし(主)のもとに連れて来た」(出エジプト19:4)のです。この場合「背負う」というイメージは鷲がその雛を背中に乗せて飛んでいるというものです。主がイスラエルを背負われるというイメージは、出エジプトから始まって、その歴史を貫いていました。それが「わたしはそうしてきたのだ。」という言葉に表れています。 |
・捕囚からの釈放: この事実に立って、今捕囚の憂き目に遭っているイスラエルを、主はバビロンから運び出してくださる、というのがこのお約束の主意なのです。 |
|
|
4.信仰者の一生涯を背負い給う |
|
|
・年を取っても、白髪になっても: 主が背負ってくださるのは、民族という単位だけではありません。神の民個々人においてもそうであります。それが、「年をとっても、・・・しらがになっても、わたしは背負う。」という言葉に表れています。民族も個人も、ある時期には主に頼る必要があるが、その時期を越えると自活できるというのではありません。私達被造物は始めから終わりまで主に依存しています。主はその信頼にこたえて、私達を負い給うお方です。つまり、私達の一生涯を、責任を持ってくださいます。 |
・老後の保証: 特に、主は私達の老後を保証してくださいます。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」イスラエルを始から担いでくださった神は、私達の人生の最後まで責任を負ってくださいます。ダビデはこう祈りました。「年老いて、しらがになっていても、神よ、わたしを捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」(詩篇71:18)彼は人生の終末を迎えようとしておりますが、そのような年齢においても、現実の厳しさは容赦なく襲って参ります。肉体の衰え、家族の離反、自分の側近の離反などなど、悲しいことが起きますが、神の大能のわざを次の世代に告げ知らせるために自分を捨てないで下さいと神に祈っています。その祈りを主は答えなさいました。 |
|
|
5.私達の全存在を背負い給う |
|
|
・心配事を担う: 主は私達の心配事も含めて背負ってくださいます。「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」(詩篇 68:19) |
・永遠の腕をもって: さらに私達の全存在をその永遠の腕をもって支えていてくださいます。「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。」(申命記 33:27) |
|
|
6.「あしあと」の詩を巡って |
|
|
先ほど歌いましたひむなる105番は、有名な”Footprint”という詩を基にした歌です。詩を引用します。 |
|
|
ある日私は夢を見た。 私は、主と共に渚を歩いていた。 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出されていた。 どの光景にも砂の上に二人の足跡が残されていた。 一つは私の足跡、もう一つは、主の足跡だった。 |
これまでの人生の最後の光景が映し出された時、 私は砂の上の足跡に目を留めた。 そこには一つの足跡しかなかった。 私の人生で一番つらく悲しい時だった。 このことがいつも私の心をみだしていたので、 私はその悩みについて主にお尋ねした。 |
「主よ、私があなたに従おうと決心した時、 あなたはすべての道で、私と共に歩み、 私と語り合ってくださると約束されました。 それなのに、私の人生でいちばんつらい時 一人の足跡しかなかったのです。 いちばんあなたを必要とした時に、 あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、 私にはわかりません。」 |
主はささやかれた。 「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。 あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。 足跡が一つだった時、 私はあなたを背負って歩いていた。」 |
|
|
|
これは、マーガレット・パワーズという牧師夫人が、自分の体験を基につくったものです。この詩が知られるようになって、どんなに多くの人々が励まされ、慰められたことでしょう。しかし、詩が知られるようになった始めの頃、この詩は作者不明として広がっていきました。 |
マーガレット・パワーズは、学校の教師でした。ある日、ポールという伝道師と湖の岸辺を歩いているときに、ポールからプロポーズされました。 |
ポールは、父親から虐待を受け、母は父の不注意で凍死してしまう、という厳しい環境で育ちました。ギャングの一員となったポールは12歳のとき、盗みに入った先で婦人を射殺、少年院を転々としました。そこで貰った聖書も破り捨てたほどでした。しかし、出所後、クリスチャン老夫婦の家に下宿したことがきっかけとなって、信仰を持ちました。 |
さて、プロポーズされたマーガレットは砂浜を折り返して帰るときに、二人の足跡が半分消されていて一人分しか残っていない部分を発見して、神の祝福が消されたのかと不安に思います。その時ポールは、「二人で処理できないような困難がやってきたら、その、時こそ神が私達を背負ってくださる時だ。」と励ましました。その思想が元になって、あの有名な詩が出来たのです。 |
しかし、マーガレット自身は、自分がそんな詩を作ったことを忘れていました。何年も後のことです。夫と娘が水難事故に巻き込まれ、自分も腕を折るという試練の時「この詩は作者不明なのですが、これをお読みすれば、きっと励ましになると思うの」と看護婦さんが夫に読んでくれたという詩を開いて驚きました。なぜならそれは彼女が若い頃に作った「フット・プリント(あしあと)」という詩だったからです。彼女が自分の作った詩によって励まされたことは言うまでもありません。 |
|
|
おわりに |
|
|
私達を白髪になっても、年を取っても背負い給う主を賛美しましょう。 |
このお方により頼んで、豊かな人生を送りましょう。 |
|
|
|