礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年9月28日
 
「バビロンから出よ 」
イザヤのメッセージ(33)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書48章17−22節
 
 
[中心聖句]
 
  20   バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。「主が、そのしもべヤコブを贖われた。」と言え。
(イザヤ書48章20節)

 
聖書テキスト
 
 
17 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。18 あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。19 あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」
20 バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。「主が、そのしもべヤコブを贖われた。」と言え。21 主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた。22 「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。
 
はじめに
 
 
・40―48章のテーマは「釈放」:
イザヤ書40―48章は、バビロン捕囚からの釈放がテーマです。イザヤ書後半部分(40−66章)は各9章からなる三つの部分に分けられます。その共通的締めくくりは「悪者に平安はない」という警告です(48:22、57:21、66:24)。

・46章=活ける真の神が釈放を齎す:
昨週の愛老聖日では「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(46:4)との御言を学びましたが、46章は、その釈放を齎すのが、活ける真の神ご自身であることを示します。

・47章=バビロンの滅亡:
はバビロンの滅亡が予言されます。それが、驕り高ぶったバビロンの娘の没落という形で描かれます(特に1,5節)。

・48章=バビロン脱出命令:
48章は、そのバビロンから出てくるようにという命令です。この命令の要点は、「イスラエルよ、あなたがたをバビロンから釈放するために、私は全ての環境を整えた。あとは、あなたがた自身の足をもって、バビロンから出ることだけだ。今すぐ出なさい。」ものです。この「出バビロン命令」について、三つの点からお話しします。
 
A.命令の基礎は、成就された贖い
 
 
・命令の根拠は「贖い」の事実:
出なさいという命令の後に、その根拠として「主が、そのしもべヤコブを贖われた。」と説明されています。17節にも「あなたを贖う主」と、主ご自身が自己紹介をしておられます。

・贖いとは:
贖いとは、近い親戚の義務として「買い戻す」「地位・財産を回復する」と言う意味ですが、この場合には、
 @バビロンを滅ぼす(14節)
 A帰還のために大路を造る(40:4)
 B砂漠には川が流れている(43:19)
 Cイスラエルの罪の代価は既に払われている(40:2)
という形で備えがなされていました。

・相応しくないもののための贖い:
贖われたイスラエルは、そんなことをされるのに相応しかったかと言いますと、その反対です。48章の1−11節までは、イスラエルの情けない姿が描写されています。彼らはイスラエルというすばらしい名前に反して不誠実であり(1節)、頑なであり(4節)、偶像崇拝に走り(5節)、無感動であるだけではなく反逆的です(8節)。この情けない状態の結論が「悪者に平安がない」という警告であります。こんな救われる価値のないイスラエルを、主はただただその憐れみによって救いなさるのです。

・キリストの贖い:
私達、罪人のために十字架で成し遂げられた贖いもこの絵と重なります。何の価値もないどころか、反逆的、反抗的、わがまま一杯の私達のために、御子キリストは黙々と十字架にかかり、私達の贖いを成し遂げてくださいました。その贖いは完璧なものでした。息を引き取られる直前に「完成した」と叫ばれた時、私達の罪の赦しと聖めは完成されたのです。私達のなすべき分は、その完成された贖いを感謝して受け取ることだけです。

・ハドソン・テーラーの回心:
中国伝道の開拓者ハドソン・テーラーが回心した時のエピソードをご存知でしょうか。かれは、クリスチャンの家庭に生まれ育ちましたが、信仰については懐疑的でした。ある日、母は旅行にでかけ、彼一人家で留守番をしていました。することもなく、父の書斎を眺めているうちに、「既に成就されたキリストの贖い」という本を見つけました。変な題名だなあ、という軽い気持ちで読み進むうちに、「完了した」というキリストの言葉の中に、贖いの確かさを確信しました。その場で跪いてキリストを主と受け入れ救われました。旅行から帰ってきた母に「おかあさん、ステキなニュースがあるよ」と言いかけた時、母はすぐ、「分かっているわ。この2週間そのニュースのことでとても嬉しかったの。」と答えました。お母さんは、旅行先でハドソンの回心のために祈り、これ以上祈る必要がないという確信を得て、神を賛美していたのです。この話を聞いて皆で主を賛美した、という物語が残っています。

 
B.命令の内容:バビロンから出なさい
 
 
・出エジプトの時のように:
「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。」「出なさい」「逃れなさい」とは、出エジプトのときに使われた動詞です(出12:41、13:3、14:5)。

・出バビロンでは:
さて、イザヤ書に戻ります。神の側における準備は、贖いという形で整えられました。後は、イスラエルがその足をもってバビロンを脱出すればよいのです。実際の歴史を見ましょう。ペルシャ王クロスの解放令が出たのが538年、そして翌年から捕囚の民の帰還が始まるのですが、その時の指導者ゼルバベルの下で帰還を果たしたのは僅か5万人でした。イスラエル全体が2百万人位とすると2.5%だけです。残りはどうしたのでしょうか。バビロンの住み心地がよくなってしまって動きたくなかったと言うのが正直のところだったようです。

・出たがらない人々:
捕囚の始まり頃は、慣れない環境や厳しい隷属の故に、望郷の思いに駆られたことでしょうが、世代が代わり、バビロンに根付いて商売をし、或いは官職を得、それなりの地位を確保するようになると、「住めば都」と感じたユダヤ人の方が多くなったことは理解できます。しかし、バビロンは彼らの約束の地ではありません。況して偶像の満ち満ちた町です。解放令が出たら、生活設計を考えるよりも、主の御心に従ってそこを出るべきだったのです。これは、丁度長いこと鳥かごで飼われていた鳥が、その籠の戸が開かれて、さあ大空に向かって飛んでいきなさい、と言われても、なかなか動けないのと似ています。毎日餌を与えられる安穏な生活と、自由ではあっても餌を自分で探さねばならない厳しい人生とどちらを選んだらよいのでしょうか。その選択です。

・「出る」とは、汚れを去ること:
イザヤ52:8−12に同じ勧めがなされていますので読みましょう。「聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。9 エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。10 主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」この御言について、「エマオの道で」の中にキンロー博士がこう語っています、「もし私達がキリストの証人として主が求めておられるような存在でありたいと願うなら、・・・私達はきよくなければなりません。・・・神はきよめられた人々と共にその人々の内におられます。主は私達の罪を取り除き、失敗を処理し、ご自身が心地よくお住まいになる神殿として私達の内に場所を造られます。私達が主の取り扱いを受け入れるなら、聖霊が私達の生涯を用いてなされるみ業は、尽きることがありません。」
 
C.命令の先にある祝福
 
 
・福音が全世界へ伝えられる:
「喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。『主が、そのしもべヤコブを贖われた。』と言え。」イスラエルの救いは、彼ら自身の幸福に留まりません。神がその民を贖いなさった、というおとずれは全世界に広げられねばなりません。イスラエルを贖い給うた主は、同じ御手をもって全ての民を贖い給うからです。歴史とは、偶然の出来事の積み重ねではなく、創造主のご計画の成就です。私達人間は、その神の偉大さを示すために存在しているのです。

・恵みの広告塔として:
私達一人ひとりも、神の恵みの広告塔としてこの世に存在しています。あのレギオンに取り付かれた男がそこから解放され救われた時に、主イエスはこう言われました、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マルコ5:19)と。

・命令に続く祝福:
続く21節は、出バビロンの民が、その道を守られる約束です。「主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた。」これは、出エジプトの出来事の回顧です。でも、43:18を見ると、この素晴らしい出来事すら「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」という、より素晴らしい出来事に包み込まれてしまいます。過去の恵みは素晴らしかった、しかし、これから起きようとすることは、その焼き直しではなく、想像もできないほど素晴らしいことなのだ、と主は仰せられます。
 
終わりに
 
1.この曲がった罪に満ちた世にあって聖い生き方を!
 
 
バビロンを出なさいという、主のご命令にしたがって、バビロンを出ましょうか。それとも、留まって、「悪者どもには平安がない。」という結果を見るべきなのでしょうか。それは、私達の選択次第です。
 
2.主の大きな(贖いの)恵みを言い広めよう
 
 
バビロンを出たものとしての責務があります。それは、罪と汚れから釈放された人生がどんなに実り大きな幸福に満ちたものであるかを、周りの人々に知らせることです。ドアが開けられた鳥かごの中に留まって、外の世界に出ようか出まいか迷っている鳥たちも、外に出た鳥たちが大空を飛びまわって、自然の餌を充分に食べてのびのび生きているのを見たら、私も出てみようかなと思うのではないでしょうか。そんな「鳥」になりたいものです。
 
お祈りを致します。