礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年10月5日
 
「諸国民の光 」
イザヤのメッセージ(34)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書49章1−6節
 
 
[中心聖句]
 
  6   わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。
(イザヤ書49章6節)

 
聖書テキスト
 
 
1 島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。 2 主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。 3 そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」 4 しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」 5 今、主は仰せられる。──主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。── 6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
 
はじめに
 
1.イザヤ書49−57章
 
 
イザヤ書後半部分の27か章は9章ずつの三部に分かれます。第一部は40−48章で、神の救いの表れとしての出バビロンが宣言されます。第二部は、その救いを実行に移す「主のしもべ」に焦点が当てられます。
 
2.主のしもべ
 
 
主のしもべとは、「神の御心を遂行する器として神に立てられた人物または民族」を指します。ある時にはイスラエル全体、ある時にはイスラエルの中の核となる人々(「真のイスラエル」という意味で)、またある時は預言者、そして、究極的には来るべきメシヤを指す複合的概念です。(絵図@参照)

 
3.「しもべの歌」
 
 
「しもべの歌」として知られているのは、先月取り上げました42章、そして今日取り上げる49章、来週取り上げます50章、そして52―53章の4つですが、これ以外にも他のトピックの中で断片的に扱われているところはたくさんあります。
 
A.しもべの告白
 
 
この章のしもべの歌は、1−13節までですが、1−6節までは、しもべが第一人称、つまり、「私」を主語として自己紹介と告白を行っていますので、今日はこの部分だけを取り上げます。序でながら14節以下は、神のイスラエルに対する語り掛けです。その中で強調されているのは、虐げられているイスラエルへの慰めです。

さて、1−6節のしもべの「告白」は、三つのステージに分かれます。
 
1.召されている私(1−3節)
 
 
・神の召し:
生まれる前から召され、胎内にいるときから呼ばれていました。私達の存在は、自分が決めるものでもなく、また、誰かによって決められるものでもなく、神の召しによるのです。

・その能力:
神の手に握られている鋭い剣、研ぎ澄ました矢として自分を描いています。剣は近くの相手を、矢は遠くの相手に対処するためのものです。しかしこの武器は、実際の戦いのための武器ではなく、神の言葉によって人の心を刺し通す奉仕の象徴です。ヘブル書にも「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(4:12)(絵図A)とありますように、人々の心の奥深くに入り込む力を持ったのが神の言葉です。その神の言葉を語る力を象徴しています。しかも、「能ある鷹は爪を隠す」という諺が日本にもあるように、その鋭い力は、いかにも、私は鋭いカミソリのような人間だと外見から分かるようなものではなく、大事な時まで隠されているものです。主イエスのご生涯でいうと、ナザレの村で30歳近くまで何の変哲もない大工としての生活を静かに営まれたことが、この預言と符合します。 

・その呼び名:
「神のしもべ、神の栄光を現わすイスラエル」と記されています。では、イスラエル民族全体を指しているかと思うと、そうではありません。というのは、5−6節には、しもべが「イスラエルを集める」使命が与えられているからです。つまり、しもべは、「イスラエルの中のイスラエル」、「本当のイスラエル」、もっと具体的にいうと、言葉をもって人々を励ます預言者、そして来るべきメシアを指しています。
 
2.落ち込んでいる私(4節)
 
 
・徒労ゆえの落胆
自分の奉仕が無駄に終わり、虚しく力を使い果たしてしまっただけだ、と考えているしもべの姿が描かれます。聖書とは何と正直な本でしょう。いつも勝利、いつも成功、いつも前進とは限らないのが福音の奉仕です。主イエスは、「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」(マタイ11:17)と、民衆の無反応振りを嘆いておられます。パウロも、「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」(ガラテヤ3:1)と、福音の本道から逸れて言ってしまったガラテヤのクリスチャンについて嘆いています。今日は近隣のチラシ配布が行われますが、私達も、人々の無関心という壁にぶつかってがっかりすることがあるかもしれませんが、それは、私達が初めてではないと覚えたいと思います。

・主への信頼:
そんな落ち込みの経験の中でも、彼は不貞腐れず、神のみに希望を置き、助けを求め、主の報いを信じ続けます。今見えるところで落胆せず、最終的に裁き給う主を信じて委ねるのです。
 
3.回復される私
 
 
落ち込んだしもべに対して、主は新たな呼びかけを持って回復なさいます。5節後半のことばは、1節と同じ内容です。再度しもべの高尚な立場を確認されるのです。その上で、しもべの使命を明確に示されます。
 
B.しもべの使命
 
1.イスラエルに対して
 
 
5節の前半、「主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるため」とその使命を明確にされます。更に6節はそれを説明して「あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせる」とも語られます。具体的には、捕囚のイスラエルの故国復帰が示されていますが、それ以上に、真のヤハウェ信仰に彼らを立ち戻らせる信仰復興がしもべの使命です。
 
2.異邦人に対して
 
 
「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」これは、正に世界宣教です。

しかも、この使命は、前のイスラエル回復よりも大切な課題として提示されます。文語訳では、イスラエルへの奉仕は軽いもので、異邦人への宣教は、より大きな重いものだと語ります。英訳でも、”It is too small a thing for you to be my servant to resotre the bribes of Jacob... I will also make you a light of the Gentiles...”となっています。

これは、同族への伝道は易しく、世界宣教は難しいと軽重をつけるための比較ではないと思います。同族への伝道をゴールとする小さな考えに囚われず、世界大の視野をもって宣教を行うべきという奨励なのです。同族の伝道も、世界宣教の一つというほどの気宇の大きさをもって行うべきなのです。イザヤ書の権威であるオズワルト師は「わたしの救いをもたらす者」と訳されているところは、「私の救いとなる者」と訳すべきと主張します。それが正しいとすると、これは主キリスト以外には当てはまりません。
 
3.インマヌエルの使命
 
 
さて、インマヌエルが、世界宣教をその二本柱の一つと掲げているのは、大きな意味があります。世界宣教のためにこそ群は起されているのです。国内宣教は決して軽視されていませんが、それは世界宣教の一環なのです。そのためにこそ、国内教会は強くなければなりません。また、世界宣教を進めることが、国内教会を強くする道でもあります。これは相関関係があります。インマヌエルが海外宣教に着手したのは、開設後15年、1960年のことでした。恐らく、戦後のプロテスタント教会の中で、海外宣教の草分けであったことを私達は誇りに思います。しかし、その後50年、宣教師の数は15名と、増えもせず、減りもせずと言う状況が長く続いています。今一度、私達の生き甲斐は世界宣教にあるのだという意識に目覚めるべきであります。
 
C.僕とは誰か
 
1.預言者
 
 
先ほどお話ししましたように、この使命を与えられたのは、第一義的に預言者自身です。イスラエルの中の(本当の)イスラエルとして自国民だけではなく、異邦人にも福音を伝えるべきなのです。しかし、実際に異邦人に福音を伝えた預言者は、僅かの期間エジプトで活動したエレミヤ、ニネベで活動したヨナ以外には記録されていません。
 
2.キリスト
 
 
幼子イエスが割礼を受けるためにエルサレムに連れて行かれたとき、老シメオンは幼子を掻き抱き、「異邦人を照らす光、御民イスラエルの光栄」(ルカ2:32)と叫びました。実際の主イエスの活動は、殆どイスラエル人に限定されていましたが、主の視野には「全ての人々を私の下に集める」(ヨハネ12:32)世界宣教が入っていました。そして、最後に、世界の民のための贖いとして、十字架の上で己が命を与えなさいました。
 
3.パウロ
 
 
パウロが世界宣教への出発を行った直後、ピシデヤのアンテオケで同族の反対に遭った時、この言葉を引用して、これは私達に対する命令であると宣言するのです。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」(使徒13:46−47)。異邦人伝道に一生を賭けたパウロの根底にあった確信は、キリストの福音は、人間の奥底にある罪への完全な解決であり、それは、人種や文化を超えて働くものである、と言うものでした。
 
おわりに
 
 
私は、1967年、聖宣神学院が横浜・西八朔に移った頃、先遣隊として越冬し、来る日も来る日も、泥道を整備するという作業に従事していました。初代総理・院長が車で通りがかり、車を止めて私達に声をかけて下さいました。「頑張りたまえ。この道は世界宣教に続く道なんだよ。」先生は全然お手伝いは下さらず、そのまま去って行かれましたが、この不思議な言葉は印象的でした。このつまらないように見える泥濘との戦いは、世界宣教に通じるものがある、という意味で、世界宣教に対する私の目を開いてくださった言葉でした。

私達クリスチャンすべてに、「異邦人の光」となるべき使命が与えられていることを再確認しましょう。私達の生活や行動で、どの部分が世界宣教に結びつくか、私達自身には分かりません。ただ言えることは、祈りつつ行う全ての行動すると、それは世界宣教に繋がるものなのです。世界宣教を考えながら、今週の営みをはじめましょう。
 
お祈りを致します。