礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年10月12日
 
「朝ごとに耳を開かせて」
イザヤのメッセージ(35)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書50章4−11節
 
 
[中心聖句]
 
  4   神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
(イザヤ書50章4節)

 
聖書テキスト
 
 
4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。 5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、 6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
7 しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。 8 私を義とする方が近くにおられる。れが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか私のところに出て来い。9 見よ。神である主が、私を助けるだれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。
10 あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。
 
1.「しもべの歌」パート3
 
 
「しもべの歌」として知られているのは、先月取り上げました42章、そして昨週取り上げた49章、今日取り上げる50章、そして52―53章の4つですが、その内容は、章を追って深くなっているのを感じます。下記がその一覧です。

・1(42章):忍耐をもって使命を成し遂げるしもべ
・2(49章):諸国民の光となるしもべ
3(50章):神の言葉に聞き従うしもべ
・4(52-53章):苦難を通して救いを成し遂げるしもべ

49章のしもべの歌の後、49章後半と50:1-3は、罪と反逆の民を救い給う主の御心と力が示されます。50:4は、その思想から突然転換して、またしもべの告白が始まります。
 
2.言葉によって人を助けるしもべ
          
「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え・・・」(4節)

・「神である主」による任命:
50章で紹介されているしもべは、「神である主」のしもべです。英語訳ではsovereign Lordとなっています。絶対主権者である主、というニュアンスです。その絶対者なる主が、しもべを預言者と任命されました。

・その使命は、言葉によって疲れた者を助け支えること:
彼の使命は、その舌をもって疲れた者を助け支えることです。当然ながら、他人を支える前に、彼自身が助けられる経験が必要です。他人に語る前に、自分自身が語られねばなりません。その意味で、しもべにとって第一のレッスンは、「聞く」と言うことです。

・主イエスも、「疲れたもの、重荷を負うもの」を招かれた:
主イエスは、疲れたもの、重荷を負うものを招きなさいました(マタイ11:29-29)。ご自分が疲れること、重荷を負うことの大変さを経験し、それを乗り越える力を経験された方だったからこの招きが出来なさったのです。
 
3.教えられ易い心
 
 
「私に弟子の舌を与え、私が弟子のように聞くようにされる。」(4節)

・主の弟子としての訓練:
このしもべは、「訓練された舌」(tongue of being taught=disciples、弟子としての舌)を持っています。何よりも、彼は、語る前に「聞

・「聞く」という訓練:
如何にしばしば私達は、語ることが早く、聞くことに疎いものでしょうか。ヤコブ1:19には、「愛する兄弟たち。あなたがたは、・・・だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」と記されている通りです。

・サムエルの例:
サムエルは預言者としての奉仕を「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」(Tサムエル3:9)と祈ることから始めました。弟子は師が教える時、緊張感をもって耳を傾けます。ああまたか、と言うような慣れた態度ではなく、今日も主よ新鮮に語ってくださいという柔らかい心がどうしても必要なのです。
 
4.朝毎に聞く
 
 
「朝ごとに、私を呼びさまし・・・」(4節)

・朝はベストタイム:
神に聴くベストタイムは、朝であることが示唆されています。なぜ朝なのでしょうか。それは、一日を始める前だからです。余分な思想が頭に入る前に、主を思う思想が私達を支配しなければなりません。色々なことを思い巡らす前に、主の御心を思い巡らさねばなりません。色々な仕事で疲れ切って何も考えられない状態ではなく、心も体も新鮮な時に、主の御心を探らねばなりません。一日の活動を始める前に、その一日が主のものとして進められるように、御心を確かめねばなりません。

・主イエスは朝起きの人(マルコ1:35):
主イエスは、前の日にどんなに大きな仕事があったにせよ、「朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられ」(マルコ1:35)ました。

・ダビデも、朝主のために備えをした(詩篇5:3):
ダビデもまた、「朝明けに、私はあなたのために備えをし」(詩篇5:3)と告白しています。朝はどうしても苦手と仰る方もあることは、よく分かります。低血圧という健康状況にある方、夜遅くまで仕事をしなければならない方、朝起きは大変でしょう。朝早く起きなければ霊的でないと私は思いません。ただ、朝の恵みは格別であることを知らないまま、信仰生活を送ることが無いようにしていただきたいのです。
 
5.聞くことは、従うこと
 
 
「私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず・・・」(4,5節)

・「聴く」=「従う」:
「聴く」ことと「従う」ことは、主のしもべにとって同じことです。一応聞いておくが従わない、と言うことは世の中ではあるかもしれませんが、主のしもべにとっては考えられません。聴くということは、「柔らかい心」「教えられ易い心」をもって聴くこと、つまり従うことなのです。へブル3:7、8に「きょう、もし御声を聞くならば・・・心をかたくなにしてはならない。」とあるとおりです。

・耳の割礼:
聞き従うという姿勢が示されているのが、「耳を開く」という言葉です。「耳を開く」とは、出21:6に示されている儀式を背景にしています。これは、年期があけて自由になる権利を得た奴隷が、主人を愛して、自発的な奴隷となることを申し出た時に受けるピアスのことです。主人は、奴隷の申し出を聞いた後で、その奴隷の耳に穴を開けます。それは、かれが自発的な奴隷に(bond slaveからlove slaveに)なったという証なのです。

・喜んで従ったダビデ(詩篇40:6―8):
私達が主に従う決心を言い表したとき、私達の耳には穴が開いたでしょうか。主には従うが、自分のやりたいことも放棄しない、自分のやり口も放棄しない、というのでは、本当の服従ではありません。「主に聞く」とは、突き詰めて言えば自己に死に切った心から始まります。詩篇40:6―8にダビデの告白があります。「あなたは私の耳を開いてくださいました。・・・わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
 
6.迫害に遭っても従う
 
 
「うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(5,6節)

・迫害やはずかしめから逃げない:
このしもべは、迫害に遭い、鞭打たれ、髭を抜かれ、唾され、侮辱されます。神の言葉を真っ直ぐに語るときに、避けることが出来ない抵抗を受けるのです。しかし、迫害の只中にあっても、それが主の御心であると確信していますから、その中に身を委ねるほど徹底した服従の心をしもべは持っています。徹底的な困難や迫害の中を避けないで真正面からぶつかる、その困難に身を任せるとい強さが、神の力の現実を捉える契機になりました。私達はどこかで自分で自分を守って、こうした経験を避けてしまうことが無いでしょうか。このしもべのように、危機から逃げない態度が必要です。

・主イエスも迫害と恥を忍ばれた:
主イエスは死に至るまで、十字架の死に至るまで従いました(ピリピ2:8)。マルコ14:65を見ると「ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、『言い当てて見ろ。』などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。」正に、イザヤ50章は苦難を受ける主イエスの姿です。こんな中でも主イエスは平静な態度をもって通過されました。イエスの中には、自分が刑罰を受けねばならない罪を犯していない、という確信がありました。ですから平静でいられたのです。今の日本は、小は幼稚園から、大は会社に致るまで、理由が無いのに「いじめ」が横行している大変な社会です。クリスチャンであるというだけで不当な差別やいじめを受けることさえあります。しかし、その只中でも、主の雄々しい姿を学びましょう。いじめにあっても、私達が常に堂々としていて、明るく振舞う時に、いじめっ子は疲れてしまうのが通例です。

・「苦難のしもべ」思想の発展:
この50章では、しもべが受ける苦しみが他人の救いになるという思想は出ていません。この思想は52章、53章において展開されます。因みに、しもべの苦難というテーマで言えば、42章には何も言及されていません。49章では、彼の虚しい働きが述べられます。50章は迫害と辱めが語られます。52-53章は、その苦難が人を救うのだという積極的思想となります。興味深い展開です。
 
7.しもべを救う力ある御手
 
 
「しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。8 私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」(7-9節)

・主はしもべを弁護し、立たせ給う:
主は、このしもべを恥の中に置き続けなさいません。主は、彼を助け、その顔を火打石のように固くしてその困難を通り抜けさせます。主は彼を弁護し、恥を掻いたまま終わりを迎えるようにはなさいません。

・主は、仇を滅ぼし給う:
それだけではなく、敵対者をぼろぼろになるまで滅ぼしてしまいます。
 
8.しもべの語るメッセージ
 
 
「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。」(10-11節)

・苦難を経験したしもべだけが語るメッセージがある:
このような苦難を経験し、苦難によって練り上げられたしもべは、他の人々に価値のあるメッセージを語ることが出来ます。

・「暗きを歩き、光を持たないのは、主により頼め」:
彼にメッセージは、暗き中を歩んでいるものは、神により頼め、ということです。これは、神を持ちながら、絶望と悲しみの中にあるイスラエルの民へのメッセージです。主のしもべは、自分自身苦難を経ながら神の助けを頂いた経験から、イスラエルに対して、望みを捨てるな、主に信頼せよと説きます。
 
終わりに
 
 
・神の語り掛けを聞こう:
私達が神に聞くとは、どんな方法によってでしょうか。それは、必ずしも神秘的な方法によってではありません。具体的には、

@聖言を読む:完全な御心の啓示。聖書は物語る本である。聖書が私達の心に生きて働く。私達はその様な意味で聖書の言葉に謹聴すべきである。時を取る:聞くためには時を取る必要がある。私達は神の言葉を聞くには余りに忙しくしていないだろうか。私達は神の言葉を聞くためには、耳しいとなってはいないだろうか。耳開かれた僕となりたい。神の言葉が心に入り、キリストの心を持つものとなりたい。神の観点からものを見る訓練が必要である。

A聖霊の囁きを逃さない:「これは道、これを歩め」と語られます。より良く聞くと、よりさやかに聞こえるのです。

B他人の言葉に耳を傾けよう:妻、子、或いは敵を通しても、主は語られます。バラムが道を外れた時、主はロバを通して語りなさいました。勿論、敵対的な声がみんな神の声であるとは思えませんが、神はしばしば敵の口を通しても何かを語りなさいます。その時、徒に自己防御的にならず、振り返って敵の言葉にも耳を傾けるゆとりを持ちたいものです。

・柔らかい心で応答しよう:
ホリス・アボット氏がイザヤ50章から説教してくださったときにお話しされた例話が忘れられません。インドでの話しですが、三つの人形が王様に捧げられました。どれも同じような人形で甲乙つけがたいできばえです。王様は藁を取り寄せてそれを耳に突っ込んでみました。一つは詰まっていて藁を寄せ付けません。もう一つは右から左に穴が開いていてすっと通ってしまいました。もう一つは藁がすうっとおなかの中に入り込んでしまいました。どれが選ばれたかは賢い皆さんはお気づきでしょう。

 
お祈りを致します。