礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年10月26日
 
「病を負い、痛みを担うしもべ」
イザヤのメッセージ(37)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書52章13−53章6節
 
 
[中心聖句]
 
  4   まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
(イザヤ書53章4節)

 
聖書テキスト
 
 
52:13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 14 多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた── 15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。 2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
 
始めに:
 
 
今日のテキストは、イザヤ書の心臓部とも言える、苦難のしもべの預言です。ここに入る前に、この部分の位置づけを概観します。

・51−52章とのつながり:
付け加えますが、このしもべの歌は、前後から独立しているわけではありません。どういう訳か、その流れを見てみましょう。前回お話しましたように、51章と52章前半は、:神の大いなる救いの接近と言うメッセージを語ります。は「聞け」から始まる三つの文節、「さめよ」で始まる三つの文節で成り立っています。

・「聞け―その1」(1-3節):イスラエルの起原の神秘に目を留めよ
・「聞け―その2」(4-6節):救いが近づいている
・「聞け―その3」(7-8節):迫害に耐えよ
・「さめよ―その1」(9-11節):贖い主の腕は力強い
・「さめよ―その2」(17-23節):罰せられたエルサレムは回復する
・「さめよ―その3」(52章1-10節):贖いを賛美しよう

・52:11−12とのつながり:
こうした励ましの預言の結論が11−12節です。「去れよ。去れよ。」との繰り返しの言葉で、捕囚の地バビロンから出るだけでなく、古く罪深い生活スタイルを変えなさい、と厳かな命令が与えられます。罪からの救いが示唆された後に第四の「しもべの歌」が始まるのですが、その中では、神が備え給う完全な救いが示されます。

・四つのしもべの歌:
イザヤ書中の「しもべの歌」との関連で言えば、42章は「しもべの使命」、49章は「しもべの困難」、50章は「しもべの忍従」と題が付けられるでしょう。そして、この52−53章は「しもべがなし遂げる贖い」といえます。

今日はこの珠玉とも言える歌を、その美しさを生かしながら、最小限度の解説をもって、読み進めたいと思います。
 
A.苦難のしもべの紹介(52:13−15)
 
1.しもべは使命を完遂する(13節)
 
 
・「見よ」という書き出しは、最初の「しもべの歌」である42:1と共通です。今まで期待を持って語り続けた世界大の救いを全うするエースの登場という雰囲気です。

・「わたしのしもべは栄える」(別訳「賢く振舞う」)私は別訳が自然であると思います。この場合の知恵とは、与えられた状況において、与えられた使命を全うするためには何を行うべきかを悟り、さらに、それを実行する知恵のことです。この場合に与えられた使命とは、苦難を通しての贖いです。

・「彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」しもべがその贖いを完成した後に、彼は最高度に高揚されます。「高められ、上げられ、非常に高くなる。」と三重の高揚が預言されていますが、これは、主イエスの復活、昇天、着座と符合します(ピリピ2:5−11)。
 
2.人々はしもべの姿に驚く(14節)
 
 
・「多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――」贖いを成し遂げる過程で、しもべは大いに苦しみます。人々は、苦痛で歪んだしもべの表情を見て、一体これが人間だろうかとさえ訝るほどです。
 
3.しもべの業は大きな波紋を生む(15節)
 
 
・「そのように、彼は多くの国々を驚かす。」新改訳に異を唱えて申し訳ないのでスが、ここも「注ぐ」と訳すべきと思います。ヘブル語の「ナーザー」は、「注ぐ」または「ふりかける」を意味します。何を注ぐのか対象が示されていませんが、対象を省略した「注ぐ」と取り、53:10の咎の生贄との関連から、しもべの成し遂げた贖いの恩沢を多くの国人に及ぼす、と見られます。

・「王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」しもべが勝ち取った勝利のあり方は、覇権だけが成功と考える王達にとって意想外のことであり、彼らは口をつぐむのです。メシアなる主イエスが勝ち取った勝利の方法も、人々の想像を全く覆す逆転的な勝ち方でした。つまり、彼の徹底的な辱めと苦しみも彼らには驚きでしたし、彼の高揚も想定外の驚きでした。
 
B.しもべに対する人々の評価(53:1−3)
 
1.しもべに関するメッセージは信じ難い(1節)
 
 
・「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。」この「私達」とはイザヤを含む民衆です。イザヤが受けた預言的啓示は、人間の常識を遙かに越えたものでした。容易に見得る筈の主のみ手は、不信の人々には隠されています。

・「主の御腕は、だれに現われたのか。」主のみ腕とは、イザヤが一貫して主ご自身が民の救いのために働き給うみ腕のことです。その救いは、しもべの苦難を通しての救いという、人々の予想を超える形で現れます。
 
2.しもべは「人間的魅力」を欠いていた(2−3節)
 
 
・「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」宗教的指導者は、通常、そのルックス、弁舌、指導力において魅力的な人です。その魅力で人々をひきつけ、信頼を勝ち得て、人々に行くべき道を示します。それにひきかえ、このしもべは、何と平凡な外観でしょうか。彼のすべてが平凡そのもので、これといった魅力は何一つ備えていませんでした。若枝、根ともひ弱さの象徴です。しかし同時に、「若枝」にはメシア的な意義も含まれていました。イザヤ11:1の「エッサイの切り株からの若枝」とはメシアの預言でした。主イエスは、全く平凡な、というよりも平均以下の家庭に生まれ育ち、庶民としての生活を送られました。世界の救世主を、当たり前のように見える人間として世に送られた、そこに大いなる逆転の発想を見ます。神の救いは、私達の想定外の方法でやってくるのです。

・「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ・・・」しもべは、人々から無視されるような存在です。彼は人々の支持を失い、悲しみを生涯の特色とした人でした。今の言葉で言えば、勝ち組ではなく、完全な負け組みです。肉体と精神の悩みを彼の経験の一部としていました。

・「私たちも彼を尊ばなかった。」しもべがこうした惨めな姿を取ることが、悲しみの中にある人間を理解するためのメシアの道である、という真理を知らなかったイザヤも、一般人の理解に立ち、「私達も彼を尊ばなかった」と痛恨の思いを込めて述懐します。
 
C.贖いのための苦しみ(53:4−6)
 
1.しもべの苦難は罪の身代わりである(4−5節)
 
 
・「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」この「まことに」という言葉の中に、神の啓示に触れた者としての、愕然たる思いを現しています。

・「だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」預言者は、しもべが自分の罪の為に苦しんでいるという因果応報的な観念でしか彼を見られませんでした。しもべを外見で蔑視していたのです。

・「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」しかし、しもべの心臓近くに寄って観察すると、彼の苦難は、私達の「病を負い」「痛みを担い」、そむきの罪のため、咎のため、であることが分かりました。3節で預言者は、しもべの悲しみ、苦しみの故に彼を蔑みました。しかし、この4節で、預言者は、しもべのその苦難が私達の悲しみと苦しみを担うものであるという真理を悟りました。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とは、預言者がしもべの受難を我がものとして捉える信仰を物語っています。

・「刺し通され、砕かれ」とは、しもべの苦しみが徹底的なものであり、痛みの程度においても極限であったことを示します。どうしてそのように徹底的に苦しまねばならなかったのでしょう。それは、私達の罪の深さのゆえです。私達の一つ一つの反逆と罪が、キリストの十字架の釘となって彼を刺し通したのです。十字架で釘を打ったのは、他ならない私であったのです。

・「癒された」とは、1:6のイザヤの告白が背景にあります。「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」どこに行っても、癒されない心の傷が不思議なようにキリストによって癒されるのです。罪を徹底して自覚し、キリストの徹底した苦しみを知るとき、私達の心に徹底した癒しが与えられます。しばしば、私達は「癒し系」の顔、癒し系の音楽、癒しを齎す環境などを求めます。これらは悪いことではありません。しかし、多くの場合、心理的な自己満足に終わります。キリストの癒しは、徹底的な痛みを持つ罪の傷が、徹底的に癒されることを意味します。

・「病を負い」「痛みを担い」という表現に戻って思い巡らします。この負う(ナーサー)と担う(サーバル)という言葉は、レビ記に記された贖いのシステムで使われる言葉です。レビ16:21−22には、「贖いの日」に選ばれた二頭の山羊について語られています。一頭はイスラエルの罪の身代わりとして殺され、他の一頭もイスラエルのすべての罪を負って野に放たれます。このように「負う」「担う」とは、身代わりとなって背負うこと、背負い去ってくださることなのです。正に主イエスは私達の身代わりとして十字架にその命を捧げてくださいました。
 
2.罪は贖いを必要とする(6節)
 
 
・「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」贖いを必要とさせたのは、私達の罪です。私達「皆」です。そう、例外はありません。羊のように牧者なる主から離れて、自分勝手な人生の道を歩いていたものです。神よりの離反、自己中心、これが罪の本質です。

・「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」その赦すべからざる道からの逸脱(ヘブル語のアウォンとは道からの逸脱)の責任は、恰もしもべが張本人であるかのように、彼の上に課せられたのです。そこで贖いが完成したのです。これは、先ほど述べた、贖いの山羊の絵で説明されます。
 
おわりに
 
1.十字架の事実を見つめよう
 
 
十字架の話をすると、多くの人がこういいます、「確かに理屈としては分かるのだが、どうもピンと来ない。二千年も昔の外国での出来事が、どうこの21世紀の私達の傷と関係があるのかがよく分からない。」と。それはある意味で仕方がないことです。しかし、十字架の7百年も前に生きていたイザヤがこの十字架を預言の眼を持って見つめて、癒しを与えられた、ということを覚えたいと思います。私達には、歴史的な出来事としての十字架が与えられているのです。イザヤよりも遥かに十字架に近いところに立っています。
 
2.私達の「傷」を直視しよう
 
 
十字架と共に確かな事実があります。それは、私達が皆罪人だ、しかも自分ではどうにもならない人間だという自覚です。これは自分に正直である人なら誰でも頷けることです。罪の故の傷も含めて、私達は多くの癒しがたい傷を持って生活しています。他人の悪意ある言葉によって受けた傷もあります。失恋の傷もあるかも知れません。肉体の弱さ、疲れ、失望、人々からの誤解等々、多くの傷を負っているのが人間の現実です。
 
3.十字架の救いを私に当てはめよう
 
 
それを全部背負って下さったキリストを自分の救い主として新しく仰ぎたいと思います。主を仰ぎ、自らの重荷を委ねる時、不思議な、そして完全な癒しを体験することが出来るのです。祈りましょう。
 
お祈りを致します。