礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年11月2日
 
「屠り場に引かれて行く小羊」
イザヤのメッセージ(38)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書53章7−12節
 
 
[中心聖句]
 
  7   ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
(イザヤ書53章7節)

 
聖書テキスト
 
 
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かないほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。 10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。 11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。 12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
 
始めに
 
 
イザヤ52:13−53:12は、第四「しもべの歌」(#4)ですが、「第五の福音書」とも呼ばれています。十字架の出来事の数百年前に書かれながら、キリストの苦しみを映画で見るかのようにリアルに描写し、しもべの苦難を通して救いが全うされるという意味を深く解説しています。先週はその前半(52:13−53:6)を取り上げました。特に53:4から「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」を中心に、私達の痛み・苦しみを担われたキリストの姿を見ました。今週は後半に入ります。先週学びました前半のしもべの姿は、彼の苦しみを外から見たものですが、後半(7−12節)はしもべの内面にまで立ち入って苦しみの様子を描いています。
 
A.しもべの従順と忍耐(7‐9節)
 
1.忍従(7節)
 
 
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(7節)

・「痛めつけられ」:苦難を自発的に受容

この「痛めつけられ」は、他人の手による肉体的な虐待を意味します。次の「苦しみ」は、文字通りには、「自分を低くする」ということで、「自分をその扱いに任せる」「自発的にそこへ向かって行く」ことです。

・「小羊と雌羊」:生贄の動物のように

小羊と雌羊にたとえたのは、その前の6節で、人間を羊に例えたところから来ています。6節の羊は、自己中心で、愚かで、罪深い人間のたとえとしてですが、7節の羊は、従順で、汚れなきメシアの例えとして使われています。エレミヤも、自分を「ほふり場に引かれて行くおとなしい子羊のよう」(エレミヤ11:19)と譬えていますが、その羊は非常に受動的です。しかし、7節の羊は、ある目的を持って黙々と、しかも自発的な意思を持って父なる神に従うさまを示しています。その目的は8節で「主の民のそむきの罪のため」であると説明されます。また、彼が死に当たる罪を犯していないことが9節で「彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかった」と説明されます。つまり、彼自身の罪のための死ではなく、誰かの身代わりとしての死であります。つまり、この羊のように、というのは、生贄とされる小羊のようにという意味なのです。バプテスマのヨハネが、主イエスに出会ったとき、「見よ、これが世の罪を除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と叫んだのに符合します。

・「口を開かない」:目的をもっての沈黙

しもべが口を開かないのは、諦めのためではなく、神の御心に従って決然とその苦しみに立ち向かう様を現しています。主イエスがその御顔を固くエルサレムに向けなさった時の様子(ルカ9:51)を示唆しています。

沈黙という点では、主イエスの受難の時と全く符合します。大祭司の尋問に対して、主は沈黙を守られました。マタイ26:62−63「大祭司は立ち上がってイエスに言った。『何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。』しかし、イエスは黙っておられた。」裁判の時、全くの黙秘ではありませんでしたが、愚かな質問、特に祭司長、長老たちの訴えに対しても全く答えなさいませんでした。マタイ27:11−14「総督はイエスに『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』と尋ねた。イエスは彼に『そのとおりです。』と言われた。しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。そのとき、ピラトはイエスに言った。『あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。』それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。」

自分の正しさを100%確信している人は、他人の非難に対して敢えて自己弁護する必要はありません。特に、その非難が余りにも歪んでおり、見当外れである場合には、答える値なしと無視してよいのです。
 
2.人々の無理解(8節)
 
 
「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」(8節)

・「しいたげと、さばきによって」:不法な裁判による死

不法の裁判によって、かれの命は地上から取り去られました。それは、後段の「生ける者の地から絶たれた」とか、9節の「彼の墓は・・・設けられ、・・・葬られた」という言葉と重ねると、完全な死を意味していることが分かります。つまり、主のしもべは、象徴的にではなく、文字通り死を経験します。

・「民のそむきの罪のために」:身代わりの死

それは、罪が現実であるように、彼の死もまた現実でなければならなかったからです。彼の死が、人々の「そむきの罪のため」であったことが、再度示されます。

・「だれが思ったことだろう」:人々の無理解

しかし、真に残念なことに、同時代の人々はその死の重大さに心を向けませんでした。
 
3.葬り(9節)
 
 
「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」(9節)

・「彼の墓は悪者どもとともに」:逆転の預言

しもべの死を辱めるために、かれの墓は犯罪人と共に設けられました。そして、死の時には富める者と一緒になりました。これを「富める悪人」と取ることも可能でありますが、前段と後段を分けて、墓は犯罪人と共に設けられるはずだったのに、富める人と共に葬られることになった、とも解釈できます。それは彼の正しさの反映だったといえましょう。

この預言は、主イエスが犯罪人とともに十字架に付けられ殺されましたが、葬りの時には、アリマタヤのヨセフの特別な申し出によって、彼の墓に入れられたことで成就しました。
 
B.しもべの勝利(10−12節)
 
 
この3つの節は、この「しもべの歌の」大団円です。罪無き人がなぜ罪人の代わりに苦しんで死ぬのか、どんな気持ちでするのか、それは歴史の中の小さな一事件以上のものなのか、こうした質問に答えるのです。ここで描かれるしもべは、非常に受け身的に見えますが、このしもべは受身的に、じっとその身代り的な刑罰を耐えなさったのではなく、自ら選んで、進んでその命を捧げ、最後の血の一滴までも私達のために注ぎつくされたのです。
 
1.復活の栄光(10節)
 
 
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(10節)

・「砕いて、痛めることは主のみこころ」:主のご計画としての贖い

しもべを砕くことは、主の御心でした。文語訳では、「エホバは彼を砕くことを喜びて・・・」となっています。加虐趣味的な意味ではありません。主のしもべを砕くことが主のみ心に適ったことである、いう意味です。苦難を通しての救いは、偶々起きたことではなく、神の深い御心に基づく計画であったのです。その計画は、しもべが自らを咎の生贄として捧げた行為で完成されました。咎の生贄は、多くの生贄のシステムの中で唯一個人的な罪のための生贄です。その個々人の咎がしもべによる生贄に転嫁されるのです。

・「彼は末長く」:復活の保証

その使命を終えたしもべは、その子孫の繁栄を見、その生命は長く保たれる、と記されています。この節の「もし」は、仮定ではなく、「・・の時には」という確定的な条件を示します。さて、このしもべは死んだ筈ではなかったのでしょうか。そうです、死んだのですが、生き返ったのです。これについては今年のイースターで「永遠に活きるしもべ」という題で詳しく語りましたので省略します。「彼は末長く、子孫を見ることができ・・・」とあります。この「子孫」とは、彼の贖いによって救いに与る霊の子孫、つまりクリスチャンたちのことです。それを多く「見る」とは、教会が建設され、拡がっていくことにほかなりません。
 
2.魂の満足(11節)
 
 
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」(11節)

・「彼は・・・満足する」労苦の結果に満足

しもべは、その労苦の結果を見て満足します。しもべが神の計画を知って、それを実践したことが、多くの人々を義に導いたのです。更に11節では「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」とありますし、12節には「わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」とあるのは、何を意味するのでしょう。これらは、まごうかたなく、主のしもべが活きていることを示します。彼は死んでいるのにです。この矛盾は「復活」という出来事を入れる以外に解決されません。11節の「多くの人を義とし」も同様に、彼の犠牲を通して、多くの人の罪が赦され、きよめられることを意味します。
 
3.大きな報酬(12節)
 
 
「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(12節)

・「強者たちを分捕り物として」:戦利品の取得

しもべの献身的な行為の故に、彼は戦利品を分かち取ることができます。12節の「分捕り物」という表現は、戦いの勝者が敗者を生け捕りにし、更に戦利品を味方に分配することです。エペソ4章にキリストが信仰者に賜物を与える根拠として十字架の勝利を示しているのは、その意味です。

・「自分のいのちを死に明け渡し」:注ぎだす奉仕

その献身的行為は、己の血の最後の一滴までも注ぐ姿勢から出たものでした。パウロもまた、自分が「注ぎの供え物となっても喜ぶ」(ピリピ2:17)と、自らを注ぎだす姿勢を示しています。

・「そむいた人たちとともに数えられ」:罪人との同化

また、罪人と同じレベルに立ち、彼らと同化する謙遜からきたものでした。
 
終わりに:再び小羊のイメージ
 
 
神の御子でありながら、主のご計画に全く従い、私達の罪を担って、十字架の苦しみを忍ばれました。そして、それは私達が進む道であることを、イエスの近くに居たペテロが教えています。私達はこの矛盾に満ちた社会で、不当な迫害や攻撃にぶつかります。そこを静かな心を持って耐えることこそが、私達が召された目的だ、とペテロは言っています。Tペテロ2:18-24を読んで祈りましょう。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私達が罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです。」
 
お祈りを致します。