礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年11月16日
 
「主を求めよ。お会いできる間に」
イザヤのメッセージ(40)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書55章1−7節
 
 
[中心聖句]
 
  6,7   主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
(イザヤ書55章6-7節)

 
聖書テキスト
 
 
1 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。2 なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。4 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。5 見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
 
はじめに:55章は53章の続き
 
 
53章では、主のしもべの苦難を通して贖いが成し遂げられることが預言されました。54章は、その贖いの成就に基づいた、回復への備えが命じられています。そして、55章は、成し遂げられた贖いに立って、その救いを受け入れなさいという招きがなされます。

1−7節が今日のテキストですが、この中には12の命令形が含まれています。拾ってみましょう。1 出て来い。食べよ。買え。2 食べよ。3 出て来い。聞け。6 求めよ。呼び求めよ。 7 捨て去れ。帰れ。帰れ。
 
A.大いなる招き(1-5節)
 
 
その招きは、次のような特色を持っています。
 
1.誰でも招かれている(53:11)
 
 
金のないもの、渇いているものが招かれています。救いの機会は、お金のあるなしに関係なく提供されます。これは、53:11の「多くの人を義とし」という預言に符合します。つまり、53章に預言されている万民のための贖いが成就した今、万民に対してその救いを受け入れるように招きがなされるのです。
 
2.豊かさが約束 (vs貧しい命)
 
 
・豊かな命:
豊かな水、ぶどう酒、乳、脂などに象徴される豊かな命が約束されます。これらただ、必要を満たすだけでなく、私達に喜びを与え、命をリフレッシュします。その豊かさ、楽しさ、活力、幸福が私達すべてに約束されています。ある注解者は、ややユーモラスにここを説明して、「神の招きは、難民キャンプにおける給食のような配給への招きではなく、宴会への招きなのだ」と言っています。

・貧しい命:
逆に、私達はお金を払って、つまらないもの、価値のないものを買い求め、そして失望します。本当の満足は、主ご自身を喜ぶ喜びの中にあります。ダビデは言いました、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇 16:11)と。
 
3.無代価で恵みが
 
 
・タダで価値あるものを(?!):
「金を払わないで・・・買い、代価を払わないで・・・買え」(1節)と矛盾した命令がなされています。早く言えば「貰いなさい」ということなのですが、こんな持って回った言い方をする理由は、本当ならばものすごく値段の高いものなのだが、特別な思いはかりで「ただで与えられるよ」という招きなのです。イザヤの時代には、今日のような貨幣経済が発達していませんでした。金や銀が物の売買に使われるのは、特別に価値高いものの売買の場合だけでした。

・キリストの救いも:
キリストの救いは、正に、代価を払うことなく与えられる恵みです。なぜなら、キリストが私達の払うべき代価を既に払ってくださったからです。イザヤ55章で無代価の救いが提供されているのは、53章に預言されている主のしもべの代価があったからです。

・「無代価性」を本当に捉えよう:
皆さんは、本当にこの「無代価性」を捕らえていますか。ここを捕らえ損なうと、信仰とか、キリスト教とは言っていても、何か響きが違ってくるのです。良い人間になろうとする努力が私達を救うのではありません。奉仕、奉仕と、奉仕を積み重ねることで、神の愛顧を勝ち取るのでもありません。私達が救われたのも、今あるのも、これから救われるのも、ただただ恵みによるのです。ただで頂く恵みによるのです。
 
4.変わらない愛の契約
 
 
・ダビデ契約の本質は、一方的愛:
永遠に変わらない愛の契約への招きです。それは、ダビデに対して与えられた約束と同じです。Uサムエル7:8-16を見てください。「8 今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。9 そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。・・・12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」そこには、神の一方的な、驚くべき祝福の約束があります。そのことが特に強調されているのが、詩篇89篇です。「私は、主の恵み(直訳は「愛」の複数)を、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」(詩篇 89:1)それは、ダビデへの契約に表れています。「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。4 わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」(詩篇 89:3-4)「わたしは、ひとりの勇士に助けを与え、民の中から選ばれた者を高く上げた。わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。」(詩篇 89:19-20)ダビデの普遍的支配がその内容です。「わたしは彼の前で彼の仇を打ち砕き、彼を憎む者を打ち倒そう。・・・わたしもまた、彼をわたしの長子とし、地の王たちのうちの最も高い者としよう。」(詩篇 89:23、27)その王国の永遠性「わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。わたしの契約は彼に対して真実である。わたしは彼の子孫をいつまでも、彼の王座を天の日数のように、続かせよう。」(詩篇 89:28-29)

・「契約の愛」(ヘセド)の貴さ:
「契約の愛」をヘブル語ではヘセドと言います。永遠に変わらない愛、状況によっても、極端に言えば相手の不真実によっても変わらない愛が注がれています。ダビデの家は、実際のところバビロンによって滅ぼされたのですが、その契約の祝福は忘れられず、主イエスの建てられた神の国において実現しました。
 
B.悔い改めへの招き(6,7節)
 
 
1−5節まで、来るように、買うように、食べるように、という、いわば抽象的な言葉で命じられていたことが、より具体的に示されます。それは「悔い改めへの招き」です。これについて三つの角度から捉えたいと思います。
 
1.悔い改めへの招き(7節)
 
 
・捨てること:
罪の道を捨てる、これは回心です。汚れたはかりごとを捨てる、これは聖潔です。ウェスレーは、信仰者の罪に関して、悔い改めの必要を迫っています。ノンクリスチャンはそれなりの、クリスチャンはそれなりの悔い改めがあります。私達のライフスタイルを、主に適うものとラジカルに変えることです。

・帰ること:
主に向かって帰ること。これも、未信者の回復だけを言っているのではなく、信者の中にも、中途半端な献身ではなく、全き献身をもって主に向かうことを示唆しています。

・求めること:
主を求めることとは、他に救いはないことを深く自覚して、罪と自己中心にさよならして、主に心を捧げることです。
 
2.赦しと憐れみの約束
 
 
・赦しと憐れみに富んでおられる神:
豊かな赦しとは、ヘブル語では、赦しの増加という言葉が使われています。増加とは面白い言葉です。完全な回復への確信が与えられることです。しもべが打たれた傷のゆえに私達は癒されます(53:5)。豊かな赦しで思い出されるのは、放蕩息子のお父さんです。息子が真実な悔い改めをもって家に戻ってきた時、息子を掻き抱き、息子が用意してきた詫びの言葉を途中までしか言わせずに、食事を用意させ、指輪を嵌め、着物を着させ、靴をはかせたあの物語です。主は赦しと憐れみに富んでおられるお方です。

・キリストのあがないが基礎:
豊かな赦しと憐れみの基礎は53章にある贖いの恵みです。キリストの贖いの血潮があって初めて赦しと癒しが可能となるのです。そうでなければ、私達は罪の深刻さを知らないまま、いい加減に赦され、いい加減にまた罪を犯してしまうことでしょう。キリストの残酷なまでの苦しみは、私達の罪の恐ろしさの代わりだったことを本当に悟ったならば、もう一度罪に戻る気持ちにはならないことでしょう。
 
3.今というチャンス(6節)
 
 
・今は機会が与えられている:
今求めなさい。求めるとは、神との交わりと神への礼拝を求めて、真剣に祈り、近づくことです。神の恵みは無限でありますから、悔い改めの機会も無限に延ばされる、と私達は考え易いものです。しかし事実は違います。今というときの重要性を私達がしっかりと捉えるようにというご配慮でしょう、主は、時の限りを定めておられます。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Uコリント6:2)とある通りです。

・この機会は閉じられることがある:
悔い改めの機会が何時までも続くものではない、ということに関して、次のことを考えたいと思います。

@私達の肉体の死は、そのチャンスの終わりです。聖書は「セコンド・チャンス(第二の機会)」説(死後に悔い改める機会があるという可能性)を教えていません。しかも、その死は何時来るかわかりません。
A福音を聞き、信仰者の友を持つという環境が長続きする保証はありません。
B悔い改めたいという気持ちには、すでに聖霊の働きが背後にあります。それを敢えて打ち消すと、再びそのような気持ちに戻らない可能性があります。

ある青年がロッククライミングをしていました。切り立った垂直な岩をよじ登って岩のくぼみに身を休めた時、ふとしたはずみに、手にしていたロープを離してしまいました。さあ大変、ロープを失えば絶体絶命です。青年の手から離れたロープは、大空を振り子のように舞いました。青年は、ロープが行って戻ってくる僅かの瞬間に計算しました。「ロープが第二回、第三回と往復をくり返すうちに、その振幅は小さくなって、自分の手の届かないところに止まってしまうだろう。それならば、第一回の往復で捕まえるしかチャンスはない」と。彼はためらわず、戻ってきたロープに飛びついて助かることができました。

チャンスは今しかありません。悔い改めるべき罪、改めるべき習慣、離れるべき交際をそのままにして幸福はありません。「お会いできる間に」主を求めましょう。
 
お祈りを致します。