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1.はじめに |
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今回でネヘミヤ記からの学びは終わりです。前回は「エホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」(文語訳)という幸いな聖言を中心に語られました。 |
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2.エルサレムでの生活再開-キリスト教に規則は…? |
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イスラエルの民も学者エズラに励まされしっかりと信仰に立って、再建されたエルサレムでの生活を開始しました。ところがです、ネヘミヤが報告のために、バビロンのアルタシャスタ王のところに行ってる間に(13:6)、またまた規則違反を犯してしまいました。ネヘミヤは大いにきげんを悪くし(13:8)、大祭司を断腸の思いで処断しました(13:28)。そして、新しい規定を定めました。 |
そもそも、キリスト教には規則や規定はありません。エッ!と思われる方もあるかもしれません。旧約聖書には十戒があり、レビ記には事細かな律法があるじゃないですかとおっしゃるでしょう。新約の時代でも、「あれをしてはいけません。」とか「これはだめです。」と規則だらけだと思い、窮屈な宗教はごめんだと、信仰がもてないでいます。たしかに、そうです。生活の基準としての規律があります。でもアダムとエバが生活していたエデンの園には何の規律もありませんでした。本当に自由でした(創世記2:16)。聖にして善なる神様とともにいたからです。唯一、善悪の知識の木から食べてはいけないというものだけです。それは、知る必要がない「悪」の知識から遠ざける愛の神様の配慮なのです。ところが、悪魔の巧妙な誘惑に陥っていのちの木から実を採って食べてしまったのです。それこそ己を神とする最大の罪です。このことによって、聖なる神に似せられて創られた人が、神に似ても似つかわしくない、汚れた罪人になってしまったのです。 |
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3.神様が与えたのは…? |
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この状態をなんとか回復しようとして、神様は選ばれた民のイスラエルに律法を与えなさいました。聖なる神様と同じに聖なる者となる(レビ19:2)ために、事細かに日常生活のすべてを教えてくださったのです。さらに、この律法をもって『罪』を教えてくださった(ロマ7:7)のです。でも、出エジプトして乳と蜜の流れるカナンの地に入れたのは、ヨシュアとカレブだけでした。まことに、罪の力は絶大です。正に、「分かっちゃいるけどやめられない」のです。パウロもローマ書7章で「わたしは、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」(7:24)と嘆いているのです。 |
この罪の問題を解決するために、愛の神様は最終手段として、愛する神の一人子であるイエス様を私たちに与えてくださったのです。イエス様を救い主と信じ、悔い改めることで私たちは罪から解放され(ロマ8:2)罪の奴隷状態から自由になった(ガラテヤ5:1)のです。さらにねんごろな神様は聖霊を遣わされて、私たちが律法を守ることができ(ローマ8:4-7)、聖なる者として下さいました(Tテサロニケ5:23)。 |
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4.おわりに: |
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新約聖書の恵みにまで話が行ってしまいましたが、ネヘミヤも汚れと異教的なものから「きよめ」るために、規程を定めたのです。「きよめ」られるために道筋をつけたのです。そして、ネヘミヤ自身がそれを守ることができるように神様に祈っているのです。メソジストの創始者であるジョン・ウェスレーも「キリスト者の完全」を目指し「きよめ」られるために、恩寵の手段を定め、日々実行していきました。それで、あだ名を「規則屋」(規則をきちきちと守る人たち)=メソジストとつけられたのです。規則を守らなければ、得るものも得られません。規則を守ることがかえって「きよめ」を得るのには近道です。私たちが救われたのは聖潔(きよめ)をえさせるため(Tテサロニケ4:7)ですし、真実な神様はそれをしてくださいます(Tテサロニケ5:24)。恩寵の手段を日々実行していきましょう。お祈りします。 |
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