礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年11月23日
 
「すべての民の祈りの家」
イザヤのメッセージ(41)
 
竿代 照夫牧師
 
イザヤ書56章1−10節
 
 
[中心聖句]
 
  7   わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
(イザヤ書56章7節)

 
聖書テキスト
 
 
1 主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ。」2 幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。3 主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
4 まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ──わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」
9 野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。10 見張り人はみな目が見えず、知ることがない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。
 
1.56章の概観
 
 
・55章では、しもべの贖いによって成し遂げられた万民のための救いへの招きがなされています。

・56章はその続きと考えられます。特に56章では、様々なハンディを持っている人々が、礼拝と祈りに招かれています。
 
2.二種類のハンディ
 
 
・人種的なハンディ:
第一のハンディは、人種的なものです。後の時代のことですが、ヘロデの神殿において、外国人は一応神殿における礼拝に加わることは許されていましたが、それは、建物の内部ではなく、神殿の入り口にある「異邦人の庭」まで、と定められていました。しかも、内側の建物に入るならば命は保証しない、とギリシャ語とラテン語で書いてありました。イザヤの時代がどういう扱いであったか分かりませんが、もっと厳しかったことが想像されます。ですから、彼らは「主はきっと、私をその民から切り離される。」(3節)と僻みがちだったのです。

・肉体的なハンディ:
第二のハンディは肉体的なものです。男性として、子どもを設ける機能を奪われた人々は、礼拝に加わることが許されていませんでした(申命記 23:1)。彼らは、自分が子どもを持てないという寂しさに加えて、礼拝から除外されるという二重の寂しさを味わっていました。そのような寂しさが、「ああ、私は枯れ木だ」という言葉になって現われました。

・私達のハンディは?:
今日でも、私達は大なり小なり、色々な劣等感を持ちがちです。「私は卑しい生い立ちの人間だから、礼拝の民に加われない。」「私のように汚れた過去を持つものは、教会に行く資格がない。」「私のように取るに足らないものが祈る資格はない。」などなど、クリスチャンになってからでも、こうした、引け目を感じている人がいます。
 
3.ハンディに関係ない祝福
 
 
・安息日を守って正義を行うならば:
しかし、イザヤは語ります。安息日を守り、主のみこころを愛する異邦人や宦官は、他のイスラエル人と全く変わりなく主に近づくことができるし、イスラエル人以上の豊かな恵みと喜びを礼拝の中に見出すであろうと(4−7節)。この祝福の中に、宦官の名前が永遠に覚えられることが記されています(7節)。これは53:13に与えられる祝福と共通です。

・律法主義ではなく、主を愛する心が大切:
安息日を守ることが条件と言いますと、直ぐに律法主義が強調されているのか、と感じてしまう人があるかもしれません。特にこれは1−2節の正義を愛し、安息日を守り、真面目な生活を送るべき勧めの続きですから、そんな印象を与えます。「『公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。』幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。」 しかし、このイザヤ書の大きな流れを見ると、決してそうではなく、主によって与えられた救いの結果として、主を愛し、主の御心を行おう、つまり、律法を守る心が内側に与えられている、ということなのです。そして、その表れが「安息日を守る」ことなのです。卑近な例で恐縮ですが、恋人がいるとして、デートをすっぽかすことがあるでしょうか。愛しているよ、といいながら、約束の日に別のところに遊びに行ったら、その人の愛しているという言葉は虚しいことでしょう。安息日、私達にとっては主の日(聖日)は主との出会いのデートです。いそいそとやってくるのは当然ではないでしょうか。さらに、主の喜びを自分の喜びとし、主の嫌い給うことを嫌う、それが正義ということと繋がります。言い方を変えますと、そのように、主を愛する心を持っているならば、(別な律法に)礼拝の民には加われないと記されているにも拘らず、主の家は彼らのために、門戸を大きく広げられているのです。聖書が矛盾していると考えてはなりません。ハンデを持つ人やある種の外国人が礼拝に加われない、というのは、その時代に目的を持った、いわば時限立法です。その時限立法は、より大きな目的の律法に呑み込まれます。

・エチオピアの宦官の例:
使徒の働き8章に出てくるエチオピアの宦官は、外国人であり、しかも宦官であったという二重のハンディを負いながら、イザヤ書53章を読んで救われたことで、文字通りイザヤの預言を成就しました。彼は、自分の子孫を残しませんでしたが、彼が基となったコプト教会は、2千年経った今でもしっかりと残り、彼の名前を記念しています。素晴らしいことではないでしょうか。
 
4.万民のための家
 
 
・万民に開かれた神殿:
その理由は何でしょうか。神は万民の主であり、神殿は万民のために建てられ、万民のために開かれているからです。ソロモンが神殿を建堂した時、ソロモンはこう祈りました。「あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、――彼らは、あなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕について聞きますから。――この宮に来て祈るとき、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天でこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。そうすれば、この地のすべての民が御名を知るようになるでしょう。」(1列王8:41−43)と。イザヤのこの約束は、外国人が「祈ることができる」というソロモンの理解からもう一歩進んで、「生贄をささげ、受け入れられる」というのです。彼らがイスラエル人と何ら変わりなく、主の民と看做されるという預言なのです。素晴らしいことではないでしょうか。

・私達が神殿:
この預言を実現したのがキリストの贖いです。私達(異邦人)は目に見える神殿を持っては居ませんが、私達自身が霊的な神殿なのです。私達は、主イエスの贖いを通して、神ご自身に近づくことができるのです(ヘブル10:19)。私のような汚れたものが、聖い神に近づくことができるだろうかと尻込みする時、主イエスが成し遂げてくださった全き贖いの業を覚えましょう。主の血潮のゆえに、はばかることなく神に近づくことができるのです。

・開かれた教会:
最後に、私達の教会のことに当てはめて考えましょう。私達の教会は「すべての人のための祈りの家」です。そうではありますが、実際の行動において、特定のタイプや階層や考えを同じくする仲良しグループになってしまったら、主イエスを悲しませます。新しい人が来られても、仲間内で固まっていて入りにくいという印象を与えてしまったならば、「すべての人のため」とは言い難いでしょう。主が門戸を開いておられるのに、私達が門戸を閉めていることになりかねません。あらゆるタイプの人々が集められ、しかも、それが敬虔のスピリットで会合する、そのような教会でありたいと思います。中目黒教会は明日で献堂5周年です。開かれた教会がモットーです。あらゆる意味で開かれた教会を目指したいと思います。どんな人が集っても、自分は受け入れられているという気持ちを持っていただくためには、既に集っているメンバーが、特別に心を開き、温かい心をもって新しい人々を受け入れる心を持ちたいのです。
 
5.祈りの家
 
 
・世俗精神を排する:
更にこの家は祈りの家です。主イエスが、神殿を商売の巣(マルコ11:17)として用いていた悪しき上層階級に向かって非常に怒り、縄の鞭を持って商売人達を追い出しなさった、そのスピリットを忘れてはなりません。先に集っている人々が世的な精神に影響されていましたならば、後から来られた方が、教会も他の世界も変わらないではないか、と思ってしまうでしょう。

・敬虔さが支配するように:
しかし、主を畏れる敬虔な生き方を実践し、事あるごとに祈りに励みますならば、私達は、教会を「祈りの家」として保つことができるのです。この敬虔さが、私達のすべての言動を支配する空気であるように祈り求めたいと思います。

・祈りの霊が燃えるように:
祈りの霊が衰えてはなりません。先週も最近の記録を更新するほど多くの方々が祈り会に集って感謝でしたが、欲を言えば、もう少し頑張っていただいて、祈り会の火を大きくしたいのです。
 
6.おわりに
 
 
イザヤ56:6は、私達の教会の標語として長い間週報のタイトルに掲げられてきました。そうです、それこそが、今主が私達に願っておられることです。この教会が本当の意味で、

・「万民に開かれた」ものとして継続するために、私の果たさねばならない分野は何でしょうか。広くお友達を誘うことでしょうか。そう示されたら、祈ってお誘いしましょう。新しく来た方々を笑顔で歓迎することでしょうか。そう示されたら、今日から実行しましょう。様々なご相談に乗ることでしょうか。そう示された方があれば、実行しましょう。先日のインターナショナル祈り会で、海外から帰国してこの教会に繋がった人々の証を伺いました。とても参考になりました。励まされる反面、反省もさせられました。もっともっと開かれた教会にならねばと思います。地域の緑化運動で、教会が集会所として使われ、皆さんがさしたる抵抗もなく、オアシスホールを使ってくださっています。横田めぐみさんたちの釈放運動に共感して署名までしてくださいました。地域の皆さんにも、帰国者達にも、あらゆる階層に、あらゆる文化の人々に「開かれた教会」を目指しましょう。

・「祈りの家」とするために、具体的に私ができることは何でしょう。礼拝式の10分前に「祈りをもって静かに主を待ち望みましょう」という表示が出ます。まず、この静かな祈りの時を重視しましょう。礼拝に集中するために、他の活動を入れないことも大切です。反省を籠めて申し上げるのですが、学生時代、礼拝説教の半分くらいの時間、クリスマスのコワイアの準備のために裏で駆けずり回って、主イエス様に叱られた記憶があります。共同の祈り、個人の祈りがしっかりと営まれる群でありたいと思います。特に、祈りのための集い、水曜日の祈り会を生命線として皆で確保しようではありませんか。
 
お祈りを致します。