礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年12月7日
 
「おことば通り、この身に」
待降節講壇(2)
 
竿代 照夫牧師
 
ルカの福音書1章26−38節
 
 
[中心聖句]
 
  38   ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。
(ルカ1章38節)

 
聖書テキスト
 
 
26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
 
はじめに
 
 
・ザカリヤからマリヤへ:
先週は、クリスマスの序曲として、主イエスの先駆者ヨハネの父ザカリヤに焦点を当てました。今週は、マリヤに私達の目を向けたいと思います。

・ルカの編集方針:
本題に入る前に、クリスマスについて、何故ルカだけが詳しい記録を残しているかを考えます。私は、ルカの取材と編集の姿勢によると思っています。「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(1:3、4節)という言葉で分かるように、彼は綿密な取材をイエスの関係者たちに行い、それを記録したものと思われます。パウロの同伴者であったルカが、ただ一度パレスチナに長く留まったのは、パウロのカイザリヤ幽囚の時期(AD56−58年)でした。多分その期間をルカは取材行動に使ったと思われます。もしこの仮定が正しいとすると、マリヤは76歳くらいだったことでしょう。マリヤから直接インタビューしたこともありうると思います。
 
A.受胎告知の背景
 
 
さて、26−27節には、マリヤに関する短い紹介が載っています。
 
1.時:ザカリヤへの告知から半年後
 
 
時は、「その六か月目に」と記されています。この前とは、ザカリヤへのみ告げのですから、その半年後ということになります。BC6年くらいのことでしょうか。
 
2.場所:ガリラヤの寒村・ナザレ(地図参照)
 
 

場所は「ナザレ」です (地図を見てください)。ガリラヤ湖から西南西約30kmに位置し、レバノン山脈の最南端の丘の斜面にひっそりと横たわる小さな村里です。旧約時代には知られていないか存在していなかった無名の村でした。主イエスの弟子ナタナエルが、「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)と言ったことでもその無名性が分かります。
 
3.マリヤ
 
 
・ヨセフの許婚者:
さてここで生まれ育った「マリヤ」が登場します。ダビデの子孫であるヨセフという大工のいいなずけでした。当時の結婚の習慣から言いますと、恐らく15,6歳くらいだったと考えられます。マリヤとは、モーセの姉のミリヤムから来た大変一般的な名前で、日本で言う花子さんに当たります。名前も平凡、生まれも平凡、そして育ちも平凡です。

・栄光の家系、しかし今は「只の人」:
マリヤ自身も、また許婚者のヨセフも、輝かしいイスラエルの王ダビデの末裔でした。しかし、今は、経済的にも社会的にも落ちぶれてしまった只の人でした。54節には「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」とありますが、マリヤは、低いものの代表として自分をを引き合いに出しています。多くの画家によって受胎告知が描かれていますが、殆どの画家は大変立派な御殿のような家を背景にしています。しかし、実際はさにあらず、ごく平凡な家であったと考えられます。美しい着物を着て、後光が差している、輝くような美人としてのマリヤというよりも、聖書の描くマリヤは、全く平凡な大工さんの嫁になるはずの田舎の少女です(大工さんは、その当時は余り高い地位ではありませんでした)。でも平凡さを自覚することは大切ではないでしょうか。
 
B.ガブリエルの告知
 
 
さて、そのようなマリヤに対して、ザカリヤに顕れた天使と同じガブリエルが現れます。

 
1.恵まれたマリヤ
 
 
ガブリエルは、先ず「おめでとう。」(文字通りには、「喜べ」)から、その挨拶を始めます。更にガブリエルは、マリヤに対して、「あなたは、恵まれている」(ケカリトーメネー=恵みが付与されている)と祝福の気持ちを表わします。

42節に記されているエリサベツの言葉によると、「マリヤは、女の中の祝福された方」です。しかし、あくまでも、マリヤが神格化されたり、礼拝の対象となることを意味するものではなく、普通の女性でありながら、神の特別な顧み、憐れみを頂いたとの意味です。
 
2.メシアの誕生
 
 
生まれる子供には「イエス」という名前が付けられるべきでした。イエスは、「救うもの」という意味です。そして、その後に続く王国の描写、「ダビデの王位」「とこしえ」の統治、「終わることのない王国」は、待ち望んでいたメシアの特徴です。つまり、マリヤを通して生まれる子供はメシアだったのです。
 
3.奇跡的方法
 
 
ガブリエルは、どのようにしてそれが起きるかというマリヤ質問を退けることなく、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」と聖霊の直接的干渉を示唆します。「いと高き方の力が覆う」とは非常に穏やかな表現で、神の力が火の様にではなく穏やかに働いて実りを実らせるというイメージです。天地創造のときに、「聖霊が地の上を覆っていた」(創世記1:1)のと同じです。
 
4.神の言葉の力
 
 
締めくくりにガブリエルは、「神にとって不可能なことは一つもありません。」と約束します。これは、直訳すると、「神においては、そのすべての言葉について不可能という事はありません。」となります。ここで語られる「ことば」は、ロゴス(一つ一つの言葉)ではなく「レーマ」(スピーチ、或いは、スピーチの構成部分)を指します。分かり易く言いますと、神が語られた言葉が、実現困難で宙ぶらりんになることは決してないということです。

ガブリエルは、神の可能その力強い一例として、エリサベツの妊娠を挙げました。尤も、エリサベツとマリヤと、その奇跡度からいうと相当の開きがありますが、神の可能力の表れという点では共通です。
 
C.マリヤの受容
 
 
・ザカリヤとの相違:
マリヤの最初の応答は質問でした。さて、なぜザカリヤの質問は叱られ、マリヤの質問はお咎めなしだったのでしょうか?ザカリヤの言葉のトーンには、「そんなことが起きるはずがない、そんなことが起きるなら証拠を見せて欲しい」という疑いの心がありましたが、マリヤの場合には、「どのようにそれが起きるのだろうか」という道筋に関する純粋な質問であったと思われます。

・「おことばどおりこの身に」:
マリヤは、ガブリエルの言葉を理解したとき、「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言いました。「あなたのおことば」と言いましたが、その前の節で神の言葉に不可能は無い、という思想を受けていますから、ガブリエルを通して語られた神の言葉、と理解することができます。その言葉が実現するのです。「成る=ギノマイ(成り始める、起きる)」とは、この場合「〇〇に対して実現する」という意味です。「おっしゃった通りのことが私に実現するように」という意味です。NIVでは、”May it be to me as you have said.”です。この言葉が示すマリヤの信仰的な態度をを4点ほど拾いたいと思います。
 
1.従順:主のはしためとして
 
 
自分が神のしもべあるという自覚が「ほんとうに、私は主のはしためです。」という言葉に表れています。文字通りには、「主の奴隷」です。マリヤの素晴らしさは、神の前に自分をいと低いものと見ていたことです。この出来事の後に歌ったマグニフィカートの最初の部分は、卑しい身分の私を引き上げてくださったという感謝に満ちています。48節「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」この「いやしい」という表現から、特に彼女が何かまっとうではない仕事や立場を持っていたと想像しないでください。そうではなくて、彼女の考えた卑しさとは、聖なる神の前に出たときに、真に小さく、卑しいものだとの自覚です。ですから「主のはしため」と言ったのです。逆に言えば、その謙遜の故にこそ、彼女は救い主の母として選ばれたのだと私は思います。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Tペテロ5:5)
 
2.委譲:御心を第一に
 
 
マリヤは、平凡な奥さんになりお母さんになるという人生の夢を放棄して、神の大いなるご計画、特に救いの計画に参画するという道を決断いたします。これは、彼女の願いとは反する選択であったことでしょう。しかし、それが神の御心であるとの納得ゆえに、「御言の通り私になりますように」と譲ったのです。これは、ゲッセマネで「私の願いではなく、御心の通りに」と祈られた主イエスのスピリットに通じるものがあります。

私達も、自分の願いとは違う仕事、環境、使命が与えられることがあります。できれば逃げ出したいと思う気持ちもあるでしょう。しかし、本当にそれが主の御心であると確信させられたならば、「私の願いではなく、御心の通りに」と譲る心を持ちたいものです。
 
3.信仰:み言葉は必ず成る
 
 
処女でありながら子を宿すということは、全く不可能なことであるけれども、聖霊の力が彼女を覆うならば、それもあるという奇跡への信仰が、この中に含まれています。未婚のままで子を宿すということがどのように起きるのか、マリヤは分かりませんでした。しかし、神の言葉と意思と力がそこに働くならば、不可能は無いのだと固く信じることができました。

私達も、こんなことは無理だと思えるような目標に挑戦することがあるでしょう。自分勝手な目標ではいけませんが、主の御心が御言によって確信させられたならば、敢えて、信仰を持って挑戦しましょう。御心に適うことを求めるならば必ず聞かれるのが祈りです(Tヨハネ5:14)。
 
4.献身:茨の道を覚悟
 
 
これから待ち受けているであろうあらゆる非難・誤解・噂話、あるいは石打ちに遭うかも知れないという恐怖、愛する許婚の夫であるヨセフから離縁されるかもしれないという心配、それらのことが少女期を抜け出ないマリヤの心を去来して、思いが乱れたことでしょう。しかし、これらを乗り越えて、主が最善をなしてくださるという献身的な思いが、マリヤの告白に伺われます。

いにしえ、王妃エステルが、民族の救いを訴えるために決死の覚悟で王様に直談判を試みます。その時に、「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)と言いましたが、その覚悟と共通のものがあります。
 
おわりに
 
 
・主の御心に従おう:
私達はマリヤでもないし、ヨセフでもありません。ただのクリスチャンです。しかし、それなりに戦いはあり、葛藤はあり、困難は抱えています。主の御心をしっかりと捉え、それに従う姿勢をマリヤと共に持ちたいものです。

・御心を知る努力を:
どうしたらそれができるのでしょうか?御心を知ること、み言葉を通し、具体的な導きを通し、主は私達を導いていてくださいます。自分の好きなこと、やりたいことをやり通すのがクリスチャンではありません。特に年を取ればとるほど、他の人に帯されて、自分の好まないところに導かれるのがクリスチャン生涯です(ヨハネ21:18)。私達は、最後まで「汝は我に従え」とおっしゃる主に従い続けましょう。
 
お祈りを致します。