礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年12月14日
 
「神をあがめ、賛美しながら」
待降節講壇(3)
 
竿代 照夫牧師
 
ルカの福音書2章8-20節
 
 
[中心聖句]
 
  20   羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカ2章20節)

 
聖書テキスト
 
 
8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
 
はじめに
 
 
キリストの誕生を一番早く告げられたのは、ユダヤの小さな町、ベツレヘムの郊外で夜、羊の番をしていた羊飼い達でした。クリスマスのたびに登場するこの羊飼い達は、一見すると何となくメルヘンチックな形で登場し、その後は福音書記事からは消えていく、何とも不思議な存在です。今日は、このベツレヘムの羊飼いに私達の目を向けて、メシアを待つ人々の心の姿を学びたいと思います。
 
A.待ち望んでいた羊飼い
 
1.預言されていた「ベツレヘム」
 
 
・ベツレヘムの地理:
救い主誕生の舞台は、エルサレムでもなく、ヘブロンでもなく、エリコでもなく、ベツレヘムでなければなりませんでした。

地理的なことから言いますと、ベツレヘムは、エルサレムから南に約8km、丘陵地帯の尾根にあります。他の地方に比べると、降雨量が多く、それが穀物や(無花果、葡萄、オリーブなどの)果物の生産に繋がっています。ですから、この地名が「ベツレヘム」(パンの家)だったのです。

ベツレヘムが世に知られるようになったのは、イスラエルの第二代の王ダビデの出生地としてです。その前に、ダビデ曾祖母ルツが信仰の物語を紡いだのも、このベツレヘムでありました。

・ミカの預言(ミカ5:2):
救い主の誕生地と名指しで呼ばれたのは、BC8世紀、イザヤと同時代の預言者ミカによってです。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)このメシアは、「(羊飼いとして)群を飼う」(5:4)のだとも記されています。この預言はイスラエルの中に脈々と受け継がれ、彼らの期待の拠り所となりました。ヨハネ7:42には「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」と人々が語った事が記されています。

ベツレヘムの羊飼いがこの預言に全く無知であったとは考えられません。ベツレヘムから出る羊飼い的なメシアを羊飼い達が心待ちにしていたことはごく自然でしょう。グリム童話にでてくる樵が、いつものように樹を切っていると木の精が現れて・・・という童話とは違う次元のストーリーなのです。
 
2.羊飼い達の謙りと誇り
 
 
・社会的に低く、宗教的にはアウトカースト:
当時の羊飼いは、社会における大切な役割を担っていながらも、身分的には低く見られていました。特に宗教的には、ラビからは人間扱いされていませんでした。彼らが、安息日を含む宗教上の礼拝に参加しにくかったからです。このように社会的に低い階層の人々にメシア誕生のニュースが最初に届けられたところに、神の知恵というかユーモアを感じます。

・羊飼い少年ダビデの記憶:
低い階層の人々ではありましたが、ベツレヘムの羊飼い達は、ある種の誇りを持っていました。千年も前ですが、かの有名なダビデ王は、少年時代、このベツレヘムの野原で羊を飼っていたといことです。その羊飼いとしての経験がゴリヤテとの戦いの勝利となり、「主は私の羊飼い」という詩篇となったわけですから、ここの羊飼いが、それを意識していたことは容易に想像できます。さらに、もっと遡れば、ダビデの曽祖父のボアズの畑、そう、ルツが落穂ひろいをした畑はその近辺でしたし、その物語は聖書に記され、語り継がれていました。この羊飼い達も、そのようなお話は、幾度と無く両親たちから聞かされていたことと思われます。
 
3.生贄用の羊
 
 
・ミグダル・エデル(見張りの塔)の傍の群れは、神殿での生贄用:
羊飼い達が持っていたもう一つの誇りは、この羊の多くが神殿に献げる生贄としての目的を持っていたことです。ユダヤ人で新約学者であるイーダーシャイムという人が、その著書「イエスの生涯と時代」という本の中で、ベツレヘム郊外にあって、エルサレムよりのミグダル・エデル(見張りの塔)の傍の羊の群れは、普通の群でなくて、エルサレムの神殿に捧げるための特別な群であること、羊飼い達も特別な使命のための人々で、しかも、年間休み無く羊を見守っていたことを指摘しています。普通の羊飼いは、夕方になると羊を囲いの中に入れて、自分達は寝てしまうのです。夜に焚き火を焚きながら羊を見守るというのは非常に例外的な行動です。
 
4.メシア待望
 
 
ですからこの羊飼い達は、生贄用の羊を養いながら、「世の罪をのぞく神の小羊」としてのメシアを待望していたと考えることは飛躍ではありません。少なくとも、当時の人々が持っていた程度のメシア待望は持っていたはずです。そうでなければ、天使たちのメシア誕生に関わるメッセージの意味を直ぐに捉えられなかったことでしょう。
 
B.羊飼いへの知らせ
 
1.天使のみ告げ
 
 
キリスト誕生という驚くべきニュースが最初に伝えられたのは、このような羊飼い達でした。そのメッセージが10-12節です。「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

そのメッセージは、非常に特定的でした。

@特定の日:今日
A特定の場所:ダビデの町(エルサレム)
B特定の目的:民全体の(救いの)ために
C特定の人物:キリスト

そして、それは「喜びの知らせ」であることです。さきに話しましたように、羊飼い達は、「鳩が豆鉄砲を食らったような」奇想天外なニュースとしてではなく、待ちに待っていた救い主がついに与えられたという喜びと感動が彼らの心を包んだことでしょう。
 
2.「しるし」は飼葉桶
 
 
・謙りの徴:
天使たちの告知のもう一つのポイントは、そのキリストが「飼葉おけに寝ている」という点です。

・探し易い徴:
この言葉は、羊飼い達がキリストを見つけるための手がかりを与えるためでした。これから拝みに行こうとも、番地があるわけではないし、どう探したら良いのか、それこそ途方に暮れてしまったに違いありません。ベツレヘムは小さな町ではありましたが、それでもその日は大勢の旅行客で溢れていたし、生まれたばかりの子供も何人かはいたに相違ありません。そこで救い主を見付けるヒントが必要だったのです。「しるし」という言葉の元になったギリシャ語のセーメイオンとは、普通でない事柄で、特徴をもった目立つ行為、出来事、状況を指すことばです。キリストを見つけるのに骨を折る必要はありません。「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」を探して歩けば良い、というわけなのです。飼い葉桶は当然家畜の餌を入れるためであって、赤ちゃんを寝かせる為には出来ていない。その異常さをヒントに、旅行者の為に使われている動物小屋を探して歩けば見付かるだろう、ということなのです。
 
C.羊飼いの喜び
 
1.「ベツレヘムに行こう」
 
 
・迅速行動を生み出した感動:
羊飼い達の行動は迅速でした。生まれたばかりの赤ちゃんが次の日に移動することはありえないし、また、お産をしたばかりのお母さんにお見舞いに行くというのも(少なくとも現代の)常識に反します。だから、明日にしてもいいのではとは考えなかったのでしょうか。また、そんな偉い人を訪問するならば、手ぶらで行っては失礼かも(という日本的な)考えはなかったのでしょうか。あったかも知れません。しかし、羊飼い達は、それらを全部吹っ飛ばして、「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」と行動に移り、そして急いで行って、ヨセフとマリヤを探し当てたのです。急いでいって、というところに、彼らの喜びがはちきれていた様子が伺えます。

・私達の主日礼拝は?:
私達は主を礼拝するために、主と出会うために毎週ここに集まります。主日(聖日)の礼拝は、復活の主と出会うために弟子達が復活日である週の初めの日(日曜日)ごとにパンを裂き、主の現臨を覚えつつ集まったその習慣にならって集まってきます。週毎に、羊飼い達の感動を持って、「急いで行って主にまみえる」という初々しさを失いたくないものです。
 
2.聞いたことを告げた
 
 
羊飼い達は、野原で聞いたばかりの天使のみつげの内容を伝えました。できるだけ正確に、そして感動をもって・・・。それを聞いた人々は当然驚きました。聴いた人々とは、マリヤとヨセフ以外に誰かいたのでしょうか。宿屋のお手伝いさんでしょうか。羊飼いの集団が訪れたことで野次馬のように集まってきた近所の人々でしょうか。分かりませんが、喜んでそのまま受け入れた人と、そんな馬鹿なと冷ややかに聴く人といたことでしょう。その冷ややかな反応も恐れずに、羊飼い達は、天使の現われとそのみつげについて熱心に語ったことでしょう。だからこそ、マリヤをはじめ、何人かの人々の記憶に残り、そして、ルカの記録に残ったわけです。

私達もキリストの証をする時、冷ややかな反応をする人にぶつかります。しかし、主がなしてくださったことについては、だれが何と言おうとも、そのまま証する証人でありたいと思います。
 
3.喜んで帰宅した
 
 
羊飼い達は、「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」のです。み使いの話しが、その通りの現実となったことを自分の目で確かめたこと、そしてその話の内容が世界の救い主の誕生であるというメッセージが本当であるということを確信できたことが、彼らの喜びとなりました。「神様、ありがとうございました。あなたはお約束を成就して下さったのですね。あなたは生きておいでです。あなたはその救いを実現しようとしておられます。あなたの聖名をさんびいたします。」と歌いながら、野原に帰っていきました。

ある事柄が、語られたとおりに起きた、ということは大きな感動を齎すものです。この会堂の土地購入の話し合いのときです。私はルツに与えられたナオミの約束を握っていました。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから。」(ルツ3:18)私は娘ではないけれども、私への約束としてこれを受け取りました。詳しい事情は省略しますが、この土地の所有者であるH氏との話し合いが終わった時、本当にその通りだったと頷きました。事柄が進んだこともさることながら、主が語り給うたように、主が動かしていてくださる、活ける神の業を見て、神を賛美したのです。

この羊飼いは、どうなったでしょう。相変わらず仕事は続けたことでしょう。でも、彼らの心は大きく変わったことでしょう。神のリアリティにぶつかったのですから・・・。

仕事の内容は変わりませんでしたが、彼らの心は、クリスマスの夜の続きでした。
 
おわりに
 
 
神の言葉が、本当にその通りだったと確信するためのステップを三つ捉えて終わります。

1.神の言葉を学ぶこと
2.私達の状況に当てはめて、その実現を祈ること
3.その成就を見るときに、主を崇め、主を証すること

喜びの年末・クリスマスを迎えましょう。
 
お祈りを致します。