礼拝メッセージの要約
(教会員のメモに見る説教の内容)

 
聖書の言葉は旧新約聖書・新改訳聖書(著作権・日本聖書刊行会)によります。
 
2008年12月21日
 
「幼児に『救い』を見る」
待降節講壇(4)
 
竿代 照夫牧師
 
ルカの福音2章21-35節
 
 
[中心聖句]
 
  29,30   主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。
(ルカ2章29,30節)

 
聖書テキスト
 
 
21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。23 ──それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。30 私の目があなたの御救いを見たからです。31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
 
1.アドベントからクリスマスへ
 
 
クリスマスおめでとうございます。経済不況の只中でのクリスマスとなりました。世の中が暗ければ暗いほど、キリストの光を身に帯びて、世界中を照らすものとなりたいと思います。

クリスマスを待ち望むアドベントの3つの日曜日に

@ザカリヤの沈黙とその恵み(イラスト@)

Aマリヤへの受胎告知と彼女の服従(イラストA)

B救い主を待ち望んだ羊飼い達(イラストB)

について学びました。今日は、

C主イエス誕生後、幼子イエスに出会った老シメオンの喜び(イラストC)

についてお話します。
 
2.キリストの誕生:ベツレヘムの馬小屋で(イラストD)
 
 
キリストはBC5年ないしは6年、エルサレムから南に8kmほど離れたベツレヘムという小さな町で生まれました。それも、普通の家ではなく、宿屋に付属している駐ロバ場(今日で言えば駐車場)での誕生でした。誰も知らないような静かな誕生でしたが、野原で羊の番をしていた羊飼いが、天の使いの知らせを受けて駆けつけたために、その地方では一大ニュースとなりました。

 
3.生後40日目の礼拝:エルサレム神殿で
 
 
イエスの生後8日目に、ユダヤ人の慣習に従って「割礼」(男性の包皮を切り取る儀式)を行い、命名式をしました。前から定められていた「イエス」(「救うもの」との意味)と名づけられました。

生後40日目、出産の汚れから母親を清める儀式と、幼子を神に捧げ祝福を頂く儀式がエルサレムの神殿で行われました。両親は生後1ヶ月余の幼子を抱き、全焼のいけにえとして二羽の鳩をもって神殿に詣でました。本来は小羊一頭が良いのですが、ヨセフとマリヤは貧しかったので小羊を買いゆとりはなかったのです。
 
4.「シメオン」という老人
 
 
丁度、ヨセフとマリヤに連れられて神殿に入った幼子イエスを目ざとく見つけたのが、ここに出てくるシメオンという老人です。25節はシメオンの人となりについて次のような諸点を示しています。

@正しい人=その行いにおいて公正な人

A敬虔な=神を畏れその戒めを守る点で注意深い人

Bイスラエルの慰められること=救い主(メシア)を待ち望んでいました。当時シメオンのようなメシア待望の空気が盛り上がっており、エルサレム神殿の周りではメシア待望の祈祷会が組織されていました。84歳の寡婦アンナもその一人でした。その祈りの中で、シメオンは格別な啓示を与えられていました。それが26節で明確に「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」という言葉で示されています。

C聖霊が彼の上にとどまっていた=聖霊の臨在を意識し、その導きに積極的に従おうとしていました。
 
5.シメオン、救い主と出会う(イラストC)
 
 
そのシメオンに運命の日がやってきました。27節「彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。」その日は特別な日である、という聖霊の啓示を彼は受けていました。つまり当たり前の日ではなく、何かが起こりそうな予感を強く感じながら神殿に入ってきました。彼は数多く清めの儀式に与る親子の姿を見ながら、神の示しをひたすら求めていた事でしょう。シメオンが入ってきた時、丁度鉢合わせしたのがヨセフとマリヤそして幼子だったのです。

シメオンは、外見上は何の変哲もない全くの庶民であるヨセフとマリヤに抱かれた幼子を腕に抱き、神をほめたたえました。
 
6.シメオンの喜び:使命が終わった安堵感
 
 
シメオンの賛歌が29−32節に記されています。29節「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」「安らかに去らせる」とは、「釈放する」(apoluoo=let go from, relieve, dismiss)という意味です。「生きる使命を終えたので、生きることから釈放してくださいます。(つまり、安らかに死なせてくださいます。)」と言ったのです。その使命とは何でしょうか。それは「みことばどおり」という言葉に示唆されています。具体的に言えば、旧約聖書の「みことば」でくり返し予言されていた救い主の誕生に関わることです。救い主をその目で見、その知らせを人々に伝える事がシメオンの使命でした。その重責から釈放された今、いつ死んでも構わないという安堵感に満たされました。
 
7.シメオンが捉えた「救い」
 
 
この賛歌は、同時代の人々を遙かに越えた救いに関する洞察をシメオンが持っていたことを示します。次の三点に纏められましょう。

@現在的なもの:
シメオンは「今、私の目があなたの御救いを見た」と確信をもって語りました。外見はフツーの赤ちゃんでしたが、その中に、神の救いの現実を見たのです。これは正に聖霊の示しにより、信仰による救いの把握です。私達も感覚的に救いを捉えず、信仰を持って捉えたいものです。

A万民のためのもの:
「御救いはあなたが万民(all the peoples)の前に備えられたもので」=万民の眼前に準備完了ですよ、と置かれたものです。

B輝かしいもの:
さらに救いは光に例えられています。「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」本当の救い主は、未だ聖書を知らない異邦人には啓示の光であり、聖書を知っているイスラエル人には彼等が待ち望んでいた光栄の冠としての輝きを与える救い主なのです。

これはイザヤ書49:6の引用です。このイザヤ書は救い主としての主の僕が、イスラエル民族の回復だけでは物足らない、もっと世界大の使命を帯びていることを預言しているのです。この様にシメオンは救いは万民のものという広い理解を持っていました。当時の殆どの聖徒は救いはイスラエルに限られると思っていた時代です。かれはキリストの救いが本当ならば、全世界で通用するものでなければならないと確信していました。
 
7.救いは、「想定外」の方法で齎される
 
 
賛歌に続いてシメオンは幼子イエスについていろいろな説明を加えました。ヨセフとマリヤは、ただただ驚き続けていました。彼等は幼子イエスが救いのために生まれたことは聞かされてはいましたが、それがどのような方法で実現するかについては漠然とした知識しかもっていませんでした。

34−35節は、救いの方法についてのシメオンの洞察を示します。難しい言い方をしていますが、私なりに分かり易く纏めますと:

@人間の本質をあぶりだす:
シメオンは両親を祝福するのですが、可愛い子ですね、将来が楽しみです、という月並みなお祝いではなく、この幼子イエスがどのようなリアクションを人々から受けるかを正確に預言します。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められて」いる、しかも「多くの人の心の思いが現われるため」であるとも言っています。救い主は、人間の心をレントゲンのように映し出す事を使命としています。人々の頑なさと傲慢がキリストによって明らかにされるというのです。キリストによって、「人間の心の秘密が明らかになり、本心が暴露され、或いは裸にされ・・・ます」(西田師の講解)。ですから、人々の反発を買うのです。

A自分が犠牲となる:
35節の「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」という言葉はキリストの苦しみの大きさとそれを見なければならない母親の苦しみの預言です。お誕生のお祝いの席で、その子供の死のあり方が予告されるのです。ここに、シメオンが持っていた救い主に対するより深い洞察が示されます。本心が暴露された人間の反発は、イエスを十字架に追いやります。しかし、実はその十字架こそが、救いの道であるとシメオンは喝破したのです。クリスマスの時に十字架まで見通した預言者はシメオンただ独りであったと思われます。

B信頼の拠り所となる:
立ち上がるとは、倒れることの反対です。謙って己の罪と弱さを認めるもの、キリストへの信頼を表すものは、立ち上がることができるのです。
 
8.求道の姿勢こそクリスマスに相応しい
 
 
クリスマスの出来事で、これほど深くキリストを見つめ、そのメッセージを正確に捉えた人物は他にいませんでした。どうして、シメオンはこの様に救いの本質をしっかりと捉えられたのでしょうか。それは、シメオンは長い間、しかも真剣にメシアを待ち望んでいたからでした。長い間、聖書と聖霊の光を求めつつ真剣に待ち望んでいたその求道の姿勢が救い主との確かな出会いを齎しました。

主は今でも、「心を尽くして私を尋ね求める者は必ず私に会う」と語っておられます。今日私達には、キリストの出来事は歴史的な事実として示されています。私達も、馬舟に眠り給う幼子イエスを眺めながら、「私の目はあなたの御救いを見た」と個人的に言えるようなクリスマスを迎えたいと思います。
 
お祈りを致します。